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どきどきばするーむ

 ありえない。


 今ここに、いるわけがない。

ほんの数時間前に、桜から聞いたばかりではないか。


 砦栗夢は、東北の山奥にある教団の聖地で、テロリストから命を狙われる恐怖に震えているのだと。


 それが、どうして、ここに……


「会いたかった……お兄さまあぁぁっ!」


 透が混乱から脱するより早く、栗夢がこちらへ駆けてきた。

透も、半ば反射的に駆け寄る。その時。


「ひゃわっ?」


 先程降ったゲリラ豪雨でぬかるんだ地面に足を取られた栗夢が、バランスを崩した。

このままだと良くて泥まみれ、倒れ方を誤れば怪我をしかねない。


 咄嗟に透は跳んでいた。


 ヘッドスライディングの要領で栗夢の落下予測地点へとダイブする。

直後、透の全身をぐにゃりとした泥の感触が襲った。次いで、「はわわっ」という栗夢の声が、遥か頭上から透の耳に降ってくる。


「あ、あの……だいじょうぶ、ですか?」


 泥だまりに突っ伏した透に、栗夢が本気で心配する声をかけてくれた。

彼女は上手くバランスをとり、透に助けられるまでもなく自力で転倒を回避していたのだ。


(……消えたい。今すぐこの場から消え去りたい)


 透の精神を過去最大級の恥ずかしさが直撃した。

けれど、ともあれ、栗夢は怪我をせずに済んだ。なら、良しとしておこう。


 透は「ああ、大丈夫」と答えつつ、おずおずと顔を上げる。

栗夢が心配そうにのぞき込んでいた。間違いなく、栗夢だった。お人形のような愛くるしい顔立ちも、日本人離れした亜麻色のふわふわロングヘアーも、ワンピースの胸元から恥ずかしいところが見えてしまっている無防備さも、飼い主を見つめる仔犬のような一途な瞳も、何もかも、透の知っている栗夢のままだった。


「……あ、あの」


 自分が見つめられるのは苦手なようで、栗夢は困った顔で目を逸らしてしまった。

それでようやく、透は自分が栗夢に見とれていたことに気が付いた。


「ごめん、俺、一人で突っ走っちゃって、馬鹿みたいだよな」


 おどけた調子で立ち上がり、制服のワイシャツとスラックスをはたいてみせる。が、乾いた砂ならいざ知らず、こんなどろどろにぬかるみ切った汚泥がそんな程度でどうにかなるはずもなかった。

とりあえず家に戻ろうと透は思った。できれば栗夢も連れて。山ほどある話を、落ち着いた場所で一つずつしていきたかった。


「そんなことありません! お兄さまは、わたしのために……」


「いや、ホント平気だから。怪我とかもしてないし。ただ、服は替えた方がいいから家に戻りたいんだけど、栗夢は……」


 言いながら、透は境内を見渡してみる。

自分たち以外に、人の姿は見当たらない。

栗夢は、ここに一人で来たのか? それとも、近くに教団の付き人が控えているのか?


「おうちに行っても、いい、ですか?」


 ワンピースの裾を両手でぎゅうっと握る仕草が、透の理性を吹き飛ばしにかかる。

ああ、桜の言っていたことも、浄化術師とやらになれたことも、完全に納得だと透は観念した。


 こんなにかわいいJSに、逆らえるわけがない。


「今、一人?」


「ひとり、です」


「教団の人とかは、知ってるの? 栗夢がここに来てるってこと」


「ないしょです……わたし、家出してきたんです」


「……そっか」


 あ、この会話はやばい。

完全に、家出少女をたぶらかす誘拐犯だった。

透が入ってきた方とは逆側にある鳥居をくぐり、石段を下りた先には派出所がある。いつ警官が来てもおかしくはない。ここは一旦会話を打ち切って、さっさと家に戻るに限る。

善は急げだ。


「じゃ、俺の家、行こうか」



 5



(つーかこれ、もしかして解決しちゃったんじゃ?)


 自宅に戻った透は栗夢をリビングルームに迎え入れると、とりあえず自分はシャワーを浴びることにした。熱い湯にうたれながら、透の脳裏に浮かぶのはそんな楽観的な、しかしできることならそうあってほしいと願わずにはいられない展開。


 栗夢は自分からロワイヨム・エトワーレを脱出し、透たちのもとにやってきた。

ADPや十宗使徒が栗夢の行方を捜し始めるだろうが、こっちにも叢雲という味方がいる。本気で隠遁させれば、隠し通すことは不可能ではないはずだ。同時進行で、安全・確実に敵への対処を行う。

かくして、こちらは一切ダメージを受けることなくミッションコンプリート。


(って感じで事が進めばいいんだが、難しいだろうな)


 真っ先に脅威となるのは、ADPだろう。

栗夢が「ないしょ」でやってきたということは、彼らは今頃血眼になってその行方を探っているはずだ。何せ、教団の象徴だ。いなくなったから、はい次の子とはいかない。信者たちの手前、何としても取り戻そうと動くに違いない。


 ADPの信者数は、公式発表によると30万人。信者は全国津々浦々に存在しているので、どこで目を光らせているか分からない。そして見つかってしまったが最後、「実動部隊」が力ずくで身柄を奪いにやってくる。


