六章 軋む家族
爽やかな朝の光を浴びて、きらきらと白い世界が眩しい。リーファは目蔭をさして、くしゃみが出かかったのを堪えた。自分の吐く息が、視界を煙らせる。
踏み出すと、積雪はくるぶしに届かない程度だと分かった。辺り一面白銀に埋もれているが、この分なら、昼頃には大部分が溶けてくれるだろう。
さくさくと柔らかい雪を踏みしめて歩く。その足音が、ぱりっと焼けた昨夜のアップルパイを思い出させた。あれは絶品だったなぁ、などと甘い記憶を反芻しながら街へ降りて、警備隊本部の扉を開け――
「げ」
思わず漏れた小さな声と共に、ささやかな幸福は消し飛んだ。
一瞬まともに心情を出してしまった顔をごまかそうと、急いでリーファは姿勢を正して敬礼する。
「お早うございます!……で、どうして班長がこちらに?」
「なに、少しばかり進展があってね。君が昨日の申し送りで詰所に置いて行った似顔絵は、本部で神殿の守衛から聞いて作成したものとそっくりだった。同一人物と思われるから、三番隊に協力を要請してヘイス何某とやらを捕まえるよう頼みに来たんだ」
セルノは胡散臭いにこやかさで応じ、勝手にリーファの名札を出勤位置に掛け替えると、
「ちょうど良かった。これからリーヴィン子爵の屋敷へ行くから、君も来たまえ」
有無を言わさず彼女の腕を取って外へ連れ出した。強烈に苦い顔のディナル隊長を後に残して。察するに、リーファが本部に入る前、セルノはディナルの機嫌を損ねるような話をしていたらしい。
(お嬢さんを僕に下さい、とか言い出したんじゃねえだろうな)
昨日の今日で、まさか、いくらなんでも。
「隊長の機嫌が悪かったようですが、何かあったんですか」
歩きながら問いかけると、セルノはとぼけて「うーん」と空を仰いだ。
「どうやら隊長は、娘さんとあまり上手く行ってないみたいだな」
「フィアナの話をしたんですか」
よもやまさか、本当にその“まさか”なのか?
「ああ、稀に見る理性と知性にすぐれたお嬢さんですね、というのは褒め言葉だと思ったんだが」
「それはちょっと……褒める方向を間違えましたね」
あ痛、とリーファは眉間を押さえた。セルノ単体でも面倒なのに、この上ディナルとのいざこざまで加わってはたまらない。セルノが未来の舅に上手く取り入るのを助けるつもりはないが、と言って、ディナルが機嫌を損ねて帰宅し、おまえのせいだとフィアナに当たっても困る。
どういうことか、と問うまなざしを向けた班長に、リーファは仕方なく説明した。
「隊長は昔気質ですから。娘が魔術の研究に没頭して、ほかを顧みないのが前々から不満なんですよ。普通に、可愛いとか美人だとか、あるいは気立てのいい娘さんだとか褒めたら、喜ぶみたいですけどね」
もっとも、気立てに関してフィアナを褒める人は、リーファの知る限り滅多にいないのだが。ともかく、そんな事情だからフィアナの話題は避けた方が良い、とリーファはやんわり牽制する。セルノは納得の風情で軽くうなずいた。
「なるほど。それではフィアナさんも家では窮屈だろうな」
フィアナさん、って。
ただ“さん”付けしただけの呼び方がこうも胡散臭く感じられるのはなぜなのか。リーファは思わず咎める目をしてセルノを見つめ、それから急いで話題を変えた。
「それより班長、リーヴィン子爵の屋敷に行くとおっしゃいましたが……?」
「ああ、昨日は結局、手鏡の特徴を聞きに行けなかったからな。それと、君が劇場で聞き込んだ話の内容からして、ニノ自身は手鏡を盗むつもりはなかった――少なくとも金銭的な目的では、と、そう思える。だから何か、恨みを持つ者による嫌がらせの可能性はないか、遠回しに確かめなければ」
「へえ」
リーファは思わず素直に感心してしまい、セルノに胡乱な目を向けられた。おっと、と慌てて職務上の態度を取り繕い、ごほんと咳払いしてごまかす。
「実は私もその可能性を考えていました。それで少し、城の方で貴族の事情に詳しい人を探して尋ねてみたんですが、いくつか興味深い事が判りまして」
情報源を曖昧にぼかし、リーファは昨日調べたことについて簡潔に伝えた。現在のリーヴィン子爵夫人は二人目で、一人目は結婚前に平民と駆け落ちした過去があること。ニノの用意した芝居の粗筋が、偶然にしてはよく似ていること。
セルノは黙って最後まで聞いた後、さして感銘を受けた様子もなく言った。
「城住まいだと調査に便利な点もあるようだが、そう簡単に第三者に吹聴するのは、如何なものかな」
