三章 思いがけない場所で
「つまり、小道具係のニノって奴が、手鏡を持ち逃げした線が濃厚だってことですね?」
リーファは座長や裏方達の話を総合して、ひとまずの結論を出した。とは言え、どうにも腑に落ちない。座長もそれは同じらしく、困惑顔でしきりに首を捻っていた。
公演中、座長は一切を監督するのに忙しく手が離せない。そこで、手鏡の出番が終わった時点で、ニノ――命に代えても、と言われて青ざめたあの青年――が鏡を他の小道具とは別に引き取り、終わるまで保管することになっていた。
だがニノは、確かに手鏡を受け取りはしたものの、それを懐に入れて劇場を抜け出したようなのだ。何人かの裏方が、持ち場を離れてどこかへ去るニノの姿を見かけている。
ここがリーファには分からない。
「手鏡ひとつ持ち逃げするなんて、どう考えても割に合わないよなぁ……」
ぽり、と頭を掻いてつぶやく。質に入れたら換金は可能だが、渡される金は実際の価値より目減りする。じきに足がつくし、少なくとも王都では暮らせない。今の仕事を捨てて高飛びし、悠々自適で暮らすなど不可能なことは、火を見るよりも明らかだ。
「そんな事まで考えるものですか」ルミナが憤然と割って入った。「目の前に、普段手にすることの出来ない高価な品物があったから、誘惑に負けてそのまま持ち逃げしたのでしょう。早くその者を捕まえて、鏡を取り戻してちょうだい!」
「それはもちろん、すぐに全市に手配します」
応じたのは、知らせを受けて詰所からすっ飛んできたセルノだ。意外にも、彼は今回の件がリーファの手落ちだと責めはしなかった。状況の報告を受けると、そのままリーファに劇場関係者の聞き込みを指示したのだ。座長と知り合いだという点で、皆の口が軽くなると踏んだのかもしれない。
てっきり、「だからおしゃべりに興ずるなと」云々のお叱りを頂戴するだろうと身構えていたリーファは、正直なところ驚いていた。
「小道具係の住まいはどこです?」セルノが座長に確認する。
「職人街の方です。木工通りの六条辻を西に入ったところで、寄木細工や小間物作りの職人が集まっている長屋ですよ。元々彼は寄木細工の職人でしたから」
「ではその周辺を重点的に捜索しましょう。君、質屋と故買屋の当たりはつくか」
君、と呼んだのはリーファのことである。
ひょっとしてもうオレの名前なんか忘れてんじゃねーのか、などと内心肩を竦めつつ、彼女はちょっと考えてから答えた。
「ニノは今までまっとうに働いてきたらしいですし、元が職人だったのなら、故買屋には縁がなかったでしょう。普通に質屋に持ち込むか、伝手のある知り合いに売るのが関の山です。だとしたら行き先は劇場から南の、下宿屋通り界隈で商っている質屋かと。職人街まで持って行くのは、顔見知りにつかまる可能性も高いですし」
「ふむ。なら、詰所に戻って手空きの者に張り込みを要請してくれ。それから本部に行って、職人街の方にも人をやるように……」
セルノの指示の途中で、ばたばた慌しい足音が割り込んできた。
「座長、座長!」
甲高い子供の声は、大勢いる徒弟の一人だ。見習いと言うより雑用係で、今も大人達に言われてニノを探しに近隣へ散らばっていた――筈、だが。
「見付かったか!?」
思わず座長が腰を浮かせてドアの向こうに問いかける。じきに、息を切らせた子供が、真っ赤に上気した顔を覗かせた。
「大変だよぅ! ニノ、殺されちゃった!!」
「――っっ!?」
予想外の知らせに一同は揃って息を飲み、ぎょっとする。座長が急いで子供のそばに行き、膝をついて目線を合わせた。
「どこでニノを見つけたんだね、落ち着いて、ゆっくり話してごらん」
「んとね、神殿の人がゆってたの。お墓で人が倒れてたって。見たら、ニノだった」
たどたどしい説明を聞きながら、セルノが険しい顔でつぶやく。
「早速、盗品絡みの仲間割れか」
