第十九話
平穏な日々が一日、二日と過ぎた。
洪水祭も一段落し、ラウティスの街は次第に独特な緊張感に包まれていく。
年に一度、街を襲う大洪水の日が目前まで近づいてきているのだ。
大洪水の接近は地表の数カ所に設置された集音計でわかるようになっている。洪水が来るとその音を拾い、精霊術によって街の鐘を鳴らす仕組みだ。
サニア・ドゥリダにいたころにその鐘の音は耳にしたことがある。およそ、人の命を奪う災害が押し寄せてきたとは思えない、透き通って軽やかな音色だった。
大洪水の当日には、住人は所定の避難壕に逃げることになっているそうだが、大多数は自宅から洪水の様子を眺めるとルナティは言っていた。
街を守る絶対防御――『望郷の天蓋』と名付けられた精霊術が巨大な窪地を完全に覆い、その上を洪水が流れていく光景はとても壮大で幻想的で、住人はそれを見て過ごすのだ。
街を包む緊張感は、一年に一度の行事を待ち望む期待感の表れとも言えた。
サニア・ドゥリダの方でも何とか乗り切ってくれればいいがとバサロは思っていた。
ウールが作成した親書はサニア・ドゥリダに無事届けられ、その後もやり取りが続いている。「まだ公にできるほどではない」とウールは言っていたが、溌剌とした表情は確かな手応えを感じているようだった。
――そんな中で。
バサロとシャウルはルミギに呼び出され、とある場所を訪れていた。
第五階層の中心部にそびえるラウティスで最も高い建造物――『オリゴン塔』だ。
塔の周辺は建物を建てることが許されず、監視小屋すら存在しない。綺麗に刈り揃えられた芝生が広がるのみだ。
ルミギと落ち合った場所も、周囲に何もないただの広場だった。塔の入口すら見当たらない。
近くで見るとオリゴン塔の高さは際立っている。天辺を見ようとすると首が痛くなるほどだ。高さは二万セラピス(四〇〇メートル)を超える。
あまりにも巨大な建物を前に鳥肌が立ち、バサロは腕をさすった。
「凄まじい聖霊の力を感じます」
隣に立つシャウルもまた緊張しているようだった。
バサロはルミギに尋ねる。
「それで? ここで一体何をするつもりなんだ」
応えが返ってこない。いつものように言葉を選んでいるのかと思った。
「今日はアースィの買い物に付き合う約束だったんだ。ただ塔を見てきただけでしたじゃあ、さすがのあいつも納得しないぞ」
肩をすくめる。老人は黙っている。
バサロは心配げに眉を下げた。実のところ、昨日あたりからルミギが塞ぎがちになっていたので、気になっていたのだ。
バサロは頬を掻き、それから意を決して切り出す。
「あの、よ。何か悩みがあるんだったら相談に乗るぜ。あんたには世話になってるんだ。そんな風にしょんぼりしたまんまじゃ、俺の方も気が滅入ってしまう。なあ、何があったんだよ。もしかして俺たちが第五階層に住み始めたことがまずかったのか。あんたの迷惑になるんだったら、別にあの家から離れても」
「そういうことじゃない」
ルミギが遮る。彼は遠くを見る目をしていた。
「お前が、お前たちがあの家にいてずいぶんと楽しい思いをさせてもらっている」
ぼそぼそと、彼は続けた。
「毎朝のようにアースィとルナティがお前の朝食をめぐって些細な喧嘩をしたり、結婚式の準備をしようとするルナティにアースィが反発したり、あの娘二人をまともにいなせないお前が集中攻撃を浴びたりする様子を見るのは……愉快で微笑ましい」
珍しく饒舌だった。だが内容には納得できない。
「……つまり俺の周りが騒がしいのが楽しいのか。まったく、心配して損した」
「白日に晒されていない事実もあります。二日前の夜、寝室で――むぐ」
手で押さえつけて、シャウルの口を封じる。
ルミギはようやく笑った。丸一日ぶりの笑みだった。
「お前たちのおかげでようやく人並みの平穏を手に入れたと……思っている」
「それを言えば、その。俺だって同じ気持ちさ」
素直に、その言葉が出てくれた。
ルミギは髭を揺らし、バサロを見つめる。
バサロは辛抱強く待った。
「ここを」
ルミギがつぶやく。
「この塔を、覚えておらんか」
「……いや」
「二年前までお前が囚われていたのは、この塔の中じゃ」
何を言われたのか、とっさに理解できなかった。
「シャウルが眠っていたのも、この下になる。そして……お前たち二人を逃がしたのは、このわしだ」
「な……んだって」
バサロは改めて巨大な塔を見上げた。
「ここを、出ろ」
ルミギの声が風に乗る。
「今からでも、遅くない。シャウルと、仲間たちを連れて街を離れろ。荒野を越え、遙か先の新天地を求めるのじゃ。シャウルがいれば、必ず生き残れる」
「断る」
考えるより先に口にしていた。
「どういう事情があるのか知らないが、あんたがそこまで言うってことは、はっきりとした元凶があるんだろ。それも聞かないうちに、はいそうですかとうなずけるもんかよ」
「バサロは本気ですよ」
シャウルも言葉を添える。
ルミギは、あらかじめその答えが返ってくるものと思っていたのか、無言のまま塔に視線を戻した。
そして塔の外壁の前に進み出ると、右手を壁面に付けた。
何事かをつぶやく。
滑らかだった壁の表面に黒い筋が走り、突如として四角形の入口が口を開けた。
バサロたちを一瞥し、塔の内部へと入っていく。
