甘いお菓子と噂話
早春、『花に託して』より前の話です。
女中の名前が『花に~』に登場する下宿人の少女と同じですが、別人です。
書いた時期が離れていたのでついウッカリ……。
よくある名前なんですよという事にしておいて下さい。
「ねえ、あの、リーファ……さん」
廊下で女中の一人にもじもじと話しかけられて、リーファはきょとんと振り返った。エプロンの縁を両手で捻り回しながら、上目遣いにこちらを見ているのは、確か……
「セリナ、だっけ? 何か用かい」
リーファが向き直ると、セリナは恥ずかしそうに縮こまった。
「あの、実は、その……あなたは、ロト様とも親しいのよね? だから、あの、出来れば訊いてきて欲しいんだけど」
ロト『様』。耳慣れない呼び方にリーファは目をしばたき、それから、ああと察して微笑んだ。
「ロトに恋人とか婚約者がいるか、って話かい? そんなら、今のとこ誰もいないみたいだよ。仕事仕事で忙しすぎるってさ。手紙か何か、良かったら渡しとくよ」
「そ、そうじゃなくて……実はその、もう渡したんだけど」
「……? 返事がないのかい? あいつ、女の子からの手紙まで、書類に紛らせちまったんじゃねーだろうな」
大いにあり得る。リーファは頭痛を堪えて眉間を押さえた。そもそも恋文自体、手渡された時点でそうと気付いていない可能性が高い。事務的に受け取って書類挟みに放り込み、それっきりということも考えられる。
が、セリナはふるふる首を振った。
「手紙じゃないの。あの……春分祭の、お菓子を。でも、その……なんだか、分かって頂けなかったんじゃないかって」
「あぅぁ」
駄目だ。リーファは天を仰いで呻いた。手紙ならまだ読めば分かるが、お菓子ではただの差し入れと思われるに違いない。というか、現に、
「……ごめん。それ、オレも食った」
「えっ」
「なんか差し入れ貰ったから皆で分けようって……春分祭だよな? 木の実の入ったクッキーだったよな? うん……それだ……本っ当、ごめん」
あまりにもロトがいつも通りの態度で、普通に、いたって自然に、執務室でのお茶休憩に、そのお菓子を出したものだから。春分祭のお菓子は愛の告白、なんていう巷の行事のことなどは、
「何にも気付かねーで、シンハと三人で頂きました。美味しかったです」
ゴメンナサイ、と三度謝って両手を合わせる。ロトは城内の使用人達にもわりと人気があって、ちょくちょく料理長や女中達から、様々な差し入れを貰うのだ。丁度忙しい時だったというのもあり、シンハもリーファも、全く疑いもしなかった。
セリナは呆然と絶句していたが、ややあって、悲しげに深いため息をついた。知らずに恋路の邪魔をしてしまったリーファとしては、かける言葉もない。
と、セリナはもう一度小さな吐息を漏らしてから、予想外のことを言った。
「やっぱり、そうじゃないかって噂は聞いていたけど」
「?? 噂って?」
「知らないの? 私達の間じゃ、多分間違いないって話だけど……」
国王の執務室は、密談でもしていない限りは常に開放されている。その扉の陰から、ひょこりと首を出して中を窺う不審者が一人。
「何だ、リー。ロトなら街に出てるぞ」
一人淋しく書類仕事をしていた国王陛下が、呆れたような、面白そうな声をかけた。
リーファはこそこそ足音を忍ばせて執務室に入ると、後ろ手で半分ほど扉を閉めた。閉め切るとかえって怪しいが、開放しておくのはちょっと困る、出来れば話し声が聞こえないふりをして下さい――のような、半端な意思表示。
シンハは眉を上げ、読んでいた書類を置いて、リーファを見つめた。話を聞く態勢だ。
リーファは恐縮そうな顔で執務机に歩み寄ると、シンハの向かいにしゃがんだ。
「あのさ、いきなり変なこと訊くけど」
「……?」
珍しく歯切れの悪い物言いに、シンハは訝る表情になったものの、少し身を乗り出す仕草で先を促した。リーファはちらっと背後を振り返って誰もいないのを確かめてから、小声でささやく。
「おまえってさ、女と付き合ったことあるのか?」
