第三話
ラウティスの政は、『エナ』という人物によって支配されていると言われる。名前以外はほとんどが謎に包まれていて、かろうじて女性だと知れる程度だ。公に出るのはもっぱら数人の官僚である。
サニア・ドゥリダは、エナを筆頭とするラウティス中央のやり方に反発し、敵対してきた。
目的はひとつ。『生存権の確保』である。
サニア・ドゥリダに所属するのは、ほとんどが『聖霊との適正なし』としてラウティスを放逐された者たちだ。彼らに生活の場は与えられず、ラウティスなら『当たり前』にもたらされる聖霊の恩恵に与ることも許されていない。仕方なく、生活空間としては不便な郊外の地下空洞を拠点としている集団だ。
当然、大洪水からは守られない。
どのようにして洪水をしのぐかは文字通りの死活問題だった。
結成当初のサニア・ドゥリダは今よりも穏当で、様々な手段を用いて生き残りを図る一方、ラウティスへの働きかけを続けてきた。
移住、聖霊機械の融通、物資の援助――
しかしいずれも実現しなかった。
話し合いで解決しないのならば実力行使しかない。
こうして反体制組織としてのサニア・ドゥリダが出来上がっていった。
先人たちがつかみ取った実は決して少なくはない。食料や機械部品を調達する経路を確保し、天敵である聖霊騎士団の巡回路や街の詳細な見取り図を把握できるようになったのは確かな成果だ。
しかし、やはり聖霊たちの力が借りられないのはあまりにも大きい。拠点を大洪水から防ぐという根本問題は、まだ完全に解決されたとは言えない。積み上げてきた知識と経験で何とかしのいでいるに過ぎないのだ。
毎年、拠点の一部と同僚の命を失っては立て直すことをサニア・ドゥリダは繰り返している。組織の戦いに終わりは見えない。
バサロもまた時にラウティス潜入任務に就き、一戦交えることだってあるのだ。
「……二〇〇!」
かけ声とともに、両手にひとつずつ持っていた鉄亜鈴をバサロは床に下ろした。およそ三〇〇〇クラピス(五〇キログラム)ある。細くて頼りない見た目を事あるごとにからかわれているため、少しでも見返してやろうと始めた日課だ。わざわざ重量のあるガルディガを武器に選んでいるのもそのためだ。
いくら鍛えても一向に体型に反映されないのは悩ましいところだが。
汗を拭きながら水筒を口に付ける。拠点は地下水に恵まれているから、基本的に節水は考えなくてもよかった。
「あらあら、凄いわねえ。そんなに重たいもの、きっと誰にも持ち上げられないわ」
間延びした声に振り返る。知り合いの女性が二人、戸口に立っていた。声をかけてきたのはそのうち年かさの方である。
万年笑顔の彼女に向かって、バサロは珍しく素直に応じた。
「まだまだ足りないよ。それより、あんたも戻ってきてたんだな。ラティオ」
「むう、年上には『さん』を付けなきゃだよ」
「別にみんな同じように呼んでいるんだからいいじゃないか」
「そういうところは相変わらずね。純粋と言うか頑固と言うか」
「ほっといてくれ」
バサロは言った。ラティオは特に気にする様子もなく、「じゃあ私は報告が残っているから」と言い残して立ち去っていった。
残ったもう一人の女性――バサロと同年代の少女は、戸口に立ったまま動こうとしない。切れ長の目、引き締まった顎先、流れるようにしなやかで活動的な肢体は、彼女の性格をそのまま体現していた。
「アースィ。そんなとこに突っ立って、何か用か」
バサロが言うと、アースィは眉目をつり上げた。
「あんた、ラティオさんと比べて私の扱いぞんざいじゃない?」
「いつも通りだろ。なに怒ってんだよ」
「ふんだ。どうせ私はラティオさんみたく『ぼん』『きゅっ』『ぼん』じゃないですよーだ」
「はあ?」
バサロは呆れた。改めてアースィの身体を見る。二年間ずっと彼女を見続けているが、別段変わりはない。
「そんなの今更だろ」
「うっさい!」
怒鳴られる。
「まったく。普段は無愛想、人嫌いで通してるクセに、ラティオさんには鼻の下のばしちゃって。ああヤダヤダ」
「お前は俺に悪態をつくために来たのか?」
「違うわよ。ちょっと話をしようと思ったの」
そう言ってアースィは上を指差した。地上に行こうという合図だ。
バサロはアースィとともに部屋を出る。
途中、見張り女とすれ違った。今日はアースィが一緒のためか、彼女はただ無視してくるだけだった。
