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「お母さん。今まで僕が預けておいたお金、返してくれない?」

 その日、私たちは三人でケーキを囲み、望の十一歳の誕生日を祝っていた。

 そして私は、もう恒例となった現金の誕生日プレゼントを、望に渡したところだった。

「使うの? 何に?」

「旅行に行きたいんだ」

 望はいたずらっぽい顔をして慎一郎を見る。慎一郎はビールを一口飲み、共犯者のような顔つきで望に笑いかける。

「慎一郎が北海道まで、撮影旅行に行くんだって。僕も連れて行ってくれるって。もうすぐ夏休みだし、いいでしょう?」

「もちろん」

 私はそう言った後、少しだけ望に嫉妬を覚えた。そしてそんな私の心を見透かすように、慎一郎が言った。

「香世子はダメだよ。仕事がいっぱい詰まってるだろ?」

「わかってる。ふたりで仲良く行ってくれば?」

 すねた顔の私を見て、慎一郎と望がおかしそうに笑う。

 そしてよく晴れた夏休みの初日、望は明るい笑顔で、慎一郎と一緒に旅立っていった。


 その年の夏休みは静かに過ぎていった。

 約一ヶ月間、この部屋に聞こえるのは、機械的に響くキーボードの音と、私の吐息だけ。望とこんなに長く離れたのは、これが初めてだった。

 そして私は、いつかこの場所を旅立ってゆく望を想い、また煙草に手を出してしまう。

 そう、私は寂しいのだ。

 望のいない生活が。慎一郎に会えない毎日が。たったひとりでこの部屋にいることが……。

「バカみたい、いい歳して」

 自分自身にあきれて、煙草に火をつけ息を吐く。こんな気持ち、今まで感じたことなかったのに。

 その時、部屋の電話が音を立てた。


「もしもし? お母さん?」

 望の元気な声が、私の耳に伝わる。

「いま僕たちは、どこにいるでしょう?」

 子供じみたその質問に、私は小さく微笑んだ。

「わかんない。どこなの?」

「ケータイに画像送るよ」

 すぐにデスクの上の携帯が鳴り、一枚の写真が送られてきた。

「お母さん?」

 広い海をバックに、望と慎一郎がポーズをつけておどけている。

 ふたりの上に広がるのは、ここにあるのと同じ青い空。

「見た?」

「うん、見た。でもここ、どこ?」

「北海道の宗谷岬!」

「すごい。最北端にいるんだね」

 自慢げに微笑む望の顔が、目に見えるようだ。

「来週には帰るからね。今、慎一郎に代わる」

 望の声が途切れ、懐かしい慎一郎の声が耳に響く。

「香世ちゃん? 元気?」

 私は涙声になりそうなのを必死に隠す。

「元気よ。もちろん」

「寂しがってるんじゃない? 俺たちがいなくて」

 電話の向こうで慎一郎が笑う。私がどんなに隠しても、彼にはすべてお見通しなのだ。

「もうすぐ帰るから。おみやげ何がいい?」

「……カニ、食べたい」

「オッケー! 帰ったら三人でカニ食おう」

 電話越しに、慎一郎の無邪気な声が聞こえる。私も涙を拭って、笑顔で言った。

「早く帰ってきてね。私はここで待ってるから」


 そう、私はここで、ふたりの帰りを待つ。

 来週にはこの部屋で、望はいつものように私と一緒に食事をする。そしてそこにいつも慎一郎がいたら、どんなに素晴らしいだろう。

 慎一郎と一緒に暮らそう。

 彼がどこに旅立とうと、私はここで待っている。今まで好き勝手やってきた私のことを、慎一郎がずっと黙って、見守ってくれていたように。

 そしてやがて望も、この部屋から飛び立っていくのだろう。大きな期待と、少しの寂しさを私に残して……。

 そんなことを考えながら、窓の外を眺める。

 最上階の窓からは、どこまでも広がる青い空が、ふたりのいる北の果てまで続いていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 望くん、成長したなぁって思いました。 今までもこれからも3人で幸せになっていくのでしょうね。 読ませていただきありがとうございます。
2024/01/16 12:16 退会済み
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