交換ノート
好きと言って何が悪い。
おれたちを断罪しようとするやつらは、胸に手を当てて考えてみればいいんだ。
やむにやまれぬ想いをどうして止められる? そもそも、好きという気持ちをどうやったらなかったことにできるんだ。
「ひとみ」
そう呼ぶ声が震えた。
かわいい名前だが、目の前にいるのは正真正銘、ヤロウだ。こいつがいなければ、おれはこんなに苦しむことがなかった。そして、つまらなかった日常を大切に思うこともなかったかもしれない。
「どうしたの、安仁屋」
笑顔がまぶしい。言っておくけど、こいつは男前じゃない。目はやや垂れていて人なつっこい犬みたいな感じだ。スポーツをするわけでもないのに肌は浅黒く、背丈は高くもなく低くもない。女子のランキングからは惜しくもはずれるだろうタイプだ。まあ、それはおれも同じ。気が楽といえば楽だな。
「腹でも減った?」
「減るかよ」
今おはよーって言ったばっかなのに。
こいつはまったく、おれがどんな気持ちでいるかなんて、わかっていない。
ちょっと黙れば、空腹で不機嫌になったと思うのはやめてほしい。
こいつとは、高校に入って同じクラスになってからのつきあいだ。はじめてのホームルーム、落ち着かない気分で自分の席に座ったとき、すぐ前の席にいたのがひとみだ。
間抜けにも筆記用具を忘れてきたおれに、よく尖らせた鉛筆と、消しゴムをかしてくれた。一個しかなかっただろうに、新品のまっしろな消しゴムを半分ちぎっておれにくれたんだ。
知り合いのいない学校、知らないやつだらけのクラスは、まさに完全なるアウェイ。でもその瞬間、一気に肩から力が抜けた。
その日からずっと、一緒につるんでいる。三年まで同じクラスとくれば、親しくもなるってもんだ。
ともかく、こいつは大事なやつなんだ。
「阿仁屋、なにニヤついてるの」
ひとみは気味悪そうにおれを見たが、気を取り直したか、鞄をさぐって薄いノートを取り出した。こっそりと渡されたのは、おれとひとみの秘密のノートだ。今時、中学生の女子でもやらないような交換ノート。
高校三年の男子二人がほぼ毎日ノートを交換してるなんて、どうだい、気味が悪いだろう? ・・・・・・なんとでも言え。
このノートのために学校に来ているといっても大げさじゃない。勉強に部活、するべきことはたくさんある。けど、このノートは特別なんだ。
「あとで見てよね」
ひとみに釘をさされたおれは、鞄にしまおうと身をかがめた。そのときだ。
「阿仁屋くん、ひとみちゃん、いつも二人で楽しそうだね」
声だけでわかる、いやなやつ登場。
何人かで徒党を組んで、水をさしにくるやつらがいる。小林というのがとくに陰険で、こいつが近づくと、ひとみは笑わなくなる。一年の頃は、小林ともよく一緒に遊んでたんだ。なのに、いつの間にかやつはおれたちから離れて、こうしていじめまがいのからかいをするようになった。
「おまえ、ちゃんて、そう呼ぶのやめろ」
おれがにらみつけると、小林は笑った。おかしくもないのにむりやり顔だけ笑わせようとするから、こいつの笑顔は不自然でいやな感じがする。前はこんなやつじゃなかったのに。
「阿仁屋、いいよ」
ひとみはやさしすぎる。こういう手合いは、がつんと言ってやらないとつけあがるものなんだ。
「ほら、いいってよ」
小林はひとみの肩を小突いた。
なにをする、この小林め。
ひとみをいじめて楽しもうって魂胆か。
「んのやろう」
「やめて、阿仁屋。ぼくは気にしてない」
おれが気にするんだよ。
ほんとうにひとみは、何もわかってないんだな。おれがどんなに大切に考えているか。誰にも邪魔されたくないと、ほとんど祈るように思っていることを全然わかってない。
一緒にいられる時間は、もうあまり多くはない。ひとみは頭がいいし、かなり難しいところを狙うんだって聞いているから。おれはひとみほど勉強ができない。医者になりたいひとみとは、目指す進路も違う。
「邪魔、すんな」
ひとみが教えてくれた。こんなに一途に思う気持ちを。気のすむまで語り合う楽しさを。
「気持ち悪いんだよ」
小林はおれが手にしていたノートを取り上げて、あろうことか、床にたたきつけた。
「小林」
おれはすごんだ。腹の底から出た声に、自分で驚いた。クラスメイトが遠巻きに見ている。
ひとみには悪いと思う。でも、大切なものを叩きつけられて、笑って「いいよ」なんて、おれには言えない。子どもっぽい挑発を流せないのは、おれも子どもだからなんだ。
好きなのにカッコよく守ってやれない。それがほんとうに歯がゆい。
そのとき、教室の開け放された窓から、五月のぬるい風が吹き込んできて、小林の足下のノートをぱらりとめくった。
「阿仁屋、やめよう」
ひとみの腕をおしのけて、おれは一歩前へ出た。小林がノートを一瞥したあと、心底驚いたように目を丸くする。もう遅い。おれは本気だ。ここでなにもかもぶちまけてやる。こそこそするのは、もうごめんだ。
愛するものを語ることを邪魔するな。
苦しいくらい好きな気持ちを笑うな。
「アニメ好きでなにが悪い!」
めくれたノートのあるページには、ひとみが鉛筆で描いたヒーローが、おれの叫びなんて知らぬげに白い歯を光らせ、ポーズを決めていた。
アイ ラブ アニメ ベリーマッチ。