(2) 靴職人の娘
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翌日にはもう、水死体の身元が判明していた。
リーファがいつものように本部に出勤し、名札を二番隊詰所の枠へ移したところで、本部の隊員が教えてくれたのだ。
「早いな! 掲示を見た身内が引き取りに来たのかい」
「いや、たまたま三番隊の奴が顔を知ってたんだよ。靴職人で、名前はイクス。ラスタって娘と二人暮らしなんだが、数日前にその娘と近所の女が立ち話してるのを聞いてたらしい」
「親父さんが行方不明だ、って?」
「その時はただ、どうせどこかで飲んだくれてるんだろう、しょうのない父親だ、とか、そんな感じだったらしいけどな。だから娘もまだ行方不明の届けは出してなかったんだ。でもまぁ、それを小耳に挟んだ仕事熱心な警備隊員は、見回り中にイクスを見つけたら連れ戻してやろうと考えて、覚えていたんだな」
本部の隊員は意地悪くにやにやした。事情を察してリーファも眉を上げ、次いで苦笑した。
「気の毒に、点数を稼ぎ損なったね。で、そいつが娘さんに知らせに行ったのかい?」
「ああ。問題なければ今日、連れて来るって……おっ、噂をすれば」
隊員に付き添われて本部を訪れた靴職人の娘は、蜂蜜色に近い明るい茶色の髪をきちんと結い、働き者らしい雰囲気をまとっていた。手回しの良いことに、棺を担いだ葬儀屋を二人ほど連れている。
娘は本部の面々を見渡し、深々と頭を下げた。
「ラスタと申します。この度は、父が皆様にご迷惑をかけまして、申し訳ありませんでした」
思いもよらない謝罪に、隊員達は揃って面食らい、対応に困ってきょときょとした。普通なら、身内に遺体を引き渡しながら、おざなりにでも慰め気遣うのが警備隊員の役目である。逆に気遣われることなど、滅多にない。
「いえ、仕事ですから」
ようやく本部の隊員がもぐもぐ答え、戸惑いながら娘を氷室へ案内した。一応リーファも、発見場所の説明が要るだろうかと、それについて行く。
変わり果てた父親を前にしても、ラスタはまったく動揺を見せなかった。ただ何かに耐えるようにぎゅっと唇を噛み、しばし無言で立ち尽くす。それから彼女は、ゆっくりうなずいた。
「確かに、父です。大方、またお酒を飲んでいたんでしょう。遺体を引き取っても構いませんか?」
「ええ。この書類に署名をして下さい」
相手が事務的なので隊員も余計なことを言わず、用意しておいた書類を差し出す。その間に、葬儀屋が遺体を棺に移そうと持ち上げた。ところが、慣れない新人だったのかそれともうっかりしたのか、
「うわっ! あぶねえっ!」
がくんと首がもげそうになり、リーファが咄嗟にそれを支えるはめになった。両手で遺体の頭を受け止めた瞬間、彼女はぎくりと身をこわばらせて青ざめた。
「あ……」
ラスタが急いで「私が」と手を添える。リーファの反応を、不快感の表れと取ったらしい。だがリーファは厳しい顔で、小さく首を振ってそれを止めた。
「悪いけど、もっぺんそこの台に下ろして。今度はうつぶせに」
静かな声での指示に、居合わせた隊員がさっと緊張した。葬儀屋が不審な顔になり、判断を求めて雇い主を見る。ラスタは眉をひそめていたが、従うようにと仕草だけで合図した。
靴屋の遺体が再び台に横たえられると、リーファは後頭部の髪をかきわけた。隊員たちもまわりに寄って来る。そしてすぐに、ハッと気付いた。
「――事故じゃない。殺されたんだ」
リーファが言って示した場所には、何か鋭いものが突き刺さったと思しき穴が開いていた。ラスタが息を飲んで竦む。リーファは彼女を振り返り、沈痛に告げた。
「お気の毒ですが、ご遺体をお返しすることが出来なくなりました。どうやらお父上は、何者かに頭を一撃されて殺され、その後で河に投げ込まれたようです」
「そんな……」
ラスタは声を震わせ、それからぎゅっと拳を握って絞り出すように言った。
「河に……河に落ちた時、岩か何かでぶつけたのでは?」
「かもしれません」
殺人、という衝撃を和らげるため、リーファはひとまず肯定した。
