敵が味方で味方が敵で
「シャワー、ありがとうございました」
透のワイシャツを着た栗夢が、しっとりと濡れた身体でリビングルームにやってきた。
荷物らしきものは何一つ持たず、着の身着のままでここまでやってきたという栗夢は、当然自分の着替えも持ってきていなかった。とりあえず自分のワイシャツを貸してやった透だが、しかしそれを着て目の前に現れた栗夢を見て、自分はとんでもないことをしてしまったと悟った。
栗夢が着ているのはワイシャツだけ。つまりその下は、素っ裸なのである。
いくら栗夢にとってワイシャツのサイズが大きく、スカート丈に換算した裾がとりあえず安全圏だったとしても、吹けば飛ぶ装備であることに変わりはない。
「これってもしかして、『かれしゃつ』ですか? すーすーします……」
両裾をつまみ、恥ずかしそうに頬を染める栗夢。
とことこと歩いてきた彼女は、透の隣にぺたりと腰を下ろした。
(……俺は一体何をやっているんだ!?)
湯上り美少女の香りにあてられ、透の頭は沸騰する。
せめて、くるみが今も一緒に暮らしていたら、サイズの合った女の子向けの服や下着とかも貸してやれたかもしれないのにと透は悔やむ。同時に「あれ、女の子同士って下着の貸し借りとかするのか? 上はともかく、流石に下は抵抗あるよな……」とろくでもないことも考えてしまう。
そんな不埒な妄想には全く気付かない栗夢は、透の顔を見上げ花が咲くような笑顔を見せた。
「お兄さま、本当にありがとうございました。わたし、お兄さまだけが頼りだったんです」
「栗夢……」
透の想像通りだった。栗夢には、他に頼ることのできる場所が、一切なかったのだ。
栗夢は小学三年生までをスイスで過ごし、来日後すぐ白桃女学園初等部に編入した。そこでは桜の派閥メンバーを始めとしてたくさんの友達ができたのだが、全寮制の学園に在籍している関係で彼女たちの家に行く機会など滅多にない。栗夢がただひとつ知っていた避難先が、去年の暮れにくるみの誕生日パーティーで訪れた氷神邸だったのだ。
「えへへ、何だか夢みたいです。もう会えないかと思ってたお兄さまと、こうしてお話ししてるなんて……」
栗夢のふにゃっとした笑顔をずっと見ていたいと思う透だったが、しかし、事情を聞かないわけにはいかない。透は心を鬼にして語りかけた。
「栗夢、話したくないかもしれないけど、どうやってここまで来たんだ? そして、向こうでは何が起こってるんだ?」
これが普通の家出なら、とりあえず今日はゆっくり休んで、詳しい話はまた明日という措置もとれるが、しかし栗夢は重大事件の最重要人物だ。ADPは栗夢の行き先を突き止めるべく、交友関係を徹底的に洗っているはずだ。遠くない内に氷神家にも白羽の矢が立つだろう。それまでに、状況を把握し、対策を打たなければならない。
「詳しいことは桜から聞いてる。栗夢はADPの最高幹部の一人なんだってな。具体的に何をしてるのかは、今は聞かない。けど、まだ子供の栗夢が重要人物なら、周りの大人たちは自由にさせないように厳重に管理していると思うんだ。それをどうやって突破したのか、まずはそれを教えてくれないか?」
そう、一番の疑問はそこだった。
十歳の女の子が、一人で秋田の山奥から東京まで旅してくることだけでも一大事なのに、栗夢は宗教団体の最重要人物だ。居住区である遊園地を脱出し、村の外に出て、バスやローカル線を乗り継いでJRの駅まで行き、長距離列車で東京まで。飛行機や長距離バスを使った可能性もなくはないが、だとしても大変なことには変わりがない。
そんな大冒険を、栗夢がたった一人の力で成し遂げられたとは、とても思えなかった。
誰かの協力があったのだ。それが誰かは、透には全く見当もつかないが。
「わたしがここまで来れたのは、助けてくれた人がいたからです。けど、それが誰なのかはわたしにも分からないんです」
「分からない?」
「はい……今でもまだ信じられないお話なんです……」
夢の内容を思い出すように、栗夢は事の顛末を語った。
昨日の朝、栗夢が目を覚ますと、ベッドサイドに用意されている着替えの中に手紙が入っていた。それには、以下のようなことが書いてあった。
外に逃がしてあげます。指定の時間に、指定の場所に来てください。
奇跡が起きたのだと、純朴な栗夢は感激した。
ここに来てからというもの、凡そ栗夢の視界に入る人間といえば、彼女を信仰対象の「人形」としか見なさない、筋金入りの信者ばかりだった。彼ら彼女らは栗夢を意志と感情を持った人間だと思っていない。自分たちを救済するために生み出された人形だと本気で思っている。
それゆえに、脅迫状が届いて以降「聖地の平和をお守りください」だの「聖なる力で悪を滅ぼしてください」といった懇願は山ほど頂戴するが、栗夢の身を案じたり避難を勧めるような言葉は、終ぞ聞くことがなかった。
