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 その夜私は、ひとりで缶ビールを飲みながら、真っ暗な海を眺めていた。

 望は疲れたのか、いつもより早い時間に眠ってしまった。

 穏やかな寝息と、かすかな波音だけが聞こえる、ふたりだけの部屋。

 飲み干した空き缶を窓際のテーブルに並べ、望の布団をかけ直してやろうと立ち上がった時、部屋のドアがコツコツと響いた。

「はい? どなた?」

「俺。慎一郎」

 私は驚いてドアを開ける。

「なんだ、寝ちゃったのかぁ。せっかく望の好きなもん買ってきたのに」

 慎一郎が温泉まんじゅうの袋を掲げ、部屋の中をのぞきこむ。

「どうして? 仕事は?」

「とりあえず終わらせて、速攻で戻ってきた。望にあんなに泣かれちゃな……」

 慎一郎は苦笑しながら、私の顔をじっと見つめる。その途端、どうしてだかわからないけど、私の目から熱いものがこみ上げてきた。

「香世子?」

 慎一郎が不思議そうに首をかしげる。

「どうしたんだよ? お前まで泣くの?」

「おかしいね。今日の私たち、どうかしちゃってるよ」

 私は涙をごまかすように顔をそむける。そんな私の手を、慎一郎がそっと握りしめた。

「外、満月だったよ」

 顔を上げて慎一郎を見る。

「散歩でもしない? たまには」

 その言葉に、私は素直にうなずいた。


「俺のお袋が、お前の親父と家を出て行ったのも、こんな満月の夜だったんだ」

 ふたり並んで、月明かりの砂浜を歩く。慎一郎は夜空を見上げ、懐かしそうに話し出す。

「こんなふうに手と手を取り合っちゃってさ、波の音をバックに、寄り添うように歩いて行くんだ。俺は置いていかれるのも忘れて、なんだか映画でも見ているような気分だった」

 私の手を握って、慎一郎が笑いかける。

「いい歳した、オヤジとおばさんなのにな」

 私は小さく微笑むと、慎一郎の手をきゅっと握り返した。

「慎一郎は、私のこと恨んでなかった?」

「恨むわけないだろ? お前は何にも悪くないんだから」

 飽きるほど聞いているはずのその声に、崩れかけた心が癒されていくのがわかる。

「じゃあ私がハタチで結婚した時は? どう思った?」

「香世子は男を見る目がないよなぁって……俺のほうが断然いい男なのにって」

 慎一郎がそう言って笑う。私も一緒に笑ったあと、彼の手を握り締めたままつぶやいた。


「私って……ひどい女だね?」

「そうだな。俺の気持ち知ってるくせに、わざと知らないふりをする」

「それも全部わかってて、それでも私のそばにいてくれた」

 なめらかに、こんな言葉が口から出るのは、お酒に酔っているからじゃない。肌をなでる潮風が、あまりにも優しすぎるから。

「私、望に言われてやっと気づいたの。あんたがそばにいてくれること、当たり前のように思ってたけど……それは当たり前なんかじゃないって。あんたもいつか、私から離れていくかもしれないって」

 慎一郎は何も言わず、私の顔を見た。

「ごめん。私、わがまま言うよ?」

「どうぞ。お前のわがままはもう慣れてる」

「これからもずっと……私と望だけの、慎一郎でいて欲しいの」

 私の声が波音と消える。慎一郎は、昔と変わらない笑顔を見せる。

「香世子。やっと俺の良さがわかったか」

 視線を上げて、慎一郎の顔を見つめた。

 月明かりが彼の頬を照らし、やわらかな海風がその髪を揺らしている。

 私はひとりじゃなかった。いつだって慎一郎がこうやってそばにいてくれたから……私はここまで生きてこられた。

「慎一郎。あんたのこと抱きしめてもいい?」

 目の前に立つ慎一郎がとても愛しく思えて、自然と言葉がこぼれる。

「抱きしめられたいの間違いだろ?」

 背中に手が回ると同時に、体がぐっと引き寄せられる。長い間、触れそうで触れることのなかった、お互いの肌のぬくもり。

 私は慎一郎の胸に抱かれながら、その声を聞いた。


「俺、また近いうちに、海外に行くと思う」

 静かに目を閉じ、耳をすます。

「一年近くアフリカの国々を回ってみたけど、世界はまだまだ広いんだって、あらためて気づいた。この世界にはいろんな国があって、いろんな人が住んでるってこと、もっとたくさんの人たちに伝えたい」

「うん」

「ありがたいことに、俺の写真を使ってくれる会社もあるしね」

「いいんじゃない? すごく慎一郎らしいと思う」

 私の言葉に、慎一郎はゆっくりと体を離し、そして言った。

「香世子も……一緒に来る?」

 私の耳に、心地よい慎一郎の声が響く。

 幼い頃、教室の窓から夢見ていた広い世界へ、慎一郎が連れ出してくれる。

 一緒に行きたい――素直にそう思ったけど、その想いは口に出さなかった。


「望に聞いてみないと」

「そうだね」

 慎一郎はうなずいて、私に笑いかけた。私も小さく微笑むと、そんな彼の手を握りしめ、また歩き始める。

 さくさくとかすかな砂音を立て、私たちは何も言わずに手をつないで歩く。

 望の答えは聞かなくてもわかる。

 お母さん、行っておいでよ。僕はひとりでも大丈夫だから――望はきっとそう言うだろう。

 だけど私の気持ちも決まっていた。

 私が望を置いて、あの部屋から旅立つことはありえない。

 だから私たちがまた離れ離れになることは、もうわかっていたのだ。そして慎一郎も、それに気づいていたと思う。

 永遠に、繰り返し続ける波の音。懐かしい想いがあふれる、潮の香り。

 私たちは月明かりの下、いつまでもつないだ手を離そうとはしなかった。

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