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やがて春が訪れ、望は四年生に進級した。
私はあいかわらず朝方まで仕事をし、眠って起きると朝食が用意されていて、望は学校に行った後だった。
望の学校での様子は気になったけど、口には出さないでおいた。それはたぶん私自身が、答えを出せないでいたからなのかもしれない。
だけどその頃、望の小さな胸の痛みは、限界を超えていたようだ。風邪をひいて学校を三日休んだ望は、熱が下がっても学校に行きたくないと言い出した。
「行きたくないなら、もう一日休めば?」
私が言うと「そうする」と答えて、望は自分の部屋に消えていった。私はそんな望の背中を、思わず追いかける。
「何かあった?」
布団の中にもぐりこんだ望に尋ねる。望はしばらく黙っていたけど、やがて消えそうな声でつぶやいた。
「同じクラスのやつらに言われた。お前のお父さんは、お前とお母さんを捨てて、女を作って出て行ったんだろって」
私はじっと、望の声に耳を傾ける。
「何でそんなことわかるんだって聞いたら、お母さんのエッセイに書いてあったって。それをみんなに言いふらして、そいつらおもしろがってるんだ」
望はそれだけ言うと、また布団の中にもぐりこんでしまった。私はベッドの脇に膝をつき、望にそっと声をかける。
「ねえ、望」
壁にかかった時計が、コチコチと静かな部屋に音を立てる。
「あんたそれで何が悔しいの? お父さんに捨てられたこと? お母さんがエッセイに書いたこと? その子たちが言いふらしたこと?」
少しの沈黙の後、望が答える。
「別にどれも悔しくない。僕が悪いわけじゃないから」
「うん。そうだね」
私が望にうなずく。
「でもそんなこと言われて、恥ずかしくて逃げ出した僕が悔しいんだ」
「望……」
そっと手を伸ばして、布団の上から望の体を抱きしめる。
あんなに小さくて、か弱い赤ん坊だった望。その子が今、こんなに大きくなって、自分自身のことを責めている。
「あんたは何にも悪くない。きっと少し疲れてるんだよ。無理することなんてない。ねぇ、しばらく学校休んで、温泉にでも行こうか?」
私の言葉に、望が布団の中でくすっと笑った。
「ズル休みを勧めるなんて……へんな母親」
それもそうだね、と言って、私も望と一緒に笑った。
次の朝、私は旅行バッグに荷物を詰め込み、望の手を引いてエレベーターに乗った。
私たちは逃げるんじゃない。少し疲れただけ。疲れたときは休息が必要なのだ。私は自分自身にそう言い聞かせる。
エレベーターが一階に着き、ドアが静かに開く。それと同時に望が、叫びながら外へ飛び出した。
「慎一郎!」
その声に私が顔を上げる。目の前では真っ黒に日焼けした慎一郎が、笑顔で望を抱きとめていた。