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夏の夜の再会



 3



 南町田から田園都市線、大井町線、目黒線を乗り継いで洗足の自宅に帰ってきた透は、冷えた麦茶のグラスを揺らしつつ、桜から渡された資料に目を通していた。

モデルルームさながらに広く、整然としたリビングルームに彼以外の人間はいない。他の部屋も同様。現在、この家で生活しているのは透だけだった。


 高級住宅街として知られる洗足。この氷神邸もまた、平均的サラリーマンの収入ではまず建てることのできない威容を誇っている。建売住宅なら釣りがくる価格の高級外車が二台ほど収納されたガレージ、桜の派閥の少女全員を招いてのお茶会も開催できる芝生の庭、そのままお泊り会だってできそうな広々とした邸宅。

豪邸と言って差し支えないこの家で、透は一人暮らしを満喫していた。


 この豪邸を築き上げたのは透の父、氷神聡馬(ひがみそうま)。作家である彼は取材のため年中海外を飛び回っており、この家に帰ることはほとんどない。それどころか連絡も滅多に寄越さない。ただ、当座の生活費だけが月に一回銀行口座に振り込まれる。透と父の親子関係は、常にそんなものだった。

しかし透はそんな父に疑問を抱いてはいなかった。そういう人間だと理解しているからだ。


 氷神聡馬は、平和な日常の中では生きていけない人間だった。

常に混沌に身を置きたがった彼は、春に中東でイスラム過激派から武器のレクチャーを受け、夏に東欧で秘密警察にアンケートを敢行、秋にアフリカの違法加工品工場で短期従業員となり、冬に南米でマフィアと同じ釜の飯を食うという一年を毎年過ごしていた。


 デビュー作が推理ものだったため今でも推理作家にカテゴライズされてはいるが、今の聡馬が「取材」という名目で冒険をするために作家を名乗っていることは、業界ではもはや常識だった。実際、近年の著作に小説はほとんどなく、ノンフィクションが大半を占めている。

取材と称して地獄を謳歌するあの男にしてみれば、こんな家を建てたことなどつまらない部類の体験のひとつに過ぎないのだろうと透は思っていた。


 透が母親のことを生きているのか死んでいるのかさえ知らないのも、そんな聡馬の人間性を鑑みれば何ら不思議ではない。子供を作るという体験をしたかっただけ。結婚生活を味わってみたかっただけ。で、飽きたからやめた。もちろん説明なんかするつもりはない。

くるみの母親と半年だけ夫婦だったのも、もう一度結婚生活をしてみたくなったからか、娘を持ってみたかったからか、或いはその両方か。どの道今となっては推測は無意味である。


 自分の興味の儘好き勝手に動き、周りのことなど露ほども気にしない。最低を極めたような男だったが、人生是取材という生き方はある意味究極の作家と言えなくもないなと透は他人事のように考えていた。

この気楽な生活は、まぁそこそこ気に入っている。

特に、今みたいに危険なことに首を突っ込もうとしている時は、邪魔されることがなくてむしろ好都合というものだ。


「これで、三冊目か」


 読み終わったロワイヨム・エトワーレのパンフレットをテーブルに放る。

ADPの教典や会誌、宗教浄化をまとめた文献、緋斗潟村史など、桜から渡された資料は実に三十冊に上った。この全てを完璧に読み込む必要はないが、斜め読みするだけでもかなりの労力を要するのは間違いがなかった。


(それでも、やるしかない……)


 これから透たちが向かうのは、日常から隔絶された非日常、常識の通用しない異常の世界だ。そんな場所でテロが起こることが予測され、その混乱の中で目的達成のため行動することになる。どんな知識が役立つか分からない。故に、あらゆる知識を詰め込んでおく必要がある。剣も魔法も使い魔もないこの世界では、知識こそが装備であり、アイテムなのだ。


(絶望的な確率を、俺が少しでも上げないと……)



 ☆



 栗夢奪還に成功する確率、1%未満。


 十宗使徒を全滅できる確率、3%。


 桜から数字を聞いた時の眩暈のような感覚が、未だ抜けない。

冗談だろ? と尋ねた透に、桜は黙って首を振った。

栗夢の奪還を目的として緋斗潟村に赴く桜の軍勢は、透を含め七人。

桜、くるみ、透に加え、派閥メンバーの少女が一人とその執事、そして砦家特殊部隊「叢雲」の隊員が二人。


「二人、だけなのか?」


 力ない声を何とか絞り出した透に、桜は淡々と告げていく。


「叢雲は、砦家本家が管轄しているの。正確な人数は分からないけれど、機密にも触れることから少数精鋭だと考えられるわ。おそらく、十人前後かしらね。通常は砦家に関連する任務に就いているのだけれど、手が空いている時はフリーで仕事を受けてもいるみたい。……もう分かったわね。分家と仲の悪い本家管轄の部隊は、分家の娘である栗夢のためには動かない。たまたま手の空いていた二人に、私が『砦桜という個人』として依頼して、どうにかメンバーに組み込んだのよ」


