11
その夜私は、ひとりで缶ビールを飲みながら、真っ暗な海を眺めていた。
望は疲れたのか、いつもより早い時間に眠ってしまった。
穏やかな寝息と、かすかな波音だけが聞こえる、ふたりだけの部屋。
飲み干した空き缶を窓際のテーブルに並べ、望の布団をかけ直してやろうと立ち上がった時、部屋のドアがコツコツと響いた。
「はい? どなた?」
「俺。慎一郎」
私は驚いてドアを開ける。
「なんだ、寝ちゃったのかぁ。せっかく望の好きなもん買ってきたのに」
慎一郎が温泉まんじゅうの袋を掲げ、部屋の中をのぞきこむ。
「どうして? 仕事は?」
「とりあえず終わらせて、速攻で戻ってきた。望にあんなに泣かれちゃな……」
慎一郎は苦笑しながら、私の顔をじっと見つめる。その途端、どうしてだかわからないけど、私の目から熱いものがこみ上げてきた。
「香世子?」
慎一郎が不思議そうに首をかしげる。
「どうしたんだよ? お前まで泣くの?」
「おかしいね。今日の私たち、どうかしちゃってるよ」
私は涙をごまかすように顔をそむける。そんな私の手を、慎一郎がそっと握りしめた。
「外、満月だったよ」
顔を上げて慎一郎を見る。
「散歩でもしない? たまには」
その言葉に、私は素直にうなずいた。
「俺のお袋が、お前の親父と家を出て行ったのも、こんな満月の夜だったんだ」
ふたり並んで、月明かりの砂浜を歩く。慎一郎は夜空を見上げ、懐かしそうに話し出す。
「こんなふうに手と手を取り合っちゃってさ、波の音をバックに、寄り添うように歩いて行くんだ。俺は置いていかれるのも忘れて、なんだか映画でも見ているような気分だった」
私の手を握って、慎一郎が笑いかける。
「いい歳した、オヤジとおばさんなのにな」
私は小さく微笑むと、慎一郎の手をきゅっと握り返した。
「慎一郎は、私のこと恨んでなかった?」
「恨むわけないだろ? お前は何にも悪くないんだから」
飽きるほど聞いているはずのその声に、崩れかけた心が癒されていくのがわかる。
「じゃあ私がハタチで結婚した時は? どう思った?」
「香世子は男を見る目がないよなぁって……俺のほうが断然いい男なのにって」
慎一郎がそう言って笑う。私も一緒に笑ったあと、彼の手を握り締めたままつぶやいた。
「私って……ひどい女だね?」
「そうだな。俺の気持ち知ってるくせに、わざと知らないふりをする」
「それも全部わかってて、それでも私のそばにいてくれた」
なめらかに、こんな言葉が口から出るのは、お酒に酔っているからじゃない。肌をなでる潮風が、あまりにも優しすぎるから。
「私、望に言われてやっと気づいたの。あんたがそばにいてくれること、当たり前のように思ってたけど……それは当たり前なんかじゃないって。あんたもいつか、私から離れていくかもしれないって」
慎一郎は何も言わず、私の顔を見た。
「ごめん。私、わがまま言うよ?」
「どうぞ。お前のわがままはもう慣れてる」
「これからもずっと……私と望だけの、慎一郎でいて欲しいの」
私の声が波音と消える。慎一郎は、昔と変わらない笑顔を見せる。
「香世子。やっと俺の良さがわかったか」
視線を上げて、慎一郎の顔を見つめた。
月明かりが彼の頬を照らし、やわらかな海風がその髪を揺らしている。
私はひとりじゃなかった。いつだって慎一郎がこうやってそばにいてくれたから……私はここまで生きてこられた。
「慎一郎。あんたのこと抱きしめてもいい?」
目の前に立つ慎一郎がとても愛しく思えて、自然と言葉がこぼれる。
「抱きしめられたいの間違いだろ?」
背中に手が回ると同時に、体がぐっと引き寄せられる。長い間、触れそうで触れることのなかった、お互いの肌のぬくもり。
私は慎一郎の胸に抱かれながら、その声を聞いた。
「俺、また近いうちに、海外に行くと思う」
静かに目を閉じ、耳をすます。
「一年近くアフリカの国々を回ってみたけど、世界はまだまだ広いんだって、あらためて気づいた。この世界にはいろんな国があって、いろんな人が住んでるってこと、もっとたくさんの人たちに伝えたい」
「うん」
「ありがたいことに、俺の写真を使ってくれる会社もあるしね」
「いいんじゃない? すごく慎一郎らしいと思う」
私の言葉に、慎一郎はゆっくりと体を離し、そして言った。
「香世子も……一緒に来る?」
私の耳に、心地よい慎一郎の声が響く。
幼い頃、教室の窓から夢見ていた広い世界へ、慎一郎が連れ出してくれる。
一緒に行きたい――素直にそう思ったけど、その想いは口に出さなかった。
「望に聞いてみないと」
「そうだね」
慎一郎はうなずいて、私に笑いかけた。私も小さく微笑むと、そんな彼の手を握りしめ、また歩き始める。
さくさくとかすかな砂音を立て、私たちは何も言わずに手をつないで歩く。
望の答えは聞かなくてもわかる。
お母さん、行っておいでよ。僕はひとりでも大丈夫だから――望はきっとそう言うだろう。
だけど私の気持ちも決まっていた。
私が望を置いて、あの部屋から旅立つことはありえない。
だから私たちがまた離れ離れになることは、もうわかっていたのだ。そして慎一郎も、それに気づいていたと思う。
永遠に、繰り返し続ける波の音。懐かしい想いがあふれる、潮の香り。
私たちは月明かりの下、いつまでもつないだ手を離そうとはしなかった。




