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「望は生クリームよりチョコレート派だよな」
慎一郎がそう言ってケーキの箱を開ける。
「わぁ、でっかい」
「ほら、ろうそくももらってきたぞ。九本」
テーブルに身を乗り出す望の前で、慎一郎がケーキにろうそくを立てる。
そういえば、いつからこんなふうに三人で、望の誕生日を祝うようになったのだろう。
「香世子、火ちょうだい」
「うん」
灰皿の横からライターを取って、慎一郎に渡す。慎一郎は煙草を吸わない。煙草なしでは何も書けない私とは大違いだ。
「誕生日の歌、歌おうか?」
「いいよ、そんなの。子供じゃないんだから」
「何言ってんだ。子供だよ、お前は」
慎一郎がそう言って笑う。望もろうそくの炎で頬を染めながら、照れくさそうに笑っている。私はぼんやりと、そんなふたりの笑顔を見つめていた。
「望、これ」
デリバリーのピザを食べたあと、ケーキをほおばる望に、私は封筒を差し出した。
「何かプレゼントとか考えたんだけど、思いつかないから……現金にした」
望はフォークを手にしたまま、私の差し出す封筒を見ている。
「はは、現金ねぇ……香世子らしいけど、作家としては夢がなさすぎじゃない?」
「慎一郎は黙ってて」
私はそう言って、望の手にお金の入った封筒を握らせた。そして見慣れた望の顔を、あらためてじっと見つめる。
はっきりした二重の目。少し厚めの唇。望は最近、別れた男によく似てきた。
「望。あんた前に、『僕のお父さんはどこにいるの?』って聞いてきたよね?」
そんな望に、私は語りかける。
「『お父さんは大阪にいる』って答えたら、『行ってみたい』ってあんた言ったね。だからこのお金で大阪に行ってもいいし、行きたくなかったら貯金しておいて、あとで何かに使えばいい」
望は何も言わず、ただ封筒を見下ろしている。
望が最近、自分の父親に興味を持ち始めたのはわかっていた。だけどそれは自然なこと。私にだって、同じような経験があるから。
「僕、お父さんには会わなくていいよ」
やがて望がポツリと言った。
「別にお父さんに会いたいわけじゃないんだ。ただどこかに旅してみたいと思って……」
「旅?」
私が聞き返す。
「うん。毎日毎日、家と学校往復してるだけじゃつまらなくて……どこか知らない所に、ひとりで行ってみたいな……なんて」
「いいんじゃない? あんたもう九歳なんだし。夏休みになったら、一人旅でもしてみれば?」
すると今まで黙っていた慎一郎が口を開いた。
「望。お前、学校つまらないのか?」
慎一郎の言葉に、望はぎこちなく顔をそむけた。私はゆっくりと、望から慎一郎へと視線を移す。
「一人旅するのは別に反対しないけど、嫌なことから逃げ出すだけじゃダメなんだぞ?」
「逃げ出すって……別に家出しようとか言ってるわけじゃないのに……」
口をはさんだ私を無視して、慎一郎が続ける。
「望。お前学校で、いじめられたりしてるんじゃないのか?」
望は黙ってうつむいた。そしてしばらくの沈黙の後、消えそうな声でつぶやいた。
「別に平気だよ……僕、何も悪いことしてないし……」
そう言って望が立ち上がる。
「ちょっと待って。望!」
呼び止める私から逃げるように、望はリビングから出て行った。私はため息をひとつついて、慎一郎のことを見る。
「どういうこと?」
「そういうこと」
慎一郎が答える。
「さっきテーブルの上にあったあいつの教科書……お前見たことないの?」
「ないけど」
「落書きだらけじゃん。あれ絶対、クラスのガキ共にやられたんだよ」
慎一郎はそう言って缶ビールを開けた。
「あの子がいじめられてるっていうの?」
「そう。お前母親だったら、そのくらい気づいてやれよな?」
私は黙って、望の座っていた席を見る。食べかけのチョコレートケーキが、寂しげに皿の上に残ったままだ。
「でもあの子は平気だって言った。大丈夫よ。あの子なら」
私の言葉に慎一郎が反論した。
「大丈夫なわけないだろ? あいつはお前に心配かけさせないように、そう言ってるだけだよ。望はもう九歳じゃなくて、まだ九歳なんだぞ?」
「なによ、偉そうなこと言わないで! あの子の父親でもないくせに」
思わず私は言ってしまった。慎一郎に一番言いたくない言葉を、私はつい言ってしまった。
慎一郎はすっと私から目をそらす。
小さなテーブルを挟んだだけの私たちの距離が、なんだかとても遠く感じる。
「お母さん……」
つぶやくような望の声。リビングを出て行った望が、いつの間にか戻ってきていた。
「これ、預かってて」
望はゆっくりと私に近寄り、さっき渡した封筒を差し出す。
「僕、慎一郎の言うとおり、逃げようとしてた。でもやっぱりそれはやめるよ。だって僕、何も悪いことしてないんだもん」
私は黙って封筒を受け取る。
「そのお金は、僕自身に決着がついたら使うよ。それまでお母さんが預かってて」
望はいつもの大人びた顔でそう言うと、慎一郎を見てにっこり笑った。慎一郎は立ち上がって、望の体を高く抱き上げる。
「望ぃ。お前、重くなったなぁ? 片手で抱っこできるほど、ちっちゃかったくせに」
「だってもう九歳だよ? 赤ちゃんじゃないよ」
望の言葉に、慎一郎がおかしそうに笑い出す。私はそんなふたりを見ながらふと考える。
望に父親は必要だろうか……望は父親を必要としているのだろうか……。
「ねぇ、慎一郎。一緒にお風呂入ろうよ」
「ああ、いいよ」
「ついでに泊まっていっちゃえば? ねえ、お母さん?」
望が私を見て笑う。私は何も言わずに、ほんの少しだけ微笑んだ。