考えの浅い馬鹿、と見くびられた気がして、リーファはいささかむっとする。
「これから当の貴族の屋敷に乗り込んで聴取をしようという上司に、留意事項を伝達するのも、吹聴に当たりますか」
「おや、ご親切に」
「……今後、余計なお世話は慎みますよ」
「なぜ。私は礼を言ったんだぞ。それが気持ち悪いのか」
そうは言ってねーだろ、とリーファはうんざりして上司を見やる。相手は無意味に上機嫌だ。
(人をおちょくりやがって)
最前のやりとりも、皮肉や嫌味ではないのだろう。軽い言葉遊びに過ぎず悪気はないということは、おどけた口調や表情から分かる。が、気心の知れた友人ならともかく、着任間もない上司にやられて楽しいものではない。
リーファは疲れた風情で、小さくため息をついた。
「ええまあ、多少落ち着きませんね。ところで子爵家には今、令嬢のほかに人がいるんですか。誰から話を聞きます?」
「令嬢が来ているのなら、当主か夫人のどちらかはいるだろう。私がそっちに当たるから、君はその間に令嬢から手鏡の詳細を聞いて図に起こしてくれ。時間があれば使用人にも聞き込みを」
「王都で細工職人に何か注文したことがあるか、ニノ親子や周辺の関係者が出入りしていなかったか……ですね」
「そうだ。君なら彼らともすぐに打ち解けられるだろう」
信頼と言うよりも、軽い揶揄の気配。リーファは肩を竦め、
「そう願いたいものです」
と答えておいた。薄荷の香りを漂わせている気取った班長さんよりはね、と皮肉ってやりたくなったのを、ぐっと堪えて。
ともあれ子爵の屋敷に到着すると、二人は正面ではなく裏口へ回った。警備隊員とは言っても、構成員に貴族と名乗れる者など一人としていない以上、普通は正面から入れて貰えない。例外的に警備隊員に好意的な貴族もいるが、リーヴィン子爵がどちらなのか、試してみるのはちょっとばかり冒険だ。
案の定、出迎えた家令は不機嫌な顔だった。無愛想に二人を通し、客間とは到底言えない小部屋で待たせる。しばらくして、昨日も見たルミナの侍女と一緒に戻ってきた。
「旦那様がお会いになるそうです。こちらへ」
セルノには家令がそう言い、リーファには侍女が「あなたはこちらへ」と手招きする。階段を上ったところで、リーファはセルノと別方向へ連れて行かれた。
ルミナの部屋に着くより先に、リーファは侍女にこそっとささやく。
「お嬢様はまだお怒りですか」
相手をするあなたも大変ですね、との同情を、ほんのわずか含ませる。相手がもしルミナに入れ込んでいたら、逆に怒らせてしまうので、あくまでも微かに。
幸い侍女は、それほどお嬢様に忠実ではないようだった。少し疲れたような苦笑を浮かべ、「はい」と小声で答える。
「でも、怒鳴ったり叫んだりはなさいませんから。お怒りではありますけど、ちょっと不機嫌なぐらい……あるいは不安がっていらっしゃるのかも知れません。盗みに遭うなんて初めてのことですから」
そう言う侍女にも、少々びくついた様子が見られる。
自分の持ち物が盗まれて、しかも盗んだ当人が殺されかけたようだ、などという事態は、真綿でくるむようにして育てられたお嬢様には衝撃だろう。その身近に仕える侍女としても、もしやまだ何者かに狙われているのではないか、今度はもっと恐ろしい目に遭うのではないか、と心配せずにはおれまい。
むろんリーファは共感出来なかった。彼女自身はむしろ過去長らく、汚い世界を意識もせず安眠している金持ちに忍び寄り、枕をいきなり引っこ抜いてやる方の立場であったからだ。しかし、だからこそ、相手の衝撃を想像することは出来た。
「大丈夫ですよ」
リーファは軽い口調で、ことさら何でもないように言った。
「昨日調べた限りでは、小道具係のニノは至ってまっとうな市民です。多分、釣銭をごまかした事もないんじゃないかな。今回のことは、偶然か、何か手違いがあったか……とにかく、怖がるようなことじゃないと思いますよ。早く彼の意識が戻って、話してくれたら良いんですけどね」
「そう……ですね。あ、お嬢様はこちらです」
「ありがとう。後で皆さんの方にも伺いますので、宜しくお願いします」
リーファは笑顔で一礼してから、侍女が開けてくれた扉をくぐった。
室内の小さな暖炉に火が入っており、ルミナはその前でぼんやり座っていた。不機嫌だか不安だか分からないが、表情は硬い。伏目で炎を見つめる横顔に、リーファはふと、奇妙な既視感を抱いた。
(あれ?)
