第六話
ラウティスは、巨大な窪地の斜面を階段状に均した五段の平地からなる。それぞれ上から第一階層、第二階層と呼び、最も底の平地が第五階層だ。
バサロが水路から這い出した場所は、第二階層の縁にあたるところだった。
ここは農耕区画が平地の多くを占めている。この時間、人目につく心配はほとんどない。
その代わり、田畑の四隅に据えられた聖霊石が外敵進入を阻止する防御壁を張っているため、先に進むには何度も遠回りする必要があった。
見晴らしのよい平原まで来て、バサロの足は止まった。水路が地表から消え、再び地下へと潜ってしまったのだ。流れはかなり速い。
付近に民家はない。バサロは顎先の汗を拭う。
アースィたちが使用した水路は第三階層に繋がっている。目指すならまずは上陸地点だ。
バサロは第二階層と第三階層の境となる岸壁を見下ろした。
遙か先に濃い闇が広がっている。夜でも常夜灯が要所で輝く第四階層、第五階層と違い、ここは照明施設の整備が十分でない。
闇の中で、時折何かが光って消えている。
岩壁の縁に四つん這いになり、バサロは目を凝らした。あれは火花だ。金属同士が互いにぶつかりこすれる際の輝きだ。
目が慣れてくるとゆっくりと動く聖霊機械が見えた。それも複数。
誰かが――おそらくアースィたちが――聖霊機械と戦っているのだ。
バサロは土の地面を握りしめた。
断続的に続く戦いの閃光は、次第に勢いと頻度が減っていく。すでに攻撃の手を止めている機体もある。聖霊機械が相手を追い詰めている証拠だ。
バサロのいる第二階層から戦場となっている第三階層まで、高低差は軽く見積もってもニ五○○セラピス(五〇メートル)以上。生身で飛び降りればすみやかな自殺だ。
第三階層に降りる道を探している時間はない。
戦闘は間もなく聖霊機械たちの勝利で終わるだろう。
いけるか。水路でも生き残った俺の身体を信じるか。
武器がなくても、俺が囮になれば。あの隊の連中のことだ、うまく逃げるに違いない。
火花がひとつ、ふたつ、闇に咲く。
バサロは初めて味わう『怖さ』を感じた。
命を失うかもしれない怖さ。
誰かを本気で信じることの怖さ。
自分が変わってしまうことの怖さ。
自分が何者なのかを知る扉を開けてしまうことの怖さ。
バサロは立ち上がる。戦場までは目眩を覚えるほど遠く、暗かった。
人間はこういうとき、何を力にして一歩を踏み出しているんだろう。
「おはようございます」
平淡な口調。どこから聞こえてきた声かとっさにわからなかった。
バサロは懐から聖霊石を取り出す。表面の七色が揺らめいて、声を発する。
「復帰しました。通常の会話が可能です」
「……死んだんじゃなかったんだな」
「はい」
聖霊石が輝き出す。
無機質な石が温かみを持ち、重さを持ち、柔らかさを持ち――
全裸の少女がバサロの腕の中に収まった。
口づけするような至近距離で、シャウルの静かな目がバサロを見つめる。
「あなたはバサロ。私はシャウルです。戦闘行動を開始します」
「戦うつもりか」
「戦わないつもりですか?」
問い返され、バサロは瞬きした。
「現状での戦闘回避は、あなたと私の想定にありません」
口元を緩めてしまいそうになった。
考えてみれば、確かにそうだ。俺は怖さは感じても、逃げたいとは思っちゃいない。
一歩踏み出すきっかけが欲しかっただけだ。
もしかしたら今まで感じていた苛立ちは、そのきっかけが得られないことへの焦りだったのかもしれない。
だがこの女は、なぜ俺の気持ちを正確に汲み取ることができる?
