言葉
言葉
図書室の階段を昇ると休憩室が広がっている。
そこここで子供連れの親子、お年寄り、ミニスカートの女性、ヘッドフォンをつけた若者 等が図書室の本を手にまるで瞑想するかのように私の方へは目もくれず本を拡げて何やら考え深げにしている。私は目当ての本を探す為に館内への扉を開けようとした時、私は或る一冊の雑誌の様なものが休憩室の椅子の上に表紙を上にして両開きに伏せてあるのを発見した。誰か席を立って手洗いにでもいっているのだろうと私は思った。しかし何故かその時本の持ち主が帰って来ないという確信を持ち始めたのだ。私は他人の目を気にしながらその本に近づいてゆくと隣にさりげなくまるでその本にはなにも興味がないようにしながら座った。その本の表紙には米国大統領かなにかの写真が載っていた。私はそのことははっきりとは確認せずにすぐに本を手に取って読み始めた。持ち主の帰ってくるのを恐れた為であった。
開かれていたページには医者か何かの対談が載っていた。私はその医者のズル賢そううな顔付きに興味をおぼえその対談に目を通してみることにしたのだった。
A「私には不思議に思えることが2つあるんですよ。言葉の話なんですがね。私はいつも2つの秘密が言葉にはあると思ってるんですよ。いいですか2つです。1つ目はですね。言葉にはなにか神聖なものを表現してはいけないということ。もう1つは、言葉には必ずなにか新しいものを表現する時には必ず新しい言葉をつくって表現しなければいけないということです。いや、違いました。2つ目は取り消します。2つ目はなにかおかしなものを表現することは絶対に避けなければいけないということです。ごめんなさい。うっかりと夏目漱石かなにかの言葉をつかまえて話してしまいました。いやすみませんな。ハッハ。私はいつも思うんですがね、新しいことを表現することは別に構わないと思っているのですが言葉には絶対に踏み込んではいけない領域というのがあってそこを超えたが最後迷宮に入り込んでしまうというのが私の持論でしてな。ハッハ。
私はその持論を身を持って体験するハメになったんですよ。私は安岡憙弘君の『ジャンヌ・ダルク』を読みましてからというものおかしな感じに捕らわれていたんですよ。あの文章にはなぜか余分な修飾が一切書かれていませんな。私はいつもあの文章を読むと非常におかしな感じにとらわれて考え込んでしまうのですよ。ハッハ。私はあの文章を読んで得た感想を文にしようとしたんですがどうしても文になりません。私は困って原稿を丸目た時にハッと思ってもう一度私の書いた文をみるとそこには「私はいつだって決まってなにか普通のことがしたいと思っていた。」と書かれているじゃありませんか。わたしはこれだと思って安岡君の著作を全て調べてみるとそこにはなんと百数個もの「なにか」「決まって」「いつも」「全て」「普通は」「でも私にはいつだってなにかおかしなものが⋯」と言った言葉が散りばめられていたのです。私には個々人のくわしいことまではわかりませんが私にはいつも決まって2つのことが頭の中にあるのです。1つは女性は花のようなものであるということ。1つには女性はアヒルのようなものであるということ。
なにかというと私はいつも決まって思うのですが女性というのは花のかわいらしさとアヒルのかわいらしさの2種類のかわいらしさを持っていましてね。私にはそのことばの意味を問うことは非常にいけないことのように思うのですよ。なぜなら1つ目はなにか神聖なものを表現してはいけないということ。2つ目はなにかおかしなものを表現してはいけないということ。




