4 犯人確保
城の厨房というところは、ほとんど休みなく操業中であるのが普通だ。が、今日この時間に限っては、いつもばたばた走り回る下働きも、切ったり刺したり怒鳴ったりと忙しい料理長も、調理前のビチビチ跳ねる魚さえもおらず、静まり返っている。
がらんとした厨房では、フィアナが一人、保冷庫の前を中心にして床に魔術の紋様を描いていた。白墨の走るカリカリという音だけが響く。
と、庭に通じる裏口の戸が開いて、リーファが入ってきた。
「買ってきたぞ。ここに置いといたらいいか?」
言いながら小さな包みを掲げて見せ、中央の一番大きな調理台に近付く。フィアナは床に膝をついたまま振り返り、「ええ」とうなずいた。
「ありがとう。あっ、そこ、踏まないで」
「おっと」
慌ててリーファは足を上げ、見えにくい所に引かれていた線をまたぎ越した。
「一包みだけでいいって言ったら、アリシアさんに笑われちまったよ。まぁ、本当のところを説明するのもややこしいし、味見ってことにしといたけどさ」
大理石の台にカサリと置いたのは、今しがたメータ商館で買ってきた、黒スグリのお茶とやらだった。魔術で使霊を呼び寄せるのに、取ったはずの黒スグリがまだここに残っていると錯覚させるのに使うとかで、フィアナに調達を頼まれたのだ。
「使い終わったら実際に味見してみるから、嘘にはならないわよ。さて、これで良し……っと」
フィアナは軽く手をはたいて立ち上がり、足元に気をつけながら調理台までやってきた。そしてお茶の包みを開け、
「ああ……」
小さく首を振り、ため息をこぼす。リーファも手元を覗き込んで顔をしかめた。
「これが不作の原因ってことだな」
「そうでしょうね」
黒スグリのお茶、と言うから、てっきり紅茶に乾燥果実をブレンドしたものだと思っていたのだが、正体は違った。スグリの葉と花だったのだ。
「春から流行ってた、ってことは、今年の花がこいつのために大量に摘み取られちまったってことだもんな。そりゃ、実がならない筈だよ」
「摘み取る手間は花も実も同じぐらいだし、農家にしてみれば、花の方が加工の手間と費用がかからない分、儲けになるんでしょうね。売る方にしても、果実の加工品よりこっちの方が断然軽くて扱いも楽だから……」
「おまけにいい値段で売れるしな。儲かるとなったら後先考えない奴が多いから、こんなことになるんだ」
ちぇっ、とリーファは舌打ちした。今年はまだ、レズリアに輸出される果実が激減しただけで済んだが、もし天候不順などが重なっていたら、輸出どころか自国内の冬場の貯えさえ怪しくなっていたかもしれない。
他国の事情とは言え、飢えと貧しさを知っている身としては、他人事とは思えなかった。味気なく栄養も偏りがちな冬の食卓に、加工品でも果実があるとないとでは大違いだ。
「神様の化身とやらが王様やってる割に、結構危なっかしい国だな。今度あの馬鹿王が来たら、きつく言っといてやらないと」
ぶつぶつぼやいたリーファに、フィアナが苦笑をこぼした。
「姉さんったら、怖いもの知らずね。サウラ様はきちんと民のことを考えていらっしゃるわよ。だからこそ、輸出量が減っただけで済んだのよ。……多分ね」
「その『多分』が怪しい」
なにしろシンハの同類なんだぞ、と、失敬極まりない発言をしてから、リーファは腕組みした。フィアナはその間に包みを開けて小皿に移し、こちらにも呪文の細工を施している。
「これで良しと。今から呼び出すから、姉さんはその線の外側で待ってて。説明した通り、使霊の姿を固定してしまったらこの模様は用済みだから、踏んでも大丈夫。捕まえるのに手を貸してね」
「了解。おまえが動くまでオレもじっとしてりゃいいんだよな」
手順を確認し、リーファは厨房の隅にひっこむ。フィアナが保冷庫の前に小皿を置き、白木の杖を軽く振ってから、呪文を唱え始めた。
術の大部分は模様で指定されているので、呪文そのものは短い。じきにフィアナは杖を掲げ、最後の一語と同時に、トンと紋様の端を突いた。
刹那、描かれた紋様がパッと光った。部分ごとに異なる色の光が走り、赤、紫、緑と様々に変化して消える。だがそれが終わりではなかった。白墨の線は中にそれらの光を閉じ込め、発動を待って沈黙している。
フィアナも彫像と化したように、身じろぎもしない。室内の空気が濃く、重くなった。知らずリーファも息を詰める。
――と、空中に蜜のような渦が生じた。ゆらり、ゆらり、ゆっくりと渦巻きながら降下し、その端から小さな足がつくられ、続いて膝、腰と順に姿が現れてゆく。
(あ、やっぱり子供だ)
リーファは目をみはり、まじまじとその使霊を観察した。見た目は人間でいえば七、八歳だろうか。淡い色の金髪は風に溶けてしまいそうに細く柔らかい。
向こうが透けそうな状態から徐々に現実感を増しつつ、使霊は夢から醒めたばかりのような面持ちで、不思議そうに保冷庫の方へ歩いてくる。少女のようにも見えるが、服装からして少年だろう。
(っていうか、あの服……使霊にも故郷とか、あるのか?)