「お姉さま、依頼料としておこずかい三年分をつぎ込んだ上に、土下座までしたんだよ。二人来てくれるだけでも、すごいことなんだからね」


 桜とくるみの言葉で、透は理解した。本家の利益のためだけに存在する特殊部隊の人間を、フリーの仕事としてとはいえ、分家の人間のために動かす。これが発覚すれば……いや、発覚するだろう。その時、桜は両親などから軽くはない罰を受けることになる。桜は、極めて危険な橋を渡ったのだ。


「くるみさん、姉として当然のことよ。わざわざひけらかすことではないわ。……ただ、悲観することばかりではないの。来てくれる二人は叢雲の隊長と副隊長で、戦闘力、諜報力、知識量で双璧を成す逸材よ。彼らをどう動かすかで、成功率の上昇も見込めるはず」


 力強く言い切った桜の表情には、決意が漲っていた。この持ち駒で、現有戦力で、本気で栗夢奪還という奇跡を実現させようとしていた。


「私は諦めないわ。だから透さんも、どうか力を貸して」



 ☆



 麦茶のおかわりをいれようと、透が椅子から腰を上げた瞬間、携帯が鳴った。

桜か? と思って携帯を取った透の目に飛び込んできたのは、氷神聡馬の名前。


(まさか……俺が緋斗潟村に行くことに勘付いたのか?)


 ありえない話ではなかった。

作家の端くれであり、世界中の厄介事の首を突っ込んでいる聡馬には、当然ながら広く深い情報ネットワークがある。いつどこで誰が透の行動を察知し、それを聡馬に知らせていてもおかしくはないのだ。


(だとしたら……まずいな)


 あのデンジャラスフリークのことだ、あれやこれを取材してこいと口出ししてくるかもしれない。そして、聡馬が本気になれば、透がそれを拒否することは極めて難しい。

例えば、聡馬はこんな家になど全く未練はないだろうから、家の権利の譲渡・売却をちらつかせてくることが考えられる。宿無しになりたくなければ、言う事を聞けと。

もっとまずいのは、聡馬本人が緋斗潟村行きに加わろうとすることだ。その場合、計画の抜本的な見直しが余儀なくされる。

聡馬は海外にいることが多いが、今国内にいないとは限らない。緋斗潟村の入口で待ち構えていることだって、十分に考えられる。


(上等だ、俺の戦いに口出ししようっていうなら、例え親父だろうが関係ない。潰す)


 通話ボタンを押した透の耳に、聡馬の声が入り込む。


「よぉ透、どうだ最近は」


 キャッチボールかよ! と透は聡馬の呑気な調子に苛つきながらも、「別に、可もなく不可もなく」と素っ気なく返した。聡馬はそんな息子の態度を全く意に介さず、「なるほどなぁ~」と笑った。


「ところで、明後日から夏休みだろ? まぁお前のことだから特に心配なんかしちゃいないんだが、高校生活初の夏休みだ、お守りをやろうと思ってな」


「お守り?」


 思いもかけない言葉に、透は面食らう。息子のことなど、放置して久しいオンラインゲームのアカウントくらいにしか考えていないこの父親からそんな言葉が出るとは。


 だが、これはただの前振りでしかなかった。

次の言葉で、透は打算や駆け引きが雲散霧消するレベルの混乱に突き落とされる。


「お前の実の母親の家に代々伝わっていたものだ。隠し金庫に入れてある。場所と開け方を言うから良く聞けよ。二階の……」


「何だよ、それ」


「いや、そのままの意味だが? あいつが、俺と結婚する時に……」


「そんなこと聞いてんじゃねえよ! 今まで何も話してくれなかった母さんのことを、何さらっと話してんだよ! 話せるんなら、もっと早く言えよ!」


 聡馬は、母親の話を一切しなかった。そればかりか、一切の手がかりすら残さなかった。

まるで最初から存在しなかったかのように。

それゆえに透は、自分の母の顔はおろか、その名前さえ知らなかった。


「そりゃお前、R指定だからだ」


「は? 意味分かんねぇ」


「あいつの一族は複雑な事情をお抱えでな、子供が興味本位で手を出しちゃならない領域なんだよ。けどお前ももう高校生だ。探偵の真似事をして色々知識や経験も得ているみたいだし、手がかりくらいは出してやってもいいと思ってな」