ズッ、と、机についた肘が滑る。予期せぬ質問にシンハは当惑顔になったが、リーファが同じぐらい戸惑っている風情なので、どうにか気を取り直して答えた。
「いきなりなんだ、俺の隠し子でも現れたのか」
「ってことは、あるんだな?」
「……王族と認められる前は、な。十年は昔だし、その時の相手はもう結婚している。もちろん俺の子供はいない」
「あ、いや、隠し子じゃねーんだ。そっか、おまえも普通に女と付き合ってたんだよな。そうだよなぁ、うん」
一人勝手に安心納得してうなずくリーファ。何がなんだか分からず、シンハは夏草色の目をしばたくばかり。彼を疑問の藪に放り込んでおいて、リーファの方は少しすっきりした表情になった。そして、今度は単なる興味と分かる口調で質問する。
「なんで別れたんだ? やっぱり身分の差ってやつ?」
「変なことを聞きたがるな、どうしたんだ。他人の色恋沙汰に突然興味がわいたのか」
「そーゆーわけじゃねえけど。ちょっとした好奇心。おまえさ、オレが知り合ってからこの方、全然、女っ気がねえだろ。だからちょっと心配になっただけ」
「余計な心配はしなくていい、どうせ否応なく相手が決まるさ。政略的に最も条件の良い貴族から、時機を見て王妃を迎えるだけの話だ」
「……なんかその言い草だと、女なんか嫌いだ、ってみたいに聞こえるけど」
「そうじゃない」
なんなんだ一体、何をそんなに食い下がるんだ、と、うんざりした声音。だがリーファは引かず、じっと真顔で続きを待っている。シンハは渋々、嫌な過去を白状した。
「今現在、俺のまわりに女の影がないのは身分のゆえだが、昔の女と別れたのは戦争前だ。身分は関係ない。何回かベッドを共にして、嫌になったからだ」
げふ、とリーファが空気にむせた。さすがにここまで赤裸々な話をされるとは思っていなかったのだ。が、シンハはさっさと片付けようとばかり、常になく饒舌に続けた。
「あんな場面でさえ、まともに目を合わせられないんだぞ。生贄の子羊が運命を甘受するような顔をして、恭しくおとなしく、畏れ多いと怯え服従されて、これ幸いと喜ぶほど俺は悪趣味じゃない。だから別れた、納得したか」
「ごめん、悪かった、もう訊かない。本当スミマセン」
本日二度目、リーファは両手を合わせて謝罪した。シンハは苦りきった顔でそっぽを向き、腕組みして黙り込む。
しばらく気まずい空気が漂っていたが、それもこの二人のこと、長続きせずに薄れ始めた。それを見計らって、リーファはこほんと咳払いした。理由を説明しようと口を開きかけ――ふと思い出して、別のことを訊く。
「もしかして、以前言ってた……本気で神を呪って加護を取り上げられた時、ってのは」
「ああ、その後だ。惚れた女さえ否応なく這いつくばらせる力の、何が加護だ、とな」
シンハは遠い目をして答え、それからやや照れたように目を伏せて、ちょっと額を掻いた。
「まあ今から思えば、この力に屈するような人間は、妻にしろ何にしろ、生涯付き合う相手じゃない、という事かも知れん。やはり余計なお世話だとは思うが」
「そっか。……変なこと訊いたのはさ、その……ちょっとした噂を聞いたから、なんだよ」
「噂?」
「うん。覚えてるかな、春分祭の頃にさ、ロトの奴がお茶の時間にクッキー用意してくれただろ。木の実の入ったやつ」
「そうだったか?」
「そうだったんだよ。ロトが、差し入れに貰ったからって言ってたけど……あれ、女中の子が渡したらしいんだよね」
「――あ、まさか……」
「その、まさか。あいつ結構、女中さんの間で人気あるんだぜ」
「それは知ってる」
が、あのクッキーが告白のお菓子だとは連想しなかった。シンハは片手で顔を覆ってしまった。乙女心のこもった大切なお菓子を、気付かずに第三者が二人も加わって、ばりばり食ってしまったのである。残念きわまりない。
しばし後悔してから、シンハはふと妙な顔になって問うた。
「で、それがなぜさっきの質問につながるんだ」
「えー……うん、つまりさー……」
ぽり、とリーファは頬を掻き、言いにくそうにごまかし笑いを浮かべて続けた。
「ロトがそこまで鈍いのって、おまえとデキてるからだ、って噂が」
ゴン!!!
