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その翌日。
リーファは件の下宿屋に上がりこんでいた。大家の老女は外出中で――友達と観劇らしい、優雅なことだ――玄関脇の部屋には守衛代わりの元傭兵がいるだけだった。
名前はマエリアーナ、見たところは二十代半ば。古びた胸当てと革の篭手、それに年代物の長剣で武装している。彼女がいるだけで、半端な空き巣狙いは尻尾を巻いて逃げ出すだろう。
肩までの白っぽい金髪と淡い若葉色の瞳は、ありふれているようでいて珍しい色合いだ。レズリアの人間じゃないのかな、とリーファは訝ったが、むろん西方の人間とも思えない。だが彼女の身の上は関係なかろうと決めて、リーファは花の件について切り出した。
相手は気さくな性質らしく、一言二言交わしただけで、リーファもすぐにいつもの口調になった。
「あんたは一日中ここに詰めてるのかい?」
「いや、大家さんが留守にする時と、夜だけだ。夜は大家さんが奥の部屋で寝て、あたしはこっちの長椅子で仮眠する。昔から特技があってね。どこででも眠れて、しかも、どんなに深く眠っていても敵が来たらすぐに目が覚めるんだ」
傭兵に向いてたんだね、とマエリアーナは笑った。リーファは目をしばたき、改めて室内から玄関ホールへと視線をめぐらせる。ホールと言っても狭いもので、すぐに階段に続いており、花はその階段の下あたりに置かれている、というか落ちている、のだという。
「恋する男の子が忍び込んで花を置いていくってぐらいなら、あたしも目が覚めないのかな、と最初は思ったんだけどね……でも、玄関扉にはもちろん鍵がかかってる。隙間から押し込もうと思ったら、なんとか入れられなくもないけど」
「それじゃあ花がくしゃくしゃになっちまうよなぁ」
リーファが苦笑したちょうどその時、階上から若い娘が降りて来た。華やかな明るさを身にまとった、人好きのする美人だ。
「行ってきます、アーナさん」
ふわりと微笑んで挨拶し、リーファに気付くと可愛らしく会釈する。ああ気をつけて、とマエリアーナが応じると、娘は嬉しそうにはいと答えて出て行った。
「ふぅん、感じのいい子だね。毎日誰かから花だの何だの贈られても、おかしくないな」
「あの子はエルシア、女優の卵だよ。その割に全然気取ったところがないだろ? 舞台に立つより、神官の奥さんにでもなった方が似合いだと思うんだけどね。まぁでも本人は一生懸命だからさ……変な男に付け回されてやしないか、心配してるんだ」
「なんだかお袋さんみたいだね」
リーファのからかいにも、マエリアーナは気を悪くした風もなく楽しげにうなずいた。
「ああ