表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/14

 授業中に鉛筆を転がしながら、いつも窓の外を眺めていた。

 どこまでも続く青い空。気持ちよさそうに飛び交う海鳥たち。

 一枚のガラス窓を隔てた、向こう側の世界を見つめて私は思う。

 誰か私を連れ出して。

 狭くて息苦しいこの場所から、空の果てまで連れて行って。

 ……そんなこと、できるわけないって知っているけど。


 授業の終わりのチャイムが鳴る。クラスの子供たちが、一斉に校庭に飛び出していく。

 だけど私は立ち上がろうとしなかった。

 親にも、先生にも、友達にも、素直になれなかった私は、きっと可愛くない子供だっただろう。


 静まり返った教室で、ふと人の気配に気づく。

 私と同じように、窓の外を見ている男の子がいる。

 彼は私に話しかけるわけでもなく、無視して出て行くわけでもなく、ただなんとなくそこにいた。

 人と一緒に過ごすのは苦手なはずなのに、ふたりでいる空気はなぜかとても心地よくて……私たちは何も言わずに、ずっと同じ空を見上げていた。


 ***


「お母さん。おはよう」

 部屋のドアが少し開いて、一人息子の望が顔を出す。

 薄暗いこの部屋に、一筋の光が差し込んでくる。

 望は黒いランドセルを背負い、自分で洗濯した体操服の入った袋をぶら下げていた。

「ああ……もうそんな時間?」

「いつもの、作ってあるからね」

 のろのろと起き上がり、枕元の携帯電話を探している私に、望は「いってきます」と背中を向けた。

 パタパタと軽快な足音が遠ざかり、重い玄関ドアがバタンと閉まる。

 私は赤いフレームの眼鏡をかけ、携帯のメールをチェックしながら、窓辺のカーテンを開く。

 窓の外には、いつもと変わらない東京の空が広がっていた。


 私はこのマンションの最上階で、文章を書いて暮らしている。

 世間の人たちは私のことを「先生」なんて呼ぶけれど、私はそんなに立派な人間ではない。

 学生時代に書いた小説で、思いがけなく新人賞を受賞し、少し有名になってしまっただけだ。

 受賞作がいきなりベストセラーになったあと、私はいくつかの作品を出版し、それもそこそこに売れた。

 あとは雑誌でエッセイを連載したり、講演会に呼ばれたり……そんなことをしながら息子とふたり、この部屋でひっそりと生活している。


 朝日の当たるダイニングテーブルの上には、望が作ってくれたベーコンエッグがのっていた。乾燥機の中をのぞくと、整然と並べられた、手洗い済みの望の皿やマグカップ。

「ほんと、几帳面な子」

 私はひとり、頬をゆるませる。

 ベーコンエッグの隣には、私が毎朝必ず目を通す朝刊が、きちんとセットされていた。


 コーヒーをいれ、いつもの席に座る。新聞を開きながら、朝方まで書いていた新作のことを考えていると、携帯の着信音が響いた。

「もしもし、香世ちゃん? 起きてた?」

 電話の相手は慎一郎だった。

「今起きたとこ。望が作ってくれたベーコンエッグ食べてる」

「あいかわらずだなぁ、お前は」

 慎一郎がそう言って笑う。「あいかわらずって何?」と思ったけど、とりあえず一緒に笑っておく。


「今日、雑誌の取材の日だろ?」

「そうだっけ?」

 ベーコンエッグに添えられているプチトマトをつまみながら、カレンダーを見上げる。

「編集部の人が迎えに来る前に、着替えぐらいしておけよ」

「わかってる。でも慎一郎、あんたいつから私のマネージャーになったわけ?」

 私の言葉に慎一郎が笑っている。そして気が済むまで笑った後、電話の向こうで言った。

「今夜、そっちに行ってもいい?」

「いいけど、何で?」

 携帯を耳に当てたまま、クローゼットの中を見回す。取材で写真を撮られるのなら、少しはまともな服を着ていかないと。

「やっぱり忘れてたな? 今日、望の誕生日だろ」

 慎一郎の言葉ではっと気づく。そういえばそうだ。今日であの子は何歳になったのか……。

「九歳だよ」

 聞いてもいないのに慎一郎が答える。

「ケーキ買って持っていくからさ。望に待ってろって言っといて」

「うん、わかった。きっと喜ぶよ。あの子、甘いものに目がないから」

 私が言うと慎一郎はまた笑って、そして電話を切った。

「九歳か……」

 私はひとりつぶやき、クローゼットから選んだスーツを手に取った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