「いずれにせよ、傷口を詳しく調べてみれば、運悪く尖った石が刺さったのか、それとも誰かに鋭い刃物で刺されたのか、判るはずです。出来るだけ早く調査を済ませて、ご遺体を埋葬できるように計らいますが……ひとまず、上でお話を伺えますか」
ラスタが小さく震えているのに気付き、リーファは退室を促した。氷室は長居するのに適した室温ではない。ラスタは黙ってうなずいた。
困惑している葬儀屋を帰らせ、ラスタを客用の椅子に座らせる。それからリーファは、奥の部屋にいるディナルへ報告に行った。
険しい顔で書類を読んでいたディナルは、どうやら表の様子に気付いていないらしい。リーファはごほんと咳払いして切り出した。
「隊長、昨日見つけた水死体ですが」
「あれなら、今朝身内が引き取りに来るぞ」
おまえの手は必要ない、とばかりの素っ気ない返事。リーファは何かピリッと刺激的な皮肉を捻り出してやろうかと考えたが、後のことを予想して堪え、端的に告げた。
「もう来ました。ですが、遺体を動かした時、不審な傷痕を発見したので、引き渡しは待って貰うことにしました。調査の指示をお願いします」
「なんだと? 確か貴様は昨日、外傷なし、と言ったな」
正確にはカナンが言ったんですが、とリーファは目つきだけで言い返し、極力感情を抑えて応じた。
「引き揚げた時にざっと調べた限りでは、目立った傷もなく、単に事故だろうと思われましたので。今日初めて、髪で隠れていた後頭部の小さな傷が見付かったんです。昨日の内にもっと詳しく調べておけば良かったのですが」
早々に追い出されましたんで、と、言葉に出さず示唆する。ディナルはぎりっと歯噛みした。
「引き取りに来た身内はどうした」
「お嬢さんが一人でしたから、そこで待って貰ってます。動揺してはいますが、受け答えはしっかり出来るので、話を聞くことは出来ると思います」
「ふむ。……よし、まずそこから始めるか」
意外にもディナルは自ら腰を上げ、厳しい面持ちで扉を開けた。
ラスタは奥からのしのし現れた熊男に気付くと一瞬ぎくりとしたものの、すぐにそれが警備隊長だと察して立ち上がった。ディナルはいかつい外見に不似合いな丁寧さで、座るように手で促しながら頭を下げた。
「警備隊長のディナル=イーラです。この度はまことにお気の毒でした。お力落としのところ申し訳ないが、お父上の足取りについてご存じのことを、お聞かせ願えますかな」
「こちらこそ、父がとんだご迷惑を。私でお役に立てますなら、何なりとお尋ね下さい」
相変わらず、ラスタの物言いは丁寧だ。何かと市民に敬遠されがちな警備隊としては、実にありがたい存在である。
またしても記録係を言い付かったリーファは、二人のやりとりを簡略化して要点をまとめながら、書きとめていった。
父がいなくなったのは三日前です。日が暮れてから帰宅しましたが、かなり酔っていて、口論になりました。私は父が荒れているのが怖くて、自室に引きこもってしまいましたが、しばらくして父が出て行ったような物音が聞こえました。いえ、確かめてはいません。そのまま朝まで、部屋にいましたから。
母ですか? 母はおりません。私が幼い頃に出て行ってしまったと聞いています。いいえ、お気になさらず。
それで……翌日になっても父が帰って来なかったのですが、大方、どこかの居酒屋で酔いつぶれているんだろうと思って……そうでなかったとしても、結局いつも酒場へ出て行くだけですから、捜すだけ無駄だと思って気にしませんでした。手持ちのお金がなくなったら、帰って来るだろうと。
父に恨みを持つ相手、ですか。さあ……。近隣の方にもよくご迷惑をかけていましたから、好かれていなかったのは確かですが、暴力沙汰になるほどのことかどうかは。迷惑というのは、ええ、そうです、昼でも夜でも、酔って大声を出したり、些細なことで絡んだり。
仕事上のこと……? いえ、どうでしょうか。父はもう何年も、まともに仕事をしていませんので。昔は腕の良い靴職人だったそうですが、だんだんお酒に溺れるようになって、仕事を回してもらえなくなって。
はい、今は私が裁断や上革の縫製だけを請け負っています。打ち出し模様をつけたり。ええ、比較的、力が要りませんから。父の昔の仕事仲間の方から、仕事を回して頂いているんです。
聞くほどに、隊員達のラスタを見る目が変わっていく。ゆきずりの同情から、尊敬のまなざしへと。リーファもすっかり感心してしまった。