そこで彼はリーファの視線に気付き、わざとらしく肩を竦めて見せた。
「墓場で殺すとは、手間を省くつもりにしても性急な奴だな」
「まだ殺されたと決まったわけじゃありませんよ。とにかく行ってみましょう。ルミナ様、恐れ入りますが、ご同行願えますか。神殿でお待ち頂ければ結構ですから。もし彼が手鏡を持っていた場合、間違いなくお嬢様のものかどうか、ご確認をお願いすることになりますので」
「もちろん、行くわ。盗人に文句を言ってやりたかったけれど、死んでしまったのなら仕方ないわね。当然の報いだわ」
ルミナはつんと澄まして答えたが、侍女に準備を命じた後、ひとり小さくつぶやいたのを、リーファは聞き逃さなかった。慌しくなった楽屋の喧騒に、ほとんど埋もれてしまうほどの声。
「あんな……を、盗むからよ……」
まるで、ニノが命を奪われたのは盗人仲間のせいではなく、手鏡のせいだとばかりのつぶやきだった。
リーファは不審に思いながらも、セルノと座長、それにルミナと連れ立って大神殿へ向かった。
王立劇場から大神殿までは、そう遠くはない。劇場街の端の方なら話は別だが、大劇場は比較的、王都の中心部近くに位置している。広場まで出ずに五番街を突っ切って北上すれば、すぐに神殿だ。
とは言えど、恨めしいことに灰色の空からちらちら雪が舞っていたので、神殿に着く頃には一同すっかり冷え切ってしまった。
肩をすぼめ、ちょこちょこ急ぎ足で屋内に駆け込んだ彼らを出迎えたのは、意外な人物だった。
「姉さん!」
呼ばれてリーファは目を丸くする。下級神官が案内してくれた施療室で待っていたのは、魔法学院に在籍するリーファの義従妹だったのだ。
「フィアナ!? なんでここに」
驚いて駆け寄ったリーファに、フィアナはいつものように華やかな笑みを浮かべて答えた。
「調べものをするのに、神殿の蔵書が必要になって、こちらにお邪魔していたの。そうしたら墓地の方で、怪我人だって騒ぎになったものだから……何か手伝えないかと思って。この人、劇場の人なんですってね? 小さな子が探しに来ていたわ」
「ああうん、そうなんだ。怪我人ってことは、生きてるんだな。話せるかい?」
「無理ね。頭を強く打ったみたいで、昏睡しているから。どうにかここまで運んだけど、下手に動かせないし……生き返るか、このまま死んでしまうか、五分五分ってところ」
フィアナがてきぱきと説明してくれるので、リーファは安心して質問を続けた。
「現場を見た人はいるのかな。単にこけて頭を打ったのか、誰かに殴られたのか」
「残念ながら、いないみたいよ。墓地の守衛さんが参拝客の一人に言われて様子を見に行ったら、人が倒れていたって話。詳しいことは直接聞いた方がいいでしょ? 明らかな物色の跡はなかったらしいけど、私が行った時には少し服が乱れていて……上着のポケットが、裏返ってこそいなかったけど、不自然にはみ出ていたわ。だからぱっと見て、ああ物盗りにやられたのかって思ったんだけど」
そこまで言って、フィアナは含みのある表情で言葉を切った。守衛が咄嗟に小銭稼ぎをしたせいかも知れないし、あるいは単なる偶然か、本人が墓に何かを供えた時にひっかかったそのままだったのかも知れない。
「鞄や袋の荷物はなかったわ。ほかの所持品は、そこの机の上よ。手当ての邪魔になるから外したの。実際は頭だけで、ほかに傷はなかったんだけど」
フィアナが示した先には、ただの台と言った方が良さそうな小机があり、上着と、いくつかの品物が載せられていた。
「あれで全部か。一応、内容を記録しておきますか、班長?」
リーファは机を見たまま問いかけ、返事がないのを訝って振り返る。そして、
「――班長?」
ぎくりとたじろぎ、嫌な予感に顔をひきつらせた。セルノはそんな部下の様子など、完全に無視している。何しろその目に映っているのは、ただ一人……
「ラーシュ班長!」
咳払いして、声を大きくする。と、ようやくセルノは我に返り、数回瞬きしてから振り向いた。