バサロとシャウルは顔を見合わせ、ルミギの後を追った。
塔の内部に数歩踏み入った途端、シャウルがうめいて膝を突いた。バサロは慌てて介抱する。
「どうした」
「申し訳ありません……バサロ。私は聖霊石に戻ります。人の姿では、この圧力に耐えられません」
シャウルは目を細めた。
「あなたは、大丈夫ですか」
「ああ。確かに息は詰まるし、鳥肌も収まらないけど……それだけだ」
「最大限の警戒をしてください。私を肌から離さないでください」
バサロがうなずくと聖霊少女は目を閉じた。
わずかな燐光を残し、バサロの手に聖霊石が落ちる。
立ち上がって振り返ると、ルミギは足早に先へと進んでいた。まるで何かから逃れるように。バサロは後を追った。
塔の内部は異様な空間となっていた。
壁、床、天井が発光し、不規則に明滅している。精錬され、研磨された金属のように表面は滑らかで、継ぎ目が一切見当たらない。足音がほとんど響かず、自分が歩いているのかすら曖昧になるほどだった。
しばらく直線の通路を歩くと、円形の部屋に突き当たった。計器の類は一切見当たらない、ただの何もない部屋だ。
バサロとルミギが部屋の中心に立つと、肩に重みが加わった。
部屋の入口が床へと吸い込まれ、壁の景色が変わる。無数の流星が降り注ぐように、全方位で白い光点が下へ下へと流れていく。
頭上方向に向かって上昇しているのだとわかった。
バサロはシャウルの聖霊石をさらに強く握る。彼女はこの空間の中では言葉も交わせないようだ。
暗がりの中で無数の刃物に狙われているような緊張感。精神と身体が押し潰される圧迫感。そのようなものがここには充満している。
バサロはこの感覚に覚えがあった。
体感的には何時間も経過したような間があって、部屋の動きは止まった。
ルミギが手をかざす。壁の一部が透過し、外の光景を映し出した。
視線とほぼ同じ高さに第一階層が見える。わずかだが地表の様子も見えた。
「オリゴン塔の最上部だ。ここから望郷の天蓋が展開される」
望郷の天蓋――ラウティスの街を洪水から守るための絶対防御壁。サニア・ドゥリダの人間が毎年、歯ぎしりしながら見つめていたものだ。
「洪水祭も終わりを迎えた。間もなく洪水がやってくる。今日にでもオリゴン塔は起動するだろう。そうなればもうわしでもこの塔に入ることはできなくなる」
バサロは無言で続きを促した。ルミギがこの光景を見せるためだけにここまで連れてきたとは思えない。
「起動するまでのわずかな時間、この内部は聖霊が干渉できない空間となる。エナも手出しができないはずだ」
エナ――ラウティスの支配者の名がどうしてここで出てくるのだろうか。
聖霊が干渉できなければ、エナも手出しができない。ということは――
「まさか、エナの正体は」
「そうだ。そして彼女は――」
そこまでルミギが口にしたとき。
不意に、彼の肩に手を置く者が現れる。
――珍しくお喋りね、ルミギ。
直接、頭の中に響いてくる声。バサロは全身が総毛立った。
「この、声。夢の、女……!?」
――バサロ。久しぶりね。
声なき声で挨拶を寄越してきたもの。
飴のように蕩けた身体を床から生やし、指の形がはっきりしない手でルミギをつかんでいる『それ』は、人間ではなかった。
「エナ……! なぜだ。どうしてお前がここにいる」
――馬鹿ねルミギ。この塔を作ったのは私なのよ? ここに入っていいのは限られた者たちだけ。聖霊を入れないのは、単に邪魔をされたくなかったからよ。そこの聖霊さんが内部で暴れたら大変だもの。
バサロはシャウルの聖霊石を強く握った。
エナの意識がこちらに向けられる。
――ごめんなさいねバサロ。せっかくの再会なのにこんな姿で。でも大丈夫。もうすぐあなたも私のところに来られるわ。
「俺の夢に出てきて、何度も俺を殺していたのは、お前だったのか。エナ!」
うなるように言う。しばらくして、エナが可笑しそうに笑った。
――そう。そういう風に考えているの。まあ、その方がいいかもね。あなたには。
「何だと」
――苦しみなさいな。この五〇年、私が味わってきたものと比べれば何ほどのこともないじゃない。ルミギの願いを聞き入れて、ここまで『ささやかな悪戯』で済ませてきたけど、もう駄目ね。だってあなた、幸せそうだもの。
溶けた姿のまま上品に笑っていたエナの口調が、突然、豹変する。
――憎らしい人間たちが私の意のままに生かされている様を見るのは楽しかったが、それも終わり。私は全てを還し、人間たちを根絶やしにする。そのための準備は整った。
エナの手がバサロを差す。
――バサロ。あなたたちも対象よ。私としては不本意だけど、ね。
「何をする気だ、エナ」
――五〇年前にも言ったことよ。私は、この街のすべての聖霊たちを解放する。その力で人間たちには消えてもらうわ。跡形もなく。とても楽しみ。
笑い声を残し、エナの身体は床に消えていった。
ルミギが崩れ落ちる。彼の顔には大量の汗が吹き出ていた。
「いかん……まさかここまで力をつけていたとは……このままでは皆が」
「大丈夫か」
ルミギを助け起こそうと手を伸ばす。
「来るな!」とルミギが叫んだ。
「わしが止める。だからお前たちは逃げろ!」
次の瞬間、部屋の中央に大穴が開いた。




