第九話
誰かの足音がした。
先の戦闘で飛び散った金属片を踏みしめる音だ。音の間隔からして、一人。
闇夜の中に明かりが灯る。やってきたのはアースィだった。
バサロは素直な驚きを込めて言った。
「お前……本当に戻ってきたんだな」
「やっぱり信じてなかったのね。でもいいわ。何にせよ、あんたは私の言ったことを守ってくれてたんだから」
バサロのことを大目に見ると言っているはずなのに、その口調は低く、暗かった。見れば、怒りを必死に抑えつけた固い表情をしている。
バサロはアースィの内心を計りかねた。
そのせいなのか、どうか。以前ならば他人を突き放すなんて気にならなかったのに、今ははっきり告げることにためらいを覚える。
関係を断ち切るつもりで、口を開く。
「アースィ。俺はもうサニア・ドゥリダには戻れないし、戻らない。だがお前は違う。悪いことは言わないから隊に戻れ。お前なら隊の人間とこれからもうまくやれるはずだから」
「だからさっさと縁を切れって言いたいわけ?」
バサロは視線を逸らし、黙った。
ほんの一瞬だけアースィの表情が緩む。「大丈夫よ」と彼女は言った。
「私も拠点には戻らないから」
「な……に?」
「抜けてきたの、私。組織からね。だからあんたと立場は一緒よ。バサロ」
アースィが近づいてくる。彼女の眉や頬や口元は再び怒りの形に変わっている。しかもより激烈で、深刻な怒りだ。この二年間で初めて見る表情だった。
「あのあと隊長に直訴したの。あれは間違いなくバサロだった。彼に対する発言を取り消して、バサロを迎えに行ってくださいって。でも却下された。『隊の意向は変わらない。お前を除く誰一人として、隊の決定を覆すことを望む者はいない』って、そう言われた」
アースィの言葉遣いが一気に激しくなる。
「二年間! 二年間も一緒にいたのに、あんなひどいことを言うなんて! せっかくバサロが命を懸けて助けに来てくれたのに。仲間の言葉でとても傷ついていたのに。あんな風にバサロを切り捨てるなんて。私、今度という今度は絶対許せない!」
「どうして」
呆然としたまま、バサロは問いかけた。
「どうして、そこまでしてくれるんだ……?」
「当たり前でしょう!? 私にとって、バサロはすっごく大事な人なんだから!」
怒りに任せて叫ぶアースィ。
バサロは何も言えなかった。『当たり前』という嫌いな言葉をぶつけられても、憎まれ口どころか、不快な気持ちすら浮かんでこなかった。ただ心は激しく揺り動かされている。
周囲に沈黙が広がると、アースィはひどくうろたえ始めた。
「あ……いや、その、ね。バサロが組織に来てからずっと一緒だったし、何というか家族的に大事だって。そう、そう言いたかったのよ。あは、あはは」
「似た者同士ということですね」
ふとシャウルが口を挟んだ。
「同様の感情をバサロから感じます」
「シャウル。お前、何をいきなり。俺は別に」
「バサロにとってアースィは大事な人間であり、その関係性は人の言葉で言う『絆』と同義ですすすす」
バサロがシャウルを揺さぶる。「うまく喋れなかったではないですか」と文句を言う聖霊少女に「何をほざいてるお前は」と文句を返す。
「発言の真意を意訳しました」
シャウルはその薄灰色の瞳で、真っ直ぐにバサロを見つめた。反省どころか一片の疑念も感じていない顔だった。
「……ちょっと、いいかしら」
今度はアースィがバサロとシャウルの間に立った。
シャウルに指を突きつける。
「あんた、前までいなかったわよね。一体誰よ」
「こんばんは。私はシャウルです」
「アースィよ。で? 何者なのあんた」
「聞きましたかバサロ。私の慇懃無礼な態度にもかかわらず、彼女はきちんと名乗りを返しました。バサロもこの素直さを見習うべきです」
バサロは額を押さえた。
「自分で慇懃無礼って言うのかよ。確かにさっきの顔は俺でも腹立たしかったが」
「あなたの聖霊ですから」
相変わらず表情を変えないシャウル。無視された形のアースィはバサロに詰め寄った。先ほどとはまた別の怒りで顔が赤くなっている。
「あんなことを言ってるけど、そこんところどうなんですかね、バサロさん」
「待て、落ち着け。確かに奴は聖霊だ。敵の聖霊機械と戦ってたのも、こいつが姿を変えた機体だったんだよ。何で俺のところに来たのかはわからんが、それはまあ、とりあえずどうでも良――」
アースィの拳がバサロの腹にめり込む。容赦のない一撃だった。
「……俺は間違ったこと言ってない、からな……」
「じゃあ何でシャウルが素っ裸なのかも説明できるわね?」
胸ぐらをつかみ、凄んでくる。
バサロは改めてシャウルを見た。彼女が聖霊で、しかも周囲が暗かったせいもあって気にしていなかったが、なるほど、今のシャウルは一糸まとわぬまま均整のとれた裸身をさらしている。アースィより胸囲があることにこのとき初めて気づいた。
「バサロ、安心してください。この身体つきは仕様です」
「ほほう……あんたの聖霊は私より体型がいいことをことさら自慢したいようね」
「だからお前、そんなことは今更だと前から言って」