小さな頃から母親に頼れず、だんだん堕落していく父親を支えて頑張ってきたがゆえに、こうもしっかりした娘へと成長したのだろう。
イクスが行きつけの酒場は商人街にあると聞いて、ディナルはうーむと腕組みをした。
「わざわざ離れた所まで?」
「昔は近所で軽く飲むだけだったそうですが、私が物心着く頃には、少なくとも隣近所でということはなくなっていました。その後もだんだん遠くまで行くようになって。昔の職人仲間と顔を合わせたくなかったのでしょうし、どっちにしろ、近場の店ではしょっちゅう揉め事を起こして、入れて貰えなくなっていましたから」
お恥ずかしい話です、とラスタは首を振る。ディナルは苦い顔で唸っていたが、ややあって決断した。
「リーファ、カナンと一緒にこの件に当たれ。酒場で揉めて、外に出たところをやられた可能性が高い。河に捨てられていたところからしても、現場は二番隊の管轄だろう」
「了解しました」
意外や意外。リーファは目をぱちくりさせながらも、姿勢を正して敬礼する。ディナルは腰を上げながら、ラスタに告げた。
「この隊員ともう一人が、お父上を殺した犯人を突き止めます。しばらくご近所にも調査に伺うなどしてお騒がせしますが、何卒ご協力をお願いしますぞ」
「それはもちろん。ですが、あの……もう、放っておくことは出来ませんか」
「――は?」
思わず、ディナルのみならず聞いていた全員がぽかんと口を開ける。ラスタは慌てて首を振り、目を伏せた。
「ごめんなさい、出来ませんよね。でもこれ以上、父のことで皆さんのお手を煩わせたくなくて……。何が父の命を奪ったにせよ、恐らくは父の自業自得ですし、調べたところで父が生き返るわけではありません。ですから……私としては、もう良いから埋葬してしまいたいと、それだけなのですが」
「そういうわけにはいきません」ディナルが渋面で諭した。「身内が殺されたりなどすると、面倒ごとは沢山だと言って我々を遠ざけようとする遺族は少なくありませんのでな、お気持ちはわかります。しかしそう言ってものごとに目を瞑っていては、人を殺した悪人が大手を振ってのさばり、さらなる罪を重ねることになる。申し訳ないが、しばらくの間、堪えて下さい」
「はい。無理なことを申し上げてすみません」
ラスタは大人しくうなずき、深く頭を下げた。ディナルはふうっと息をつくと、家まで送らせるので待つように言って、リーファを奥の部屋に呼んだ。
扉を閉めると、ディナルはリーファの手から供述の記録を受け取り、どっかり椅子に座った。
「あの娘を家まで送って行って、ついでに近所の住民の聞き込みも済ませて来い。それからちょくちょく、あの娘のところに行って進捗状況を報告してやれ」
「はい」
これまた意外な。リーファが驚いて皮肉も思い浮かばずにいると、ディナルはしかめっ面でささやくように唸った。
「貴様なら女同士、気を許すこともあるだろう。あの娘から目を離すなよ」
「……はい?」
リーファは思わずいつもの調子で聞き返してしまった。ぎろりと睨まれたが、それしきで怯んでいては警備隊員は務まらない。リーファは背後を確かめてから、ひそひそと詰問した。
「まさか、あの娘が犯人だと思ってるんですか? 自分の父親を殺しておいて、あんなに落ち着いて、のこのこ警備隊まで来られるわけないでしょう。なんだってそんな推測を?」
「自分の父親が死んだってのに、涙ひとつ見せないどころか、迷惑をかけたとばかり言う冷血な娘だぞ。酒浸りの父親にさんざん苦労させられてきた娘が、とうとう堪忍袋の緒を切らせてガツンとやったっておかしくなかろうが!」
「じゃあどうやって、死体を河まで運んだんです。あの子ひとりじゃどう見たって、大の男を担げやしませんよ。ずるずるひきずったんなら、水から引き揚げた時点でおかしいと気付くほどの傷がついていたはずです」
「だからその辺は貴様が調べるんだろうが! ぐずぐずしとらんで行け!」
「……了解」
ここで言い争っていても不毛だ。リーファは苦い顔のまま敬礼し、部屋を出た。隊長の先入観はともかく、真実を見つけ出せば良いだけだ。
「お待たせしました。行きましょう」
リーファは笑顔を作り、ラスタに手を差し伸べた。