まともに頭が机に落ちて、とてもとても痛そうな音を立てた。もっとも、痛いのはむしろ心の方かも知れない。大抵の攻撃には耐え抜く国王陛下も、さすがにこれは辛かったようだ。突っ伏したままぴくりともしない。
「……あり得んだろ……何をどう見ればそういう色気のある関係だと思えるんだ」
魂まで一緒に抜けそうな呻きが漏れ、リーファは「だよなぁ」と同情的に苦笑した。
ややあってどうにかシンハは頭を上げ、ぶつけた額をさすりながらため息をついた。
「まあ、しかし……それを直接ロトの方に確かめなかったことは、褒めてやる」
「当たり前だろ、こんな恐ろしいこと本人に訊けるかよ」
「だからって妙な巻き添えを食わすな」
「ホントそれはごめんって……まぁ実際オレもちょっと気になってはいたからさ」
「おい!」
「いやロトの事じゃなくて。おまえさ、なんか色々、諦めちまってんじゃないのかなぁって、前から思ってたんだよ。そりゃ王様だから政略結婚なのは仕方ねえけど、でもさ、誰かを好きになるぐらいは自由だろ? そりゃまあ……そうなったら正直ちょっと寂しいけど、でもさ、っ!」
言いかけた声が、伸ばされた大きな手で遮られる。いつもより少し荒っぽく、シンハの手がリーファの前髪をくしゃくしゃにした。
「そんな気を遣うな」
苦笑に隠された痛みが、緑の目に滲む。リーファはそれ以上何も言えなくなって、黙って頭を鳥の巣にされていた。
シンハは思う存分リーファの頭をかき回してから、仕上げにぽんとひとつ、軽く叩いて切り上げた。その時にはもういつもの表情で、何もなかったかのように見える。
「女中の事は俺からロトに話しておくから、おまえはもう、変な噂は忘れてやれ」
「……うん」
ごめん、ともう一度謝る代わりに、リーファはただ、小さくうなずいたのだった。
夕刻、女中頭のテアに呼ばれたセリナが出向くと、小さな髪留めを渡された。布製の小さな花が付いたピンで、仕事中にも使える程度のものだ。
「ロト君からだよ」
テアは素っ気なく言った。ロトは十八歳で城に上がった為、古参の使用人からはしばらく坊や扱いされ、今でも一部にその名残があるのだ。
「春分祭のお菓子は悪いことしたから、お詫びに、ってさ。あんた、あの子に何言ったんだい」
「えっ? あの方には何も、言ってませんけど……」
「変な噂で陛下を巻き添えにするのはやめてくれ、って頼まれたよ。どういうことかしらね」
じろりと睨みつけられ、セリナはピンを指でいじり回した。
「ちょっとした冗談ですよ。あたしはただ、春分祭のお菓子、意味に気付かれなかったみたいだから……確かめてくれって、リーファさんに頼んだんです。なのにあの人、一緒にお菓子を食べちゃったなんて言うから、腹が立って」
「見込み薄だ、って忠告したでしょうが」
「分かってます! でも、当の本人が何にも気付いてないんですよ。ロト様は、陛下と同じぐらい、あの人を大事にしてるって、皆知ってるのに。無神経じゃないですか。だからちょっと、からかってやっただけです。陛下とロト様が“禁断の仲”だって噂ですよ、って」
「あんたねえ……」
ふう、とため息。テアはやれやれと頭を振り、処置なしと言いたげに両手を広げた。セリナは赤くなってむくれ、ピンをくるくる回し続ける。怒っているふりをしていなければ、泣き出してしまいそうだから。
テアはそんな娘心が分かり、少しばかり同情のまじった、温かい苦笑を浮かべた。ぽんとセリナの肩を叩き、
「まあ、そう落ち込むことじゃないさ。あんたは良い子だよ。ただ相手が悪かっただけ」