皆まで口にできなかった。再び打ち込まれた拳に腹を押さえるバサロ。
アースィはシャウルに向き直った。興奮しすぎたのか息が荒く、汗も浮かんでいる。
「とにかくあんた。バサロに、変なことしたら許さない、わよ」
「了解。バサロ」
バサロは顔を上げる。シャウルは言った。
「安全な場所へ移動することを提案します。今すぐに」
「今すぐ? 何か急ぐ理由でも――」
異変に気づき、バサロはアースィに視線を移す。
アースィの身体が右へ左へ揺れる。直後、彼女は力を失ってその場に崩れ落ちた。
照明器具が手からこぼれ、岩場に転がる。
「アースィ!」
抱き留めて顔色を見る。アースィは気を失っていた。顔面から血の気が引いて、額に玉の汗が浮かんでいる。
どういうことだ。さっきまであんなに威勢良く話していたのに。
アースィの額の汗を拭い取ろうとして、バサロは自分の手に付着しているものに気が付いた。
赤黒い血だ。
指の先からしたたり落ちるほど大量に付いてる。
アースィの腹部に染みがあった。上着をはぎ取る。血を吐き出している傷口は、まるで刃こぼれした短剣で抉ったようだった。
アースィの肩をつかむ。
「おい。おいっ、アースィ。しっかりしろ。おい!」
「揺らしては駄目です」
シャウルが傍らにひざまずき、傷口に手を当てる。しばらく無言が続いた。
「アースィの傷の具合はどうなんだ」
「金属片が腹部に突き刺さっています」
言うなり、シャウルはその細い指先を傷口に沈ませる。途端、アースィは弓なりにのけぞり、獣のうめき声を上げた。
手を引き上げる。三本の指が、血に染まった三角形の金属をつまんでいた。
「先の戦闘で飛び散った短剣の一部と思われます」
シャウルが拳で砕いたあの短剣か……!
「ならアースィは、俺たちの戦闘に巻き込まれてこの傷を」
「そうなります」
バサロは舌打ちした。何だって傷を負うのがあの隊長じゃなかったんだと本気で思った。
袖を破り、即席の包帯として傷口に巻く。消毒薬が欲しかった。水ならおそらく組織の連中が立ち去った方向にあるはずだが。
そこまで考えて、バサロはある事実に思い至る。
「ちょっと待て。そうなるとアースィはこんな大怪我を腹に抱えた状態で仲間を運び、ここまで往復して、俺やシャウルを怒鳴り上げたってことか」
「仕方ありません。それが彼女のようですから」
バサロはシャウルを見る。彼女は相変わらずの表情で、相変わらずの口調だった。
バサロは頬を叩く。
「疑問は後だ。まずはアースィを治療できるところまで運ぶ」
バサロは周囲を見回した。腹に大怪我を負ったアースィを背負って移動するのは避けたい。何か担架の代わりになるものがあれば。
「想像力です。バサロ」
シャウルが言った。
「あなたの想像力で、私は望む物に変わるということを思い出してください」
「想像するだけでいいのか?」
「はい。こうやって」
何の躊躇いもなく、バサロの手を自らの胸元に導くシャウル。掌に伝わる感触は滑らかで、柔らかく、そして冷たかった。
「劣情を捨ててください」
「うるさい」
バサロは目をつむり、担架に乗ったアースィの姿を強く思い浮かべた。
シャウルが姿を変える。
光に包まれた彼女の身体は液状になり、アースィの背中の下に潜り込む。そして徐々に寝台の形になっていく。動かないように胸や足を固定する紐まで付いていた。
十秒も経たないうちにアースィを乗せた寝台が完成すると、そのまま何の支えもなく空中に浮き上がった。バサロの腰ほどの高さで浮上が止まる。
寝台からシャウルの声がした。
「こうすれば彼女の身体に余計な刺激はいきません。地形に左右されることもなく、また音も立てずに運ぶことができるでしょう」
「……聖霊ってやつは、こんな芸当も可能なんだな」
「私はシャウルで、あなたはバサロですから。想像力の勝利です」
独特の喋り口にも慣れてきた。
バサロは浮遊寝台に手をやる。端の部分に握りがついていた。前後左右、まったく重さを感じることなく滑らかに動かすことができる。
あとはどこに運ぶか、だ。
「進言します」
シャウルが言った。
「サニア・ドゥリダへは戻らずラウティスに向かうべきです」
「なんだと?」
シャウルの寝台を強くつかむ。
「馬鹿なことを言うな。ラウティスからすれば俺たちは敵だぞ!?」
予想外の進言にバサロは戸惑う。てっきり、どうすれば無事に水路を抜けてサニア・ドゥリダに行けるかを聞けるものだと思っていたのだ。
「人の手に負えない傷はサニア・ドゥリダの人間では癒せません。このまま拠点に戻れば、アースィは大きな不幸に見舞われます」
バサロはアースィの顔を見た。浅い息で、眉間に皺を寄せている。苦しそうだった。
サニア・ドゥリダとシャウルのどちらを信じるか。
確かなのは、悩んだところで事態は好転しないということだった。
寝台をつかむ手から力を抜く。
「わかった。お前の言うとおりにしよう。だが街に入るのも無茶なことには変わりない。お前の力、存分に発揮してもらうぞ」
「了解。必ず助けましょう」
「当たり前だ」
バサロは歩き出す。そして思った。
俺が誰かを信じて行動するのは初めてなんじゃないか。