外は抜けるような青空だった。ところどころに大きな雲の塊が浮かび、緩やかな川の流れの中にいるように泳いでいく。
「ねえバサロ。あんたもうちょっと何とかならない?」
二人で岩場に腰掛けるなり、アースィはそんなことを言ってきた。
「もっと人と仲良くしろってか」
アースィがうなずくので、バサロは鼻で笑った。無視し無視されるような人間関係だ。今更どうしようもないし、どうするつもりもない。
「またそんな態度取って。ラティオさんのことは置いとくとしても、バサロあっちこっちで波風立てすぎよ。あんただってサニア・ドゥリダの一員なんだから」
「それで?」
「もう……。ま、今に始まったことじゃないけどさ」
アースィは深いため息をつき、岩の上に座ったまま足をぶらつかせた。
ラウティスの街から微かに人の声が流れてくる。聖霊の力を利用した拡声器でも使っているのだろう。
バサロは言った。
「お前も、俺と関わってるとろくな事にならないぞ」
「だからさっさと縁を切れって言いたいわけ?」
すかさずアースィが返す。顔を逸らし、バサロはさらにつぶやいた。
「俺は、別にひとりでも生きていける」
「ウソばっかり」
「俺はお前と違うからな」
返事は返ってこなかった。
バサロは、アースィを見なくても彼女がどんな表情をしているのか想像がついた。
二年間、もっとも長くバサロと行動をともにしているのが彼女なのだ。
過ごした時間は短くても、幼馴染みと表現していいかもしれない。
――気が置けない、ということは。
自分の闇も伝えやすいということだ。
バサロは、最も親しいがゆえに生じている亀裂を自覚していた。
「……本題の話」
アースィは言った。
「バサロはもう任務の件は聞いてる?」
「ああ。昨日、上から指示があった。何だか知らんが、次の攻略には参加するなってことらしいな。まあ、理由ならいくつも思い浮かぶ――」
「ラウティスの官僚の中で、あんたの名前が出てるそうよ」
さすがに驚く。「ラティオさんに聞いたの」とアースィは告げる。
ラティオは普段、ラウティスに潜入して生活している。あちらでの職業は『娼婦』。とても人気があると聞いている。
彼女が仕事の中で『それなりの立場の者』から直接聞き出した情報であるならば、信憑性は高い。しかしバサロは首を横に振った。
「たまたま同じ名前の奴がいたんだろ」
「ホントにそう思ってる? バサロの記憶に関係するかもしれないんだよ」
すぐに言葉を返せない。
「バサロが聖霊からしつこく攻撃を仕掛けられているのは知ってる。けど、中央の人間まであんたのことを知っているのはさすがに変。だから任務が変更になったのよ。バサロ、次はラウティス潜入の隊だったでしょ」
「そうだとしても、何で俺が任務を外される」
「あんたを守るため、って言ったら信じる?」
「信じない。厄介払いの口実だ」
「そう言うと思ってた。でも本当のことみたい。ラティオさんの話からするとね」
バサロは苛立ってきた。岩の表面を指で小突く。納得できない理由で庇護を受けることに、心がざわつく。
そのとき、アースィがバサロの袖をつまんだ。彼女はうつむきながら言った。
「バサロの代わりに私が出ることになった。いつも通りやってくる。そんでさ、こういう任務をどんどんこなしていって、バサロが、まずは私からでも信じられるようになれば、ね。いつか誰にも気兼ねなく過ごせるんじゃないかって思って」
お前は俺を信じているつもりか。
俺は誰も信じていないのに。
バサロはそう言いかけて、止めた。別のことを口にする。
「何か、らしくないな」
「あはは。そうかもね」
アースィが離れる。いつの間にかバサロの苛立ちは収まっていた。バサロは腰掛けたまま「本題ってのはそれか」と尋ねた。アースィは「うん、そう」と答えた。
そしてバサロに背を向ける。
「さて。そろそろ戻るわ。仕事あるし。あんたも一人でこそこそせずに、身体を鍛えるなら堂々と皆の前で鍛えなさいな。あんなに真面目に取り組んでるところを見れば、皆だって評価を変えてくれるかもよ」
「断る」
「努力の人だと思われたくないか。つくづく頑固な奴。じゃ、私行くわ。風邪引くんじゃないわよ」
手を振りながら笑うアースィ。彼女の背中に向けて「余計なお世話だ」とバサロは言った。