第十三話
翌日。
「おはようございます。行動を開始する時間です」
バサロはシャウルの声で目を覚ました。
昨夜、あれだけ真剣な表情を見せていたのに、もういつもの無愛想、無表情に戻っている。
上体を起こし、伸びをする。眠りが浅かったせいか、まだ頭がぼうっとした。
部屋の中心に向けて、陽の光条が斜めに差し込んでいる。わずかな窓の隙間からだ。
懐中時計を見るが、壊れて使い物にならなくなっていた。「バサロがいつも目覚める頃合いです」とシャウルが言った。
立ち上がり、服の皺を軽く伸ばす。今日のシャウルは、バサロと同色同型の服を着ていた。身長も体型もよく似ているから、並んで立つとまるで双子の兄妹のように見えた。
シャウルとともに階下へ向かう。
ウールの姿は居間になかった。反対側の部屋の扉が開いている。中をのぞくと、所狭しと積み上げられた書類の間で、ウールが毛布にくるまっていた。
無理に起こすのは悪いか。
シャウルを促し、外に出る。降り注ぐ陽光を全身に浴び、バサロは目を細めた。
雲ひとつない晴天だ。蒼い空をずいぶんと久しぶりに見た気がした。
遠くに第一階層や第二階層の岩壁が見える。今までは地上から見下ろすだけだったから、新鮮な気分だった。
近くを流れる水路に行き、顔を洗う。手ですくった水は少し温かったが、透明感があった。上着を脱ぎ、上半身を軽く拭く。すると隣でシャウルが顔を洗い始めた。
「お前には意味ないだろ」
笑いながらそう言うと、シャウルはきょとんとした表情でこちらを見た。水滴が前髪や顎先から止めどなく落ちている。バサロは上着をしぼり、シャウルに放り投げてやった。
さっぱりしたところで家に戻る。ウールはまだ眠っていた。
アースィの様子を見るために奥の部屋へ行く。
ここは日中でも薄暗かった。適当な時機にアースィを陽当たりのよい部屋へ移動させた方がいいかもしれないと思いながら、灯りを点けるために燭台に向かう。
「誰?」
突然の誰何にバサロは立ち止まる。その拍子に、申し訳程度に片付けられていた書類が崩れた。
シャウルが落ち着いて照明を灯した。
バサロは声の主を振り返る。
大怪我を負って寝たきりになっているはずのアースィが、起き上がって寝台の端に腰掛けていた。
「あ。お、おはようバサロ。えと、おはようでいい時間帯だよね」
「お、おう」
うなずいてから、バサロはアースィの側に駆け寄った。
「驚いた……。もう起き上がって平気なのか。お前、腹に大怪我抱えてんだぞ」
「う、うん。もう大丈夫」
「またやせ我慢してんじゃないだろうな」
バサロは目を細めた。
あれは誰が見たって深刻な怪我だった。一日やそこらで快復できるものではない。
アースィの額に手をやり、顔色を観察する。
「……熱も汗も引いてる」
照明の橙色の光越しだが、血色も悪くない。
「傷の痛みは?」
「別に、ないよ。だから包帯も換えなくて大丈夫」
アースィは横腹を押さえた。痛みを堪えて、と言うよりバサロに傷を見せないようにする仕草だった。釈然としないまま、バサロは一歩離れる。
アースィが控えめに言う。
「ありがとねバサロ。手当てしてくれたんでしょ。この包帯とか」
「まあ、気にすんなよ。俺たちはもう一蓮托生なんだ」
「そっか。えへへ……」
嬉しそうに表情を緩める。
本当に元気そうだ。あの傷薬はサニア・ドゥリダと同じ物だと思っていたが、もしかしたら特別な成分でも含まれていたのかもしれない。
あれだけの怪我を一晩で快復させる効力。これは今後のためにもウールに頼んでいくつか分けてもらった方がいいな。
安堵で肩の力を抜く。アースィが首を巡らせた。
「ところで、さ。ここはどこ?」
「ラウティスの第四階層だ。ウールって人の家だよ。気を失ってたお前を連れて、ここに逃げ込んできた」
「第四階層……じゃあ中心部はもうすぐそこなんだ」
「どういうわけかこの辺りは廃墟になってるけどな。身を隠すには良い場所だ。しばらく厄介になろうと思ってる」
「厄介って、ここに住むの?」
「間借りするだけさ。俺たちは勝手に転がり込んだだけで、本来ならつまみ出されても仕方がない。けど、ウールがしばらく滞在していいって言ってくれたから、厚意に甘えているんだ。お前の治療には長い時間がかかると思っていたしな」