慰めてから、しかつめらしく一言。
「その噂、随分昔からあるからねぇ……」
涙ぐみかけていたセリナがふきだし、げふげふむせ返って、しまいに笑い出す。
「まさか、本当に?」
「ああ、あの子が城に入ってじきに、怪しいって噂になったよ。だってそうだろ、若くて颯爽として利発で、いかにも女の子に受けそうなのに、見向きもしないで陛下陛下って。あの頃も片恋してた女の子は大勢いたけど、誰もロト君を射止められなくてね。なんせ、まず陛下に勝たなきゃ振り向いても貰えないんだから。まったく、相手が悪かったんだよ」
「……そうですね」
それなら諦めもつきます、と悟ったような涙声。微かに震えるセリナの背中を、テアは優しく撫でてやった。
後日。
「陛下ッ!!……っ、やられた!!」
秘書官の怒声と、扉を叩きつける音が館に響く。続いて廊下を疾走する足音。
裏庭に面した通廊を掃除していたセリナは、箒を片手にそれを聞いて苦笑した。そこへ、これから仕事へ行くらしきリーファが通りがかる。あ、というような顔をしたリーファに、セリナはぺこっと頭を下げた。
「この前はごめんなさい。変なこと言って」
「いや、まあ……っていうか、オレの方こそ、ごめんな。今度シンハがお菓子作ってくれたら、お裾分け持って行くからさ」
「まさかそんな、畏れ多い」慌ててセリナは首を振る。「それより、あの……噂のことだけど」
「ああ、あれね。今度誰かが言ってたら、否定しといてやってくれるかい? それはねーだろ、ってシンハが言ってた」
けろりとリーファがそんなことを言ったもので、セリナは蒼白になって倒れかけた。箒に掴まって体を支え、まさか、と恐る恐る訊く。
「陛下の……お耳に?」
「あー、うん。ロト本人には流石に訊けなくてさ」
リーファはぽりぽり頭を掻く。セリナは眩暈がしそうだった。なんなんだ、その判断基準は。ロトは駄目でも国王陛下になら言えるのか。
くらくらしているセリナに、リーファは苦笑を見せた。
「まぁでも、あんだけ毎日陛下陛下って追いかけ回してたら、変な噂になっても、ある意味しょーがねえかもなぁ。今日もやってるよ」
ははは、と笑った語尾に、ロトの「待ちなさい!」が遠くから重なる。セリナもつられて失笑した。
――と、そこへ。
「わっ!」
「きゃあッ!?」
上から何かが落ちてきて、ガササッ、と茂みを揺らした。直後、二階の窓からロトが身を乗り出して叫ぶ。
「リー! 捕まえて!」
「えっ!? あっ、シンハてめっっ」
落下物体が国王だと気付いたリーファが身構える。だが一瞬早く、シンハの方が彼女の手首を掴んでいた。
「逃げるぞ!」
「待てこら、なんでオレまで!! 巻き添えにすんな馬鹿野郎!」
はーなーせー……
悲鳴が遠ざかり、入れ違いにロトが階段を駆け下りてくる。セリナが無言で廊下の先を指し示すと、ロトは一瞬会釈して即座に走り出した。
竜巻のごとき騒乱が過ぎ去り、取り残されたセリナは、やや呆然と立ち尽くす。
少しして、彼女は堪えきれずにくすくす笑い出した。やれやれと頭を振り、小さく独りごちる。
「本当、相手が悪かったわ」
きっとロトは、追われる立場には関心がないのだ。追いかけて追いかけて、常に誰かの背中を追い続けているから、自分が目指すものを手に入れるために走り続ける人だから。最初から手の届く所にいる人間など、そもそも眼中にないのだろう。
「あーあぁ」
残念。セリナはため息をつくと、時ならぬ嵐で散らかされた廊下の掃除を再開したのだった。
(終)