シャウルのおとがいを持ち上げる。
「……お前は、俺のことがわかっているみたいだな」
「はい」
「だったら俺の思う通りにやってみろ。俺が今、何を思っているか、何がしたいか、当てて見ろよ」
シャウルは瞬きした。
なめらかに言葉を紡ぐ。
「戦闘形態に移行します。敵、アステリ型聖霊機械、五機」
再び光があふれる。今度は激しい。バサロの全身を飲み込み、周囲の空気と遮断する。
両手足、そして背中に固い感触。聖霊機械の操縦席にバサロは収まっていた。
正面よりやや下に、聖霊石の輝きを模した七色の円盤がはまっていた。そこから声が響く。
「移行完了。起動、問題ありません。バサロ」
「何だよ」
平静を装いながら尋ねる。七色の円盤がゆっくりと明滅した。
「あなたが今、何を思い何がしたいかを詳細に当てますが、よろしいですね」
やめてくれ、とバサロは言った。改めて言葉にされると恥ずかしい。
シャウルは意外に底意地が悪かった。もしかしたら怒っているのかもしれない。
「それでは代わりに今のあなたを表現する言葉を差し上げます。弱虫、意気地なし、臆病者、どれでもお好きなものを選んでください」
辛辣だった。口の悪さはバサロ並みだ。
逆に気持ちは楽になる。
弱虫。意気地なし。臆病者。結構だ。そういう小物っぽさはいかにも俺らしい。
「じゃあ全部で。……下に乱入する。飛び降りるが問題ないだろ。まさかここまでしといて自信ありませんとか言うわけないよな」
「言いません。あなたは自信がないのですね」
「ああそうだよ。けど何とかするんだ。今ならやれる気がする」
「戦闘終了まで百二十秒と設定」
「蹴散らすぞ」
「了解」
機体に力が漲っていく様子が座面を通してわかる。
見た目は金属質でも、これは『生きて』いるのだ。
次の瞬間、聖霊機械シャウルは跳躍した。第三階層に淀む闇の中へと躍り出る。
人工物にありがちな駆動音は聞こえない。人間が躍動し、息づき、汗ばむような生の感覚がバサロの全身を巡る。
流れゆく景色が操縦席の前面に映し出される。機体をなでる風の動きが、自分の肌に触れたように感じられる。視野が驚くほど広くなり、ほぼ真横まで視界に捉えることができる。
これが聖霊機械を駆る者たちが見ている世界か。
ニ五〇〇セラピスの高さを一気に降下する。地面に着地する際は両膝で柔らかく衝撃を受け止める。まさに人間そのものの動きだった。初めて聖霊機械に乗り込むバサロにできる芸当ではない。いまや機体となったシャウルが自ら動いて見せたのだ。
第三階層の大地は拠点と同じく固い岩がむき出しになっている。着地の痕跡が蜘蛛の巣状に張り付いた。
これもシャウルの力か、照明のない中でも敵の姿ははっきりと見えた。
操縦席前方の画面に映し出された敵の数は五機。以前、バサロたちが拠点近くでしとめた聖霊機械と違い、より人に近い姿をしている。
シャウルが身体を起こす頃には全機がこちらを向いて戦闘態勢を取っていた。意表を突いたはずなのに、反応が素早い。
画面上の敵機が赤い輪郭で縁取られる。さらに画面端の一部が拡大され、敵が追いつめていた者たちの姿が映し出される。
サニア・ドゥリダの潜入部隊だ。
膝を突き、あるいは完全に倒れ込んでいる隊員たちの先頭で、すでに使い物にならなくなった武器を構えているのは、アースィだった。
その姿を見て呆れ、そして感心する。
アースィたちは突然の闖入者に文字通り目を丸くしていた。
彼女らの姿が青い光で示される。数は十二。あらかじめ聞いていた部隊の総人数と同じだった。
「全員の生存を確認。負傷者多数」
「生きているのなら上出来だ」
バサロは言った。
実際、十人そこそこでよく新型聖霊機械五機を相手にできたものだと思う。
「来ます」
シャウルが伝えると同時に三機が動いた。様子見などという悠長なことはせず、一気に勝負をかけてくる。