前にもここに来たことあったっけ、いや初めてのはずだ、と首を傾げる。と、ルミナが振り向き、奇妙な感覚はすっと薄れて消えた。
「どう? あれから何か分かって?」
「はい、多少は。神殿の墓地にニノを置き去りにしたと思われる人物の、見当がつきました。劇場の関係者によれば、ちょくちょくニノを訪ねては小銭を無心していた男だそうです。その男が手鏡を持ち去ったのではないかと見て、今、市内に手配中です」
「それじゃ、その男が捕まったら、手鏡は戻ってくるのね」
「まだ分かりませんが、その可能性が高いかと。ただし昨日の内に売ってしまっていることも考えられます。ですから、改めて手鏡の特徴をお聞きしたいのですが」
言いながらリーファは、紙と鉛筆を用意する。
「確か、てのひらぐらいの大きさでしたね? 縁が真鍮で、金と銀で蔦の模様が描かれていたと思いますが」
リーファが促すと、ルミナもうなずいて特徴を描写し始めた。長方形で、裏は木製、ケースや付属の櫛などは無し。
簡単な図を作成していたリーファは、そこまで聞いてふと手を止めた。
「あの、失礼。私はこういう持ち物には疎いんですが、普通、手鏡には櫛などがついているものなんですか」
金持ちが室内で使う手鏡なら、リーファも何度か目にしたことがある。把手があって、大きさも顔と同じぐらい、普通は化粧台の上か抽斗にしまってある物。だが、貴婦人が手提げに入れて持ち歩くような小物となると、あまり見覚えがなかった。
ルミナは眉を少し上げたが、蔑みや驚きを感じたとしても、それを言葉に出しはしなかった。
「普通はね。必ずというわけではないけれど、小さなケースに櫛と揃いで収められるようになっているものだわ。剥き出しで持ち歩いて、鏡に傷がついたら台無しでしょう。あの手鏡は……なぜあれだけなのか、知らないのだけど。母の形見だから使っているだけ」
「お母上の? ですが」
ご存命では、と表情で訝って見せる。もちろん実際は事情を知っているのだが。
「母は私を産んですぐに亡くなったのよ。今の母は……継母。と言っても実の母をまったく覚えていないから、違いはないけれど」
「あの芝居と同じですね。だからあんなに熱心に見ていらしたんですか」
さりげなくリーファが言うと、ルミナは顔をしかめて振り向いた。熱心に見てなどいない、と抗議するように。だがリーファの穏やかなまなざしを受け、目を落とす。
「……そうよ。でも勘違いはしないで。母は誰かを毒殺するような悪人じゃないわ。ただ、気になるだけ。もし実の母が亡霊となって、あの鏡に宿っていたら、って」
「何か訴えたいことがあるのじゃないか、と?」
「なにかしら言い分はあるでしょうね。私は……ずっと、私の母はふしだらで、一家の恥だと聞かされて育ったわ。そんな人の血を引いているのが、たまらなく嫌だった。でも、あのお芝居を見て……もしかして、本当は違うのかも知れないと……でも、今更そんなこと、確かめられないから」
ルミナは時々言葉に詰まりながらも、感情を吐露し続けた。ずっと誰かに聞いて貰いたかったのだろう。家族とは一切関わりのない誰か、秘密を守れる相手に。
リーファはじっと佇み、ルミナが唇を噛んで黙り込んでからも、しばらくただ待っていた。ルミナが数回瞬きして濡れた睫毛をごまかすと、リーファは静かに切り出した。
「あの手鏡がお母上の形見だとしたら、何か因縁のようなものはないか、聞いていませんか。手鏡の製作を頼んだが、途中で未完成のまま――櫛もケースもないまま、渡さざるを得なくなった事情があったとか。損得勘定を抜きにして、あの手鏡を手に入れたいと願う誰かがいるような、心当たりは?」
「……どういうこと?」
「あれから色々調べましたが、ニノの懐具合は切羽詰っている様子がありませんでした。よほど金に困っていたなら、後先考えず衝動的に手鏡を盗んだことも考えられますが、そうではありません。となれば、何か別の理由があったはずです。誰かに頼まれたか、彼自身があの手鏡に何らかの関りを持っているのか」
リーファの説明に、ルミナは眉間に剣呑なしわを寄せた。単なる物盗りならまだしも、自分達とより密な関係のある事件だとなれば、不快も倍増だろう。ルミナは少し考えていたが、じきに頭を振った。