「ん、ああ、そうだな。しかし君も人が悪いな、こんな妹さんがいるのなら、一言教えてくれてもいいじゃないか」
「……いや、あの……」
いつ言えと。大体、オレの話なんか聞いちゃいねーだろあんた。
「正確には、義理の従妹です。ディナル隊長の娘さんですから」
牽制のつもりで放った球は、しかし、あっさりかわされた。セルノはにこやかにフィアナの前へ進み出て、丁寧にお辞儀をしたのだ。
「では、フィアナ=イーラさん、で良いのかな。失礼、私は四番隊二班の班長、セルノ=ラーシュです。ご協力に感謝します。実に優れた観察眼だ、御見それしましたよ」
あああああぁぁ。リーファは頭を抱えてしゃがみこみたくなるのを、なんとか必死で堪えた。目顔でフィアナに合図を送り、頼むから相手を誤解させるような真似はしないでくれ、と訴える。
通じたのかどうか、フィアナは他人行儀な愛想笑いでセルノに応じた。
「初めまして。姉がお世話になっているようですね、どうぞ宜しくお願いします。私からお伝え出来るのは、今言ったことぐらいです。後はお邪魔しませんから、どうぞお仕事を続けて下さい」
滑らかな挨拶に隠れて、微かにひんやり漂う鋼の冷たさ。傍で聞いている方こそ胃が痛い。しかしセルノは全く怯まなかった。当の相手の言うことさえ耳に入らないという、例の病気が出たらしい。
「まだあと幾つか質問させて頂くかもしれませんから、しばらくこのままお待ち下さい」
ごく自然に引き止めておいて、素っ気なくリーファを手招きする。所持品の記録を、というのだろう。リーファはメモ用に持ち歩いている屑紙の束を取り出し、炭を細く削って木皮で包んだ“鉛筆”で、リストを作りにかかった。
ニノの持ち物はわずかだった。薄汚れたハンカチが一枚に、何かと便利そうな細工用の小刀ひとつ。細い革紐が数本あるのは、小道具が壊れた時の応急処置用だろうか。それに、寄木細工の――
「何だろう、これ。小物入れ?」
はてな、とリーファはそれを取り上げた。てのひらより一回り大きいぐらいの、平べったい箱のようなもの。だが、蓋や抽斗らしき部分は見当たらない。寄木の柄に紛らせているのかと、右に左にひっくり返して見たが、留め金もないし、製作途中のものなのかも知れない。それにしては、かなり古びているが。
リーファが首を捻っていると、横からフィアナが覗き込んで、もしかして、と手を出した。
「ここをこうして、ずらしたら……ほら」
スッ、スッ、と数本の木片を動かすと、部品がずれて、抽斗が滑り出た。箱の厚みの割には浅いので、せいぜい指輪などのごく小さな品物か、櫛が入れば良いところだろう。
「空っぽだな」
念のため逆さに振ってから、リーファは紙に『寄木細工の小物入れ』と書き足した。
「私の手鏡は?」
ルミナが部屋の向こうから険しい声を寄越す。リーファは正直に、ありませんね、と答えるしかなかった。途端、ルミナの顔がこわばる。金切り声を上げられるかと身構えたが、幸いなことに、ちょうどそこへ墓場の守衛がやって来た。
「失礼します、お呼びだとか……」
くぐもった声でつっかえがちに挨拶したのは、五十代と見られる貧相な風体の男だった。否、よく見れば決して身なりは悪くないし、体格も平均的ではあるのだ。が、肩をすぼめて背を丸め、世間のすべてを疑うような目つきで、陰気にじとっとこちらを見てくるのでは、第一印象の悪化もやむなしである。
「墓地の守衛さんですね」
セルノがそつなく一礼し、自分の所属を述べて挨拶する。それから、
「何があったのか、順を追って話してください」
この手の市民に対する平均的な警備隊員の態度に比べ、慇懃さ二割増で、話を促した。無用に威圧すべきでない相手を心得ているのか、単にフィアナの前で格好をつけているだけなのか、いずれにしても守衛の緊張を解く効果は多少あったようだ。
