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授業中に鉛筆を転がしながら、いつも窓の外を眺めていた。
どこまでも続く青い空。気持ちよさそうに飛び交う海鳥たち。
一枚のガラス窓を隔てた、向こう側の世界を見つめて私は思う。
誰か私を連れ出して。
狭くて息苦しいこの場所から、空の果てまで連れて行って。
……そんなこと、できるわけないって知っているけど。
授業の終わりのチャイムが鳴る。クラスの子供たちが、一斉に校庭に飛び出していく。
だけど私は立ち上がろうとしなかった。
親にも、先生にも、友達にも、素直になれなかった私は、きっと可愛くない子供だっただろう。
静まり返った教室で、ふと人の気配に気づく。
私と同じように、窓の外を見ている男の子がいる。
彼は私に話しかけるわけでもなく、無視して出て行くわけでもなく、ただなんとなくそこにいた。
人と一緒に過ごすのは苦手なはずなのに、ふたりでいる空気はなぜかとても心地よくて……私たちは何も言わずに、ずっと同じ空を見上げていた。
***
「お母さん。おはよう」
部屋のドアが少し開いて、一人息子の望が顔を出す。
薄暗いこの部屋に、一筋の光が差し込んでくる。
望は黒いランドセルを背負い、自分で洗濯した体操服の入った袋をぶら下げていた。
「ああ……もうそんな時間?」
「いつもの、作ってあるからね」
のろのろと起き上がり、枕元の携帯電話を探している私に、望は「いってきます」と背中を向けた。
パタパタと軽快な足音が遠ざかり、重い玄関ドアがバタンと閉まる。
私は赤いフレームの眼鏡をかけ、携帯のメールをチェックしながら、窓辺のカーテンを開く。
窓の外には、いつもと変わらない東京の空が広がっていた。
私はこのマンションの最上階で、文章を書いて暮らしている。
世間の人たちは私のことを「先生」なんて呼ぶけれど、私はそんなに立派な人間ではない。
学生時代に書いた小説で、思いがけなく新人賞を受賞し、少し有名になってしまっただけだ。
受賞作がいきなりベストセラーになったあと、私はいくつかの作品を出版し、それもそこそこに売れた。
あとは雑誌でエッセイを連載したり、講演会に呼ばれたり……そんなことをしながら息子とふたり、この部屋でひっそりと生活している。
朝日の当たるダイニングテーブルの上には、望が作ってくれたベーコンエッグがのっていた。乾燥機の中をのぞくと、整然と並べられた、手洗い済みの望の皿やマグカップ。
「ほんと、几帳面な子」
私はひとり、頬をゆるませる。
ベーコンエッグの隣には、私が毎朝必ず目を通す朝刊が、きちんとセットされていた。
コーヒーをいれ、いつもの席に座る。新聞を開きながら、朝方まで書いていた新作のことを考えていると、携帯の着信音が響いた。
「もしもし、香世ちゃん? 起きてた?」
電話の相手は慎一郎だった。
「今起きたとこ。望が作ってくれたベーコンエッグ食べてる」
「あいかわらずだなぁ、お前は」
慎一郎がそう言って笑う。「あいかわらずって何?」と思ったけど、とりあえず一緒に笑っておく。
「今日、雑誌の取材の日だろ?」
「そうだっけ?」
ベーコンエッグに添えられているプチトマトをつまみながら、カレンダーを見上げる。
「編集部の人が迎えに来る前に、着替えぐらいしておけよ」
「わかってる。でも慎一郎、あんたいつから私のマネージャーになったわけ?」
私の言葉に慎一郎が笑っている。そして気が済むまで笑った後、電話の向こうで言った。
「今夜、そっちに行ってもいい?」
「いいけど、何で?」
携帯を耳に当てたまま、クローゼットの中を見回す。取材で写真を撮られるのなら、少しはまともな服を着ていかないと。
「やっぱり忘れてたな? 今日、望の誕生日だろ」
慎一郎の言葉ではっと気づく。そういえばそうだ。今日であの子は何歳になったのか……。
「九歳だよ」
聞いてもいないのに慎一郎が答える。
「ケーキ買って持っていくからさ。望に待ってろって言っといて」
「うん、わかった。きっと喜ぶよ。あの子、甘いものに目がないから」
私が言うと慎一郎はまた笑って、そして電話を切った。
「九歳か……」
私はひとりつぶやき、クローゼットから選んだスーツを手に取った。