 透は奥歯を噛みしめた。

遊ばれている。手の上で転がされている。

何が親父を潰すだ。格が、次元が、違いすぎる。端から勝負になっていない。


「お前の力が本物なら、お守りからあいつに辿り着くこともできるだろう。あいつは、まだ生きてこの世界のどこかにいる」


「な……」


 透が絶句している間に、聡馬は隠し金庫の場所と開け方を早口で説明すると、ハブアナイストリップと言って通話を切ってしまった。それきり電話は繋がらず、透はしばし呆然と立ち尽くすことしかできなかった。



 4



 玄関の扉を閉め、鍵をかける。

すっかり日の暮れた街を、透は最寄りの神社に向けて歩き始めた。


 聡馬の言ったことは本当だと透は思っている。

あの男は大言壮語を吐くが、虚言癖ではない。母親がどこかで生きているというのは、きっと本当のことだ。そして、複雑な事情とやらを抱えているということも。


「お守り」はまだ確認していない。

神社に行って、気分を落ち着けてから取り出してみるつもりだった。

透は特に信心深いわけではなかったが、家の近くにある神社は何となく居心地が良く、頻繁に訪れている内に毎日通うのがルーティーンになっていた。

特に定期試験や体育大会など、忌々しいイベントの前には何とか乗り切れるようにと熱心に手を合わせる。するとどういうわけか、自分でも信じられないような力が発揮できてしまって、乗り切るどころか圧倒的な成果を上げてしまうということが何度もあった。


(狐でも憑いてるのか、いや、ここの場合大黒天か……)


 小山八幡神社。荏原七福神のひとつで大黒天が祀られている。

正月の七福神巡りや九月の両社祭では活況を呈すが、普段は静かな憩いの場である。


(大黒天は当初、豊穣の他に破壊の神でもあった。つまりそれがあの力の正体……なんてな。スポーツはともかく、それじゃ試験で点が取れることが説明できない……まぁ何にせよ、今は栗夢を窮地から救い出すことだ。今回も頼むぜ、大黒様)


 境内に足を踏み入れたところで、そういえばあの時もここに来たなと透は思い出した。

小山という地名が示す通り、神社は小高い丘の上にあり、境内からの眺めは品川百景に選ばれる程度には目に楽しい。眺望絶佳、とまではいかないが、東京タワーの赤色をビルの隙間に見ることができ、去年のくるみの誕生会の後も、皆で連れ立ってここに来たのだった。


 あの時、皆に内緒でそっと透の手をつかんだ栗夢。

ちいさな手が小動物のように暖かくて、思わずどきりとしてしまった。


(あの時はまさか、こんなことになるなんて思いもしなかったけど、栗夢はどうだったんだろうな……もしかしたら、最初で最後のおねだりのつもりだったのかもしれない)


 透にとって栗夢の兄として振る舞うことは、小さな女の子のままごとに付き合うくらいの軽い気持ちだった。どうせ一時の勘違い、すぐに別の相手に夢中になるだろうと。


 しかし、本当にそうだったのか?


 砦家本家が擁する叢雲。

砦家本家の利益のために動くという彼らは、命令さえ下れば分家の人間を殺すことも厭わないかもしれない。そんな連中を、最も近くで見ていた栗夢は、一体どんな気持ちで日々を過ごしていたのか。

自分の日常がいつ終わるかも分からない儚い幻のようなものだとしたら、目にするもの、耳にするもの、触れるもの、そして感じるもの、全てが宝物だったのかもしれない。

その限られた時間の中で、栗夢は透を兄と慕ってくれた。兄と呼んでくれた。

もっと、栗夢にしてやれることがあったのではないか。


(嫌だ)


 この時初めて透は、心から栗夢を失いたくないと思った。

いがみ合っている砦家の連中も、栗夢を祀りあげているADPの連中も、命を奪おうと画策しているテロリスト共も、みんなまとめてぶっ潰してやりたいと思った。

だが、こんな自分に何ができるというのか。


(お狐様でも、大黒様でも、何でもいいよ……誰か俺にチート級の力をくれないかな)


 自嘲して妄想から覚めた透は、何気なく左手を見た。

マンションやオフィスビルが林立する隙間に、今日も東京タワーが赤く輝いている。

そんな見慣れた夜景を、見慣れない少女が眺めていた。

一人だ。

亜麻色の長い髪に空色のワンピース。

おいおい、そんな格好じゃ薮蚊の格好の餌食だぞ……と透が苦笑したその時、


 透が来るのを待っていたように、少女が振り向いた。


(え……)


 少女は、透のよく知る人物だった。

だが同時に、ここにいることなどありえない人物でもあった。

ついさっき、桜から聞いたばかりではないか。彼女は宗教団体の幹部に就任し、秋田にある教団の聖地でテロの脅威に怯えているのだと。


 けれど現実に、彼女はここにいた。


「よかった……会えた……会えました」


 ぼろぼろと涙を零しながら、それでも、砦栗夢は大好きな「兄」へ精一杯の笑顔を咲かせてみせた。


「来ちゃいました……お兄さま」

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