栗夢は絶望していた。助けてくれる人はいない。逃げ出すことも叶わない。自分はここで、テロリストに惨殺されて死ぬのだと、閉じた心の奥底で冷たく悟っていた。
しかしこの土壇場になって、救いの手が差し伸べられた。蜘蛛の糸が降りてきた。
もちろん、悪意ある者が仕掛けた罠の可能性もあった。だが、これを逃したらもう二度とこんなチャンスはやってこない。栗夢は手紙を信じることに決めた。
公務の間の自由時間に、栗夢は指定された場所にやってきた。多忙な栗夢の詳細なスケジュールは、一般の信者にまで知らされてはいない。手紙の置き場所から考えても、その人物はかなりの上級信者である可能性が高い。もしかしたら、七導師の誰かかもしれないとまで栗夢は思った。
指定された場所は、資材や物資を置いておく倉庫の裏側だった。昼間でも薄暗く、人っ気のない一帯はやや不気味だったが、危機を脱することへの期待と高揚で、栗夢はむしろうきうきしながら相手を待っていた。ところが。
突然背後から薬品を嗅がされ、そこで栗夢は意識を失ってしまった。
「あの時は……あっ、わたし死んじゃうんだって思いました」
だが栗夢が危害を加えられることはなかった。
目が覚めると、彼女はコンテナの中にいた。そして傍らには、懐中電灯とメモが一枚。
「ロワイヨム・エトワーレのある緋斗潟村は四方を山に囲まれていて、外に出るためのトンネルは人が何とかすれ違えるくらいの大きさしかないんです。だから物資や資材の移送は専用のヘリを使うんですけど、わたしはヘリに積まれたコンテナの中で目を覚ましたんです」
懐中電灯で照らして読んだメモには、今後の逃走手段について記載されていた。
このヘリは大館駅近くの教団施設に着陸する。うまく隙を見て逃げ出せ。ポケットの中に列車の切符と当座の金を入れておいたから、それで東京に出て、後は自分でどうにかしろ。
「着陸後、何とか見つからずに施設を出ることができて、そして駅に行って指定された列車に乗りました。東京に着いて、とりあえずごはんを食べて、それで……ごめいわくだとは思ったんですけど、他に頼れる人がいなくて、お兄さまのところに来ました」
おしまいです、と言って栗夢はふぅと息を吐いた。
(……何というか、すごいとしか言いようがないな)
こんな大胆な計画を思い付き、実行し、そして成功させてしまうなんて。
栗夢の話を聞く限り、この人物が相当の幹部クラスであることは間違いがない。その人物を味方にできたら対ADPが格段に楽になるなと透は思ったが、それは難しいだろう。
教団の象徴を逃がしてしまうなんて、最大級の裏切りであり、罪だろう。例え幹部であったとしても、それが明るみに出れば糾弾と断罪は免れない。だからこそ、その人物は顔も名前も明かすことなく、その過程で意識を奪うという欺きを働いてまで、こんな方法を採ったのだろう。徹頭徹尾身分を隠し通すつもりの人物にコンタクトを取り協力までとりつけるというのは、現実的とはいえない。
それよりも今はまず、栗夢を労うのが先だろう。
「大変だったよな……俺、気の利いたことなんて言えないけど、でも、栗夢が無事に戻ってきてくれて本当に嬉しいよ。だって、大事な妹だからさ……おかえり、栗夢」
「……ただいま、お兄さま」
言うと同時、栗夢は透に抱き付いた。
胸、二の腕、てのひら、たくさんのぷにぷにが一気にやってきて、透は思わず変な声が出そうになる。何せ、今の栗夢はワイシャツ一枚なのだ! あんなところやこんなところが、薄布一枚越しに押し当てられて、もう知覚するなという方が無理な相談だった。
「そ、そうだ。時間も経ったし、また桜に連絡してみよう。今度は繋がるかもしれない」
先程電話をかけてから一時間以上が経っている。何か取り込んでいて出れなかったのだとしても、大抵の事態ならその中でも連絡できる態勢を整えているはずだ。何せ桜は、学園第三位の派閥の長なのだから。
だが、携帯を取ろうとした透の手を、栗夢が制した。
「栗夢?」
「桜には、連絡しないで」
透は言葉を失った。
こんな状況にあっても天使のように明るかった栗夢の声とは思えない、断固とした拒絶の響き。その顔は青ざめ、瞳には怯えの色が浮かんでいた。
「ど、どうしてだ? 本家と分家の軋轢とかを心配してるのか? けど、そんなのは大人の問題じゃないか。桜はそんなんじゃ……」
「嫌ぁぁぁぁぁっ!」
栗夢は耳を塞ぎ、うずくまってしまった。
透は、もうどうしたらいいのか分からない。
(どうなってるんだよ……桜の言っていた「傷つけてしまった」がこれなのか? けど、これは姉妹喧嘩なんて可愛いもんじゃない。一体何が……)
「桜は、敵です……」
手は震え、焦点の合わない目を虚空に向けながら、栗夢が零した。
その一言は、混乱に混乱を重ねていた透を、更なる混沌の底へと突き落とす。
「砦桜は……わたしを殺そうとしてるんです……テロリストとも仲間かもしれません。今度こそ、わたしを殺す気なんです……」