微笑みを浮かべながらバサロが言うと、アースィは珍獣でも見るような目をした。
「な、なんだよ」
「あんた、本当にバサロ?」
「失礼だな。俺じゃなけりゃ誰だって言うんだ。せっかくここまで運んで来てやったのに」
「ですが気持ちは理解できますよ」
隣でシャウルが澄まし顔をする。アースィは聖霊少女の表情にも驚いたようだった。
アースィはうつむき加減に何かを考えていたが、やがて立ち上がった。
「とにかくウールさんって人に会ってみたい。お礼を言わなきゃならないし」
「まだ寝てるぞ」
「いえ、起床したようです」
戸口を見ながらシャウルが言う。確かに廊下を誰かが歩く音が聞こえてきた。
アースィが立ち上がる。その場で何度か飛び跳ねたり伸ばしたりして、身体に異常がないか確かめていた。
廊下に出ると、ウールが壁に背を預けていた。うつむいているため、彼のざんばらの髪が横顔を隠してしまっている。
バサロが声をかけると彼はゆっくりと顔を上げた。
頬に、涙が流れた跡があった。
「何があったウール」
バサロが肩に手を置くと、ウールは力なく首を横に振った。質問には答えず、彼はアースィに視線を移す。
「傷はもう大丈夫なのかい」
「え、ええ。あなたがウールさん? 私はアースィ。助けてくれてありがとう」
「気にしなくていいよ。私は、君たちが他人に思えなかったから。元気になってよかった」
そう言って微かに微笑む。
バサロは違和感を覚えた。ウールが、どもることなく話をしている。
気まずい沈黙が降りた。気を取り直してバサロは尋ねる。
「そういえばナヴィニはどうした。あのうるさいのはまだ寝てるのか」
「バサロ」
シャウルが腕をつかんでくる。彼女が制止する理由がわからずバサロは戸惑った。
するとウールは自らの胸に手を当てた。心臓の鼓動を噛みしめるように目をつむる。
「ナヴィニは、ここだよ」
バサロとアースィは顔を見合わせる。
シャウルが言った。
「『ひとつ』になったのですね」
「やっぱり聖霊にはわかっちゃうか」
「同化に一晩。つらい時間だったと推測します」
「気遣ってくれてありがとう。でも、大丈夫」
「おい、どういうことだよ。ウール。シャウルも」
戸惑い両者の顔を見る。
ウールは言った。
「昨日、ナヴィニが言ったんだ。人間のままこの家に居続ければ、近いうちに私は飢え死にをする。けれど洪水祭に出て目的を果たせば、おそらく捕らえられてナヴィニとは一生離ればなれになる。どっちも許容できないって」
だから、と胸元で握り拳を作る。
「ナヴィニが私と同化すれば、飢えて死ぬこともなければ離ればなれになることもない。聖霊を宿した人間――聖人となればね」
「聖霊を、宿した人」
バサロとアースィの声が重なった。ウールはうなずく。
「ナヴィニと一緒になって今ならわかるんだ。かつては、形なき聖霊が人間の精神と同一化することによって、聖霊石を介さなくても共存することができた。ナヴィニはそのときと同じ状況を作り出したんだ。私を助けるために。ずっと一緒にいるために」
「じゃあ、そのナヴィニって聖霊は今ウールさんの身体の中に……?」
「そう。ナヴィニはこれしかやり方を知らないって言ってさ。私と完全に同化することを選んだんだ。おかげで私はもう食べ物に困らなくても済むし、どもることもなくなった。けどその代わりにナヴィニの姿を見ることも、話をすることもできなくなったんだ」
ウールは目元に手をやった。
「これじゃあ離ればなれになったのと変わらないじゃないか」
しばらくの間、廊下に嗚咽が響く。バサロもアースィも、何も言えなかった。
彼は伸び放題だった髪を後ろでくくった。最初に会ったときとは別人のような、凜とした顔を見せる。
「バサロ。それからアースィさん。私は学園へ行く。洪水祭に乗り込んで、この街に存在する歪みを皆に訴えてくる。だから、ほんの短い間だったけどここでお別れだ。この家は君たちにあげるから、好きに使って」
静かな決意だった。
ウールは足下に置いていた背嚢を背負う。バサロたちに深く頭を下げ、そのまま玄関の外へ出て行った。
「それじゃあ、さよなら」
バサロは止められなかった。