あるとしたら、間違いなく北国だ。今の時季に毛織の上着など、見ているだけで暑苦しい。本人が暑さ寒さを感じないのだとしても、呼び出した魔術師がこの辺りの人間なら、まず間違いなく着替えさせるだろう。
(少なくとも、オレならそうするね)
着替えさせられるのかどうかも知らないが。
リーファがそんなことを考えている間に、少年はとことこ保冷庫に辿り着いた。すぐそばにいるフィアナは、どうやら見えていないらしい。
「……?」
首を傾げながら、少年は茶葉の小皿に手をのばす。ここにやり残した仕事があるようだ、けれど何かがおかしい、と訝る様子で。
小さな指が皿に触れた途端、いきなり白煙が噴き出した。
「っ!?」
少年は両手で顔を庇ったが、煙は瞬く間に全身を覆った。次いで、
「捕まえた!」
フィアナががばっと腕を広げ、少年を抱きすくめる。少年は悲鳴を上げ、手を思い切り突き上げた。
「あぅっ!」
思いもよらない力で顎を一撃され、フィアナがのけぞる。その隙に、使霊は彼女の腕を振りほどいて逃げ出した。
「よし、オレの出番だな」
リーファはにやりとすると、少年の前にぱっと躍り出た。少年は泣きそうな顔をしておろおろし、身を翻してまた逃げる。姿を変えられないことに慌てたらしい。翼を生やして飛び去ることも、風になって戸口の隙間から逃げることも出来ない。純然たる鬼ごっこである。
しばし追いかけっこの後、二人は調理台を挟んで睨み合った。じりじりと左右に動き、相手の出方を窺う。少年がちらっと逃げ道を探して目をそらした隙に、リーファは台の上に飛び乗った。
「それっ!」
大理石の台を駆け抜け、少年めがけて飛び降りる。寸前、いきなり少年がわずか数歩の助走で大きく跳躍した。
「あっ!? てめっ、ずるいぞ!」
リーファはぎりぎり堪えて体勢を立て直す。なんと少年は軽々と一跳びで台を越え、向こう側、彼女が元いた場所に着地した。姿は変えられなくとも、力だけはやはり、人間離れしているらしい。
「こなくそっ」
罵りながらリーファも反転して後を追う。その頃にはもう、使霊も恐れを忘れて鬼ごっこに夢中になっていた。楽しそうにけたけた笑いながら、広い厨房の中を縦横無尽に駆け回る。
「ようし、そこまでだ!」
ようやく隅に追い詰めた、と思ったが、あにはからんや。今度は助走なしで左右の壁を三角に蹴って跳び上がり、リーファの頭をはるかに越えて逃げてしまった。横木に掛けられた銅鍋が、ガランガラン音を立てる。
「くっそ、ぴょんぴょんと……っ、蛙かよ!」
毒づきながら、再度リーファは追いかける。フィアナは二人の動きについてゆけず立ち往生しており、すっかりただの障害物だ。しかし一応、少年の方では彼女に近付いたら捕まる、と認識しているらしい。リーファはそれを利用して少年を誘導すると同時に、走りながら上着のボタンを外した。
「今度は逃がさねえぞ」
保冷庫と木箱の間に追い込んで、捕獲の構えを見せる。少年は息を弾ませながらにっこりし、それっとばかり飛び上がった。
「よっしゃあ!!」
かかった!