「思い当たることはないわ。そもそもが、私は生みの母のことをあまり知らないのよ。両親も、祖父母も、話したがらないから。何かのはずみで話題にのぼったら必ず、家の恥、の一言で片付けられた。知りたければ、お父様に訊くことね。もっとも、あなたに話すとは思わないけれど。他人の家の秘密を嗅ぎ回るより、手鏡を取り返すのが先でしょう」
「おっしゃる通りです」
リーファは頭を下げ、それ以上の詮索は諦めた。彼女から聞き出せるのは、これが限界だろう。手鏡の図をさっと描き上げて確認を取ると、大人しく退散して使用人の方へ聞き込みに回った。
結果はこちらも、芳しくなかった。
二十年以上前から屋敷に勤めている使用人は一人もいなかったし、出入りの職人・商人についても、ニノとの関係は全く見出せなかった。
何より、ろくに時間を割けなかったのだ。リーファが聞き込みを始めて間もなく、家令に追い立てられるようにしてセルノがやって来た。どうやらあちらも、不首尾に終わったらしい。
ほとんど言葉を交わすことも許されないまま、二人の警備隊員は裏口からぽいと放り出されてしまった。
「駄目でしたか」
リーファが問うと、セルノは肩を竦めて答えた。
「いやもう、大層お怒りだった。君と劇場の座長を訴える、とまで言うもんだから、手鏡を貸すと決めたのはお嬢さん自身だってことを思い出して貰うのに一苦労だ。ついでに、そんなに大事な手鏡なら曰くのある逸品なんでしょうね、裁判を起こせば街中の噂になりますよ、と言ってやったら、考え直してくれたよ」
「察するに、子爵は手鏡の由来をご存じだ、と」
「そうらしい。とても聞き出せなかったが」
「ルミナの話では、実母の形見だそうですよ」
「なるほどな。道理で詮索されたくないわけだ。他人の家庭に鼻を突っ込んで嗅ぎ回るより、盗人と手鏡を見つけ出すのが仕事だろうが、とお叱りを頂戴した」
「同じことを言われましたよ。こちらとしても、すんなりヘイス何とかを捕まえて、その懐から手鏡を取り返せたら、余計なことに首を突っ込まなくても済むんですがね」
やれやれ、とリーファは天を仰ぐ。事情が気にならないわけではないが、警備隊の仕事としては、そこまで踏み込む必要はない。もっとも、盗人を裁判にかけるとなったら、盗んだ理由など事情を詳しく調べることになり、結局、手鏡に関することは表に出てきてしまうのだが。
セルノも同じことを考えたらしく、白い息を吐いて、独り言のように応じた。
「子爵としても、出来れば一切をもみ消したいようだ。盗人が黙って手鏡を返すなら、訴えはしないと匂わせていた。だから我々も黙って探せ、というわけだ。貴族は勝手なものだな」
さり気なく付け足したつもりであろう最後の一言に、なにやら意味深長な響きがまじる。おや、とリーファは目をしばたいてセルノを見つめた。が、相手はあらぬ方を見たまま、目を合わせようとせず、沈黙している。
リーファは少し間を置いてから、自分も視線を適当なところへ外して言った。
「誰だって言いたくない事はあるもんです。それをつつき回すから、警備隊は嫌われる」
「まったくだな」
セルノはにやっとして、小さく身震いした。
「さて、いつまでもここで突っ立っていても仕方がない。途中で軽く昼食をつまんでから、神殿へ行こう。ニノの意識が戻っているかも知れない」
「だと良いですが」
リーファもうなずいて歩き出す。直後に横で、フィアナさんもいるかな、とつぶやいたのが聞こえて、危うくつんのめりそうになった。
「……班長」
「なんだ?」
「……いえ……その……」
忠告してやる方が親切だろうか。フィアナの好みは二十歳ばかり年上の、物静かで学究的なタイプですよ、とか。しつこくすればするだけ逆効果ですよ、とか。
リーファは疲れた気分で、胡散臭げに横を歩く班長を見やった。
「フィアナの義従姉としてお願いしますが、彼女は魔術の研究に打ち込んでいて、滅多に家にも帰らないほど忙しいんです。捜査上やむを得ない場合は別として、出来るだけ巻き込まないでやって下さい」
このぐらいの牽制は許されるだろう。言葉を選んで慎重に頼んだリーファだったが、
「勉学熱心なんだな。素晴しい」
「…………」
残念ながら、敵にはまったく通じていないようであった。