(つまり、何よりもまず、「見つからない」ってことが重要になるわけだ)


 砦家そのものが味方になってくれれば楽勝なんだけどなと透は嘆息するが、それを言っても仕様がない。本家は分家を煙たがっているから頼れず、分家に至ってはADPと一心同体。警察に頼ったところで栗夢の両親が親権を盾に訴えてきたらアウトな公算が高い。


 つまり、頼れるのは叢雲の二人と、桜たちだけ。


 その桜には帰宅後真っ先に電話をかけたのだが、いくら待っても応答がなかった。

何かあったらすぐ連絡してと言ったのはそっちだろうと透は憤慨したが、一方で桜の身に何かあったのではという不安も拭えなかった。桜に何かあったということは、くるみに何かあったということでもある。

不安に次ぐ不安が、澱のように透の胸中に積もっていった。桜に連絡が取れなければ、叢雲にも繋がらない。


 一か八か聡馬に賭けてみようかとも考えたが、こちらも依然として応答しない。

もうこの際、明日帰国するクラスメートの留学生に一時的に預けてしまおうかとすら考えたが、彼女の国は「21世紀に残るソ連」と呼ばれるほどの独裁国家なので別の危険に晒されるだけだ。

つまり、


(栗夢を守れるのは……俺だけってことか)


 誰に頼ることもできない。

他でもない自分自身が、正真正銘の王子となって栗夢を守らなくてはならない。

少なくとも、桜と連絡が取れるようになるまでは。


 シャワーを止め、髪をかき上げて鏡に映った自分を見る。

まだ半分中学生のような、華奢な少年だ。こんな自分が、強大な存在から栗夢を守り抜けるのかと不安がこみ上げてくるが、しかし可能不可能以前に、やるしかない。


「そうだ、やるしかない。俺が……栗夢を守るんだ」


 決意を込めて宣言した透の右斜め後ろで、浴室の扉が開いた。

何も考える暇なく、反射的にそちらに顔を向けた透の目に、


 バスタオル一枚の栗夢が映った。


「……」


 数秒間無言で見つめ合った後、透は転げるように空っぽのバスタブに逃げ込んだ。逃げ込んだはいいが、しかし当然のことながら思考は全くまとまらない。


(いやいやいや、何だよこの展開。逆ラッキースケベか? 誰得だよ! それとも、いわゆるご奉仕ってやつなのか? まさか、栗夢はそんなキャラじゃないだろ。でも、もしもそうだとしたら、俺は一体どんな対応をすれば)


 バスタブの中で情けなく頭を抱えている透に、栗夢の声が届く。こちらも透に負けず劣らずの切羽詰りっぷりだった。


「あのっ、わたしのせいでお兄さまが汚れちゃったので、それで、責任を取らなきゃって思って、だから……その……お背中お流しします!」


(あー、さっきのこと、気にしてたんだ)


 あれは自分が勝手にこけただけだと思っている透は、気を回されたことで却って余計に恥ずかしくなってしまった。こういう時は、指さして笑ってくれた方がいいものだ。

けれど、栗夢がそういう風にできない性格なら、フォローするのは兄たる自分の役目。

バスタブから顔だけ出した透は、深呼吸をして、語り掛けた。


「あのな、俺たち兄妹だろ」


「えっ……」


「兄が妹を助けようとするのは、当然のことなんだよ。人間が呼吸をすることくらい当たり前なんだ。だから、責任とかそういう話は、最初から存在しないんだ。分かるよな」


 やや早口になってしまったが、声が裏返ることもなく言い切ることができた。言われた栗夢が困った顔をしていたので、もうひと押し。


「だからこの話はもうおしまいだ。じゃあ俺はもう出るから、栗夢はゆっくりシャワー浴びてきてくれ。考えてみたら栗夢も汗かいてるよな。ごめん、先入っちゃって」


 出ていいかな? と透が言うと、栗夢は赤らんだ顔を壁の方に向けた。今が好機と透は一気に脱衣所へと向かう。浴室の入口には栗夢が立っていたが、豪邸たる氷神家は浴室の扉も大きいので通り抜けることは充分に可能、


「……待って」


 の、はずだった。


「行かないで……いっしょに、いて」


 透の胴に回された栗夢の腕が、有無を言わさぬ力でホールドを決めていた。

それは、腕力によるものではない。


「これを振り払ったら、この子は壊れてしまう」


 胴に回った腕の先、てのひらから伝わる震えが、彼女の心の叫びとなって透をこの場に縫い付けていた。


(……ああ、そうだ)


 透は思い知らされる。

命を狙われている状況で、遠い東北の山奥から東京までの長い道のりをたった一人、おまけにまだ十歳の女の子だ。どんなに心細かっただろう。どれほど人恋しかっただろう。

けれど、そんな不安に勝って、恐怖を押し殺して、彼女はここまでやってきた。来てくれたのだ。

栗夢の口から絞り出される悲痛な響き。それは彼女が浄化術師となって、初めて漏らした本音だった。


「怖かった……寂しかった……こんなのもうやだよ……」


 ずっと堪えていたものが、堰が切れたように栗夢は泣き崩れた。

透にできたのは、よく見ればあちこち痛みが目立つ栗夢の亜麻色の髪を、撫でてやることだけだった。

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