リーファは素早く上着を脱いで投げ上げ、少年の視界をふさいだ。
「っ!?」
さしもの使霊も空中で向きは変えられず、まともに上着に突っ込む。そのまま墜落した少年を、リーファは全身で押さえ込んで捕えた。
「捕まえたぞ、この……っ、ジタバタすんな! こらっ!!」
「むー! むー、むー!!」
くぐもった悲鳴を上げながら、少年は往生際悪く暴れる。フィアナが赤くなった顎を押さえながら寄ってきたが、また殴られそうで、手を出せずにいる。リーファは闇雲に突き出される手足を避けながら、ああもう、と怒鳴った。
「大人しくしろって! 別にとって食うわけじゃねえんだから! いい子にしてたらお菓子でもなんでも食わせてやるよ!!」
――と。途端に、ぴたりと抵抗が止んだ。あまりの唐突さに、まさか窒息させたかな、とリーファは不安になってしまう。用心深く上着を外すと、その下から、
「…………」
眩しいほどキラキラ期待に輝くつぶらな双眸が現れた。リーファは思わずがくりと床に両手をつく。
「なんだよ……最初っから餌で釣れば良かった……」
しかし脱力している間もなかった。起き上がった少年が満面の笑みで、お菓子ちょうだい、と両手を突き出しているのだ。
「切り替え早すぎるぞ、おまえ」
リーファは苦笑しながら少年の頭をくしゃりと一撫でし、閉ざされている扉に向けて声をかけた。外ではなく、城内の廊下から通じる扉だ。その向こうで厨房の関係者が、調理器具の無事を祈りつつ、ことが終わるのを待っている筈。魔術の妨げになるからと追い出された国王陛下も。
「おーい、シンハ! そこにいるか? すぐに食べられるお菓子が欲しいんだけど」
「なんだって?」短い間の後、困惑した声が返る。「一体何がどうなったんだ。クッキーなら、そこの棚にあったと思うが……」
ギッ、と扉を開けて中を覗きこんだシンハが、次の瞬間、叩きつけるように扉を閉めた。リーファは呆気に取られて目をしばたく。横でフィアナが、眉間を押さえて嘆かわしげにささやいた。
「姉さん……先に服を着ないと」
「ありゃ」
リーファは自分の格好を思い出し、おどけて麻の肌着をつまんだ。いくら態度ががさつで女らしくなくとも、一応、身体の方はちゃんとした若い娘である。風通しの良い胸元を見下ろして、彼女はぺろっと舌を出した。
「悪ぃ悪ぃ、忘れてた。けど、何もそんなすごい勢いで逃げなくてもいいだろ? 見たら石になるってんじゃあるまいし」
笑って上着に袖を通しながら、扉に向かって大声で喋る。今度は慎重に扉が開き、隙間からシンハがするりと身を忍び込ませてきた。そして、背後の何かを締め出すように素早く扉を閉める。
「?? 何やってんだ、シンハ。向こうに毒の霧でも発生したか?」
「ある意味ではな」
苦々しくシンハは答え、少しは慎みというものを、とかなんとかぼやきながら戸棚に歩いて行った。リーファはきょとんとして首を傾げ、解説を求めてフィアナを見たが、こちらも頭痛を堪えている風情で答えてくれない。リーファは口を尖らせたが、ふと気付いてフィアナの顔を覗きこんだ。
「顎、大丈夫か? 本当に痛そうだぞ。結構赤くなってる」
「たいしたことないわ。後で冷やしておけば平気よ」
使霊の少年は早くもシンハの向かう先に気をとられていたが、二人の会話を聞くと、振り返ってちょいちょいとフィアナの裾を引いた。
「なあに?」
屈んだフィアナの顎に手を伸ばし、軽く触れる。途端に、赤みがすうっと引いて消えた。二人が驚きに目を丸くしている間に、少年はにっこり笑ってシンハの方へ走っていく。クッキーの甘い香りが漂ってきたので、もはや警戒心など微塵も残さず消え去ったらしい。まるでシンハが自分の主人であるかのように、ぴったりくっついてお菓子をねだっている。
「驚いた。あの子を呼び出した魔術師、とんでもなく強い力の持ち主よ。でなきゃあんな使霊、とてもつなぎとめておけないわ。人型で、自発的に行動して、しかも癒しの力まで持っているなんて……」
まさか、と小さく唇が動く。だがリーファはそこまで聞いていなかった。
「誰でもいいけど、早いとことっ捕まえてスグリを取り返したいな。近場の奴だったら助かるのに」
ぼやきながらシンハのところへ行って、自分もクッキーにありつこうと手を伸ばす。が、彼女がつまむ前に、シンハは無慈悲に容器の蓋を閉めてしまった。
「ええー、オレにもくれよ、ケチ」
ぶうっと膨れたリーファに、シンハは無言で冷たい目をくれ、それからおもむろに大理石の調理台を指差した。なんだよ、とリーファはそちらを見やり……
「あー……」
しまった、と嘆息する。うっかり追いかけっこに夢中になってしまった結果、台の上は酔っ払いがダンスしたかのように、べたべた足跡だらけになっていたのだ。
料理長に見付かる前に拭いてしまわなければ。
リーファは急いで、掃除用具の入っている棚へ走る。なんだかオレばっかり割を食ってる気がする、と、不公平感が胸をかすめたが、嘆いていられる時間はない。
雑巾を取って、バケツに水を汲みながら、彼女はシンハとフィアナのどちらにともなく話しかけた。
「使霊にもいろいろいるんだなぁ。お菓子が好きだって分かってりゃ、別の罠を張っておけたのにな」
すぐには返事がなかった。はて、とリーファは訝ったが、振り返るより早く、背後から不吉な気配がざわざわ漂ってきた為に、理由を察してそのまま凍りつく。
「あぁ、そうだなぁ。そうすりゃ、走り回る必要もなかったなぁ」
獰猛な笑いを含んだ唸り声が、低く床を這う。振り返れずにいるリーファの肩に、ぽん、と肉付きの良い丸い手が置かれた。いや、ぽん、などと軽くなく、どすん、と表現すべきか。
ぐいと引かれて、やむなくリーファはひきつり笑いで後ろを向く。
予想に違わず、そこには料理長が、耳まで裂けそうな素晴らしい笑顔で立っていたのだった……。