第二十話
バサロの手は届かず、ルミギは遙か下の闇に呑み込まれる。
とっさに穴に飛び込もうとしたバサロを光が包み込む。聖霊石から人間形態に変化したシャウルが、バサロを抱え込んで飛ぶ。
壁を破り、二万セラピス上空へと躍り出た。
薄暗かった視界が一気に色彩を持つ。肌に強烈な風を感じた。
シャウルの顔がすぐ目の前にある。彼女は苦痛に表情を歪めていた。
「申し訳ありません。塔の影響により形態変化ができません。せめて私を緩衝材に」
「馬鹿野郎」
バサロはシャウルの頭を抱え込んだ。
高度は二万セラピス以上。落ちれば人間などひとたまりもない。
落下速度が怖ろしい勢いで増していく。風の音だけが鼓膜を震わせる。
ちくしょう。このままくたばるわけにいくかよ。
その時、バサロに近づく影があった。影と交錯すると同時に落下の勢いが緩まる。
激しく咳き込みながら視界を上げる。見覚えのある聖霊機械がバサロたちを空中で受けとめていた。
『大丈夫か、バサロ』
「ルナティか!」
『すぐに地表に着く。じっとしていろ』
ルナティはさすがの操縦で柔らかく地面に着地すると、バサロを下ろした。
両手両膝を突き、大地の感触を噛みしめ、荒く息をする。シャウルも隣で座り込んでいた。
機体から降りたルナティが心配そうに駆け寄ってくる。「俺たちは大丈夫」とバサロはうなずいた。
バサロの背をさすりながらルナティがたずねた。
「一体、何があったんだ」
「俺にもよくわからない。だが……大変なことが起きているのは確かだ」
顎にしたたる汗を拭い、オリゴン塔を見上げる。
「そういえば、なぜルナティはここに」
「ルミギ様からあらかじめ指示をされていたのだ。オリゴン塔の周辺を聖霊機械で警備するようにと。だが、まさか君たちがいきなり塔の頂上から飛び降りてくるとは思わなかったぞ。おかげで寿命が縮まった」
バサロは息を整えた。
シャウルは一時期の行動不能状態から立ち直ったようだ。視線を合わせると、聖霊少女は首を横に振った。
「ところで、ルミギ様はどちらに。バサロたちと一緒にいたのではないのか」
バサロはすぐに答えられない。
脳裏に闇へと落ちていくルミギの姿が甦ってくる。
「ルミギは……まだあの塔の中だ。エナに囚われたようだ。それだけじゃない。ルミギは俺たちに『逃げろ』と言っていた。エナが、人間たちを根絶やしにするつもりだから」
ルナティは眉をひそめた。
「すまない。事情がよく飲み込めない」
「とにかく。ルナティ、一緒に来てくれ。もう一度塔に入って――」
その時、鐘の音が鳴った。
歪な鉄の塊を力任せに叩いているようなひどく荒い音が、街全体に大音声で響いた。
バサロもルナティも耳を押さえる。顔をしかめた。
「まさか、洪水の接近を報せる音……!? だがおかしいぞ。こんな不快なものではなかったはずだ。鐘が故障? 馬鹿な。聖霊が操っているんだ。ありえない」
ルナティが狼狽えている。
バサロの身体を悪寒が襲う。
オリゴン塔が輝きを強めた。
先端部分がひときわ強く発光し、薄い橙色の膜が放射状に広がる。膜は、直径十五万セラピスの窪地を覆った。
『望郷の天蓋』が発動したのだ。
ルナティが安堵の息を吐いた。バサロを支えて立ち上がる。
「あれが発動したならとりあえず安心だ。さあバサロ。シャウル。落ち着けるところまで行こう。もうすぐアースィたちもこっちに来ることになっているから」
「あいつらも!?」
「あ、ああ。私がバサロたちのいる場所へ行くと聞きつけて、どうしてもと」
バサロの剣幕にルナティは目を丸くしていた。望郷の天蓋が張られたのに何を怖れることがあるのか、とそう言いたげな表情だった。
「バサロ」とシャウルが呼ぶ。バサロはうなずいた。
先ほどよりさらに強い悪寒――畏怖と言ってもいい――を感じたのだ。
「激烈な強制力が広がっています。オリゴン塔からです。危険です」
ただならぬ様子にルナティも表情を引き締めた。「聖霊機械へ」と踵を返す。
そして、それを見た。
ひざまずいた聖霊機械が橙色に発光し、さらに、おこりにかかったように痙攣を始めたのだ。
やがて聖霊機械が橙光に完全に包まれると、直後、まるで風船が破裂するように四散した。バサロたちの頭上をその光がかすめる。
光は滅茶苦茶に飛び回ったのち、オリゴン塔へと吸い込まれて行った。
耳障りな鐘の音は、いつの間にか止んでいた。
ルナティが覚束ない足取りで聖霊機械があった場所まで歩く。
そこで何かを拾い上げた。
聖霊石だった。
「聖霊機械が、消えた、だと」
呆然とつぶやくルナティ。
そのとき、バサロたちを呼ぶ声が近づいてきた。
アースィとウールが小型の移動浮遊機に乗ってこちらにやってくる。
「二人とも、今すぐそれを降りるんだ!」
バサロは大声で警告するが、遅かった。
軽快に走ってきた移動浮遊機が発光を始め、その光が尾を引いてオリゴン塔へと流れていく。力を失った移動浮遊機は地面へ落下した。
投げ出されたアースィとウールは悲鳴を上げる。
バサロは彼女たちの元に駆け寄った。幸い怪我はしていないようだった。
二人とも怪訝な表情を浮かべている。アースィは動かなくなった移動浮遊機をこつこつと叩いた。
「もう。ついてないなあ。これでそのまま避難壕に行こうと思ってたのに」
「アースィ。お前、何も感じないのか」
鬼気迫る形相のバサロに肩をつかまれ、幼馴染みの少女は身を震わせた。
「ど、どうしたの三人とも。怖い顔しちゃって……。もう天蓋は張られちゃったから、洪水が来るまであと二時間ぐらいだよ。歩いて行ったら間に合わなくなるって。急いで近くの避難壕に行こうよ」
「アースィ、ちょっと待って。上を見てごらん」
「上?」
ウールが声をかけられ、アースィが首を空に向ける。
橙色に染まった空に、無数の光球が流れていた。そのすべてがオリゴン塔の頂上部分に吸い込まれている。
「な、何。あれ」
「バサロ、ルナティ。君たちは何が起こっているのか知っているのかい」
顔を見合わせ、バサロたちは首を横に振った。
皆の視線がオリゴン塔に集まる。
「ここを離れましょう。可及的速やかに」
ひとり視線を外したシャウルが言う。彼女はこれまで見たことがないほど険しい表情を浮かべていた。
「すでに身体的影響が出始めています」
「あっ、ウールさん! 鼻血が」
言われてウールが鼻を拭う。流れ出た血が手の甲で掠れる。かなりの量だった。
手ふきを取り出そうとしたアースィが、ふと何かに気付く。
腹に手を当て、それを眼前まで持ってくる。掌に薄く血の痕が付着していた。
「うそ……これって」
「塔の強力な干渉で、あなた方の体内にある聖霊が異常をきたしているのです」
アースィとウールの表情が目に見えて蒼くなる。
ルナティが手を叩いて皆の注意を集める。
「シャウルの言う通りだ。まずは私たちの身の安全を確保しよう。それから次のことを考えるんだ」
「う、うん。わかったよ姉さん」
アースィがうなずきつつ、バサロに身を寄せる。
安心させるように彼女の肩を叩き、身体を支えてやる。
アースィに気付かれないようにシャウルが耳打ちした。
「バサロ。あなたも」
薄灰色の瞳に見つめられ、バサロは鼻をこすった。
指に、微かな血が付く。
すぐに服の裾で拭い取った。
「急ごう」
だが、二〇セラピスも歩かないうちにそれは起こった。
オリゴン塔に集まっていた聖霊の流れが途切れる。
街に鳴り響く鐘の音が変わった。打ち鳴らす音からこすりつける音へ。あまりの不快さに、バサロたちはその場で動けなくなってしまう。
地面にうずくまったバサロは、ある異変に気付いた。
掌に震動を感じる。
鐘の音とは別に、大地を重低音が伝っている。
まさか、と思った。
耳の痛みを堪え顔を上げる。
同時に鐘の音も突如として止み――
ラウティス全体を包み込む巨大洪水がその姿を現した。
「そんな。早すぎる」
アースィがつぶやき、バサロにしがみつく。
大洪水は望郷の天蓋の上を流れる。地表からその様子を見上げていたバサロは、洪水の色がいつもと違うことに眉をひそめた。
澄んだ水の色ではない。泥を巻き上げ濁った色でもない。
濃く鮮やかな――群青。
宵闇が訪れたかのように、空を覆い隠す。
望郷の天蓋の橙色と、洪水の青と、その上から薄く透過してくる陽光と。
周囲は、この世のものとは思えない怖ろしい色に染まった。
水の動きに変化が起こる。
第二階層の真上、ここから南方向の一部で、渦を巻き始めたのだ。
その理由は、すぐに知れた。
望郷の天蓋に巨大な穴が開き、そこから水が流れ落ちているのだ。
絶対防御であるはずの天蓋が、破れている。
穴は加速的に数を増やし、ついには――
「う、そ……だろ」
望郷の天蓋の全てが、消失した。
圧倒的な質量の水が、三万セラピスの高みから街を押し潰す。
ラウティスは大恐慌に陥った。