守衛は相変わらずもぐもぐとはっきりしない口調ながら、出来事の説明を始めた。
「私が最初に見かけたのは、こちらの……その人だけでした。遠目にちらっと、ですが……息を切らせて、随分急いでいる様子だったので。もう一人がいつ来たのかは、見ていませんでした。雪が、降り始めて……しばらくして、その、後から来た方が、小屋に。戸を叩かれて、何かと思ったら……確か、ええと、あっちで誰か『わっ』とか叫んでたから、滑ってこけたのかもしれない、しばらく誰も出て来なかったら様子を見に行ってやってくれ、と。そう言いました」
それを聞いて、思わずリーファは顔をしかめて唸った。
「思いっきり胡散臭いな、それ」
「はい、私もそう思いまして……でも、その男は急いでまくし立てて、私が返事もしない内に、走ってってしまいましたから。追いかけるより、最初に見た一人の方が気になって、探しに行ったんです。そしたら、この人が倒れてまして」
「何か触ったり、動かしたりは?」と、セルノ。
「いいえ、あ……いえその、ちょっと肩の辺は触りましたかね。声をかけて、そっとこう、ぽんぽんと。でも返事がなかったんで、慌てて神官様を呼びに……」
彼はしばし宙を見つめ、記憶を探っている様子を見せた。
「辺りには、なんにもなかったと思います。持ち物が散らばってるとか、血が流れてるとかもなくて。雪のせいで地面はちょっと濡れてましたが。それだけですよ」
誓って何にも盗っちゃいません、と小声で付け足す。言わずもがなだが、釈明せずにいられなかったのだろう。
セルノがふむと腕組みし、ちょっと考えてから言った。
「一番怪しいのは、その逃げ去った男だな。では守衛さんには本部までご足労願えますか。あなたが見た男の似顔絵を作成します。リーヴィン子爵令嬢はひとまず、屋敷へお引取り下さって結構です。後ほど隊員が伺って、手鏡の特徴をお聞きした上で市内各所に通達しますので、ご協力を」
「すぐに見付かるんでしょうね?」
ルミナの声は微かに震えている。セルノは紋切り型の返事で、全力を尽くします、と応じたが、そんな程度で彼女が満足するはずがなかった。
「全力だなんて、不充分よ。必ず見付けると約束しなさい。さもないと私、警備隊を訴えるわよ」
何の罪状で?――と、その場の全員が思ったことは、表情から明らかだった。
だが誰も敢えてそれを口にせず、セルノもただ畏まって頭を下げただけ。むろんリーファも同じく。
ルミナが侍女を連れて出て行くと、セルノは下げっぱなしだった頭を上げて、やれやれと小さく肩を竦めた。はずみでリーファと目が合うと、自分の仕草をごまかすように、何食わぬ顔で指示を出す。
「君は劇場に戻って、小道具係の交友関係を洗ってくれ。胡散臭い連中と付き合いがあったのなら、そっちから犯人が浮かぶかも知れない」
「了解」
リーファが敬礼するのも待たず、セルノはくるりとフィアナに向き直る。
「フィアナさん、あなたが現場をご覧になった時の状況は、どうでしたか? 先ほど彼が話した事に付け加える内容はありますか」
彼、と守衛を手で示して問う。フィアナはもうはっきりと冷ややかさを前面に出して、事務的に答えた。
「最初に話したことで全部です、班長さん。お忘れなら姉に聞いて下さい。逃げ出した男の姿も見ていないし、騒ぎを聞いた覚えもありません」
以上、終了。
まさにそんな態度でフィアナは口を閉ざしたが、セルノは「そうですか」と穏便にうなずいただけだった。無神経もここまで来ると、いっそ見上げたものだ。
「では何か思い出したことがあれば、いつでもこちらに知らせて下さい。些細なことでも構いませんので」
「もちろん協力は惜しみません」フィアナはにっこり笑った。「姉か父に話しますわ」
「よろしくお願いします」
セルノも笑顔で会釈する。リーファはもう、胃が三回ぐらいねじれて、どこかぷちんと切れそうな思いで、叫びだしたいのを堪えていた。




