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 やがて季節は移り変わり、望は五年生に進級した。

 だけど私は変わることなく、相変わらずこの部屋で、文章を書いて暮らしている。

「ずいぶん増えましたねぇ……写真」

 次の仕事の打ち合わせに来た理紗が、部屋の壁を眺めながらつぶやく。

 私の仕事用のデスクの脇には、慎一郎から送られてきた写真が、ぎっしりと貼られていた。

「わぁ、この写真、すごくステキ」

 理紗が手に取ったのは、望と同じ年頃の子供の笑顔。他にも、見知らぬ街の光景や、見たこともない壮大な景色が、写真の中に納まっている。

「まだ帰ってこないんですか? 慎一郎さん」

 そう言いながら理紗は、私の顔をのぞきこむ。

「さあ……たまに来る手紙には、写真しか入ってないしね。あいつ、まめなわりに、なぜか筆不精だから」

 私はふっと笑って、壁の写真を眺めた。

 慎一郎の写真にはどれも、東京の空よりもっと濃くて鮮やかな、青い空が写っている。

 この場所とつながる、たったひとつの空の下、彼が見た景色、歩いた街、出会った人々……。

 コンクリートで固められた、小さな部屋の中にいる私にも、同じものを見せてくれる。

 まるで、私も慎一郎と一緒に、広い世界を旅しているかのように。

「先生、寂しいんじゃないですかぁ?」

 いたずらっぽい顔で聞いてくる理紗に、私は笑顔で答える。

「そうね。写真だけじゃ、物足りないかもね」

 慎一郎に会いたい。会ってその肌に触れたい。手をつないでキスをして、思いっきり抱き合いたい。


「お母さん、ただいまー!」

 玄関のドアが開き、元気な望の声が聞こえた。理紗が立ち上がり、私より先に望に声をかけてくれる。

「お帰りなさい! 望くん」

「あ、理紗さん来てたの? こんにちは!」

 望は几帳面に帽子を取って、ペコリと頭を下げた。理紗は少し照れくさそうに、にっこり微笑む。

「ねえ、お母さん。明日友達をうちに呼んでもいい?」

 望が突然私に言った。聞きなれないその言葉に、思わず私は聞き返す。

「友達?」

「いや、同じ班の仲間なんだけど……グループ研究のテーマ、明日中に決めなきゃいけないんだ」

 少し顔を赤くして、望は言い訳じみたことを言う。

「いいよ。もちろん」

「それじゃ、明日ね!」

 そう言って望は手を振ると、ランドセルを背負ったまま、自分の部屋に駆け込んでいった。

「望くん、大きくなりましたねぇ……」

 理紗がそんな望の背中を見送りながら、しみじみとつぶやく。

 確かに最近の望は、身長がぐんと伸び、子供から少年へと変わり始めているようだ。そしてその体以上に、望の心も大きく成長している気がする。

 親が手をかけなくても、子供は勝手に成長するものだ。そんなことを思いながら、私はパソコンに体を向けた。


 翌日、このマンションの一室に、子供たちの賑やかな声が響いた。

 友達と一緒に笑っている、望の姿を見たのは初めてで、最初は少し戸惑った。

 だけど、そんな望を見ているうちに、友達というのも捨てたもんじゃないと、私はこの歳にして息子から学んだ。

 望はもう、学校に行きたくないとは言わない。学校での望の様子はわからないけど、教師に呼び出しを受けていない限り、なんとかうまくやっているのだろう。

 そしてまた、望の誕生日が近づいたある日、朝食を食べながらポツリと望がもらした。

「慎一郎に会いたいな」

 私はコーヒーを飲む手を止め、目の前に座る望を見つめる。

 その言葉は密かに、私が胸の奥に潜ませていたものでもあったから。

 望は食べ終わった食器を手際よく洗い、ランドセルを背負うと、何でも知っているというような目で私に笑いかけた。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 望が元気よく部屋を飛び出してゆく。私は小さくため息をつき、煙草の箱に手を伸ばす。

 ふと見えた窓の外に広がるのは、いつもと変わらない青い空。

 何の意味かわからないため息を、もう一度つく。その時、望が出て行ったばかりの玄関がコツコツと響いた。


「どうしたの? 忘れ物?」

 火のついていない煙草を片手にドアを開ける。するとそこには、待ちわびていたあの懐かしい顔があった。

「煙草、やめるんじゃなかったっけ?」

 慎一郎はそう言って笑うと、私の手から煙草を取り上げる。

「やめられないのよ。私って忍耐力ないから」

「そうだっけかぁ?」

 私の体が、自然と慎一郎の胸に引き込まれていく。そして彼の手も、私の背中を力強く抱き寄せていた。

「望、今出て行ったところなの」

「知ってる。エレベーターのところで会った。元気そうだったな」

「あんたに会いたいって言ってた」

「俺も会いたかった」

 慎一郎が私を見た。日に焼けた肌が、見慣れた彼の顔をやけに男らしく見せる。

「香世子。キスしてもいい?」

 耳元でささやくような慎一郎の声。

「そんなに私が欲しかった?」

 慎一郎はおかしそうに笑ってから、私に言った。

「お前にキスしたいと思ってた。ずっと……」

 私もそうだった。こんなにも彼の帰りを待ちわびたことはない。

 慎一郎の首に両手を回し、少し背伸びをして頬にキスする。そのキスに応えるように、彼の唇が私に触れる。

 クラスの男子を追い払い、海沿いの道をひとりぼっちで帰った日。私のことを見つめている慎一郎から、わざと目をそらした。

 本当はそばにいたかったのに……心のどこかでその気持ちを抑えつけていた。私の父が彼を傷つけたこと、本当はずっとこだわっていた。

 長いキスをしたあと、目と目が合って照れくさくて笑った。

 強がりを捨てて、ほんの少しだけ素直になれば、私たちはきっと幸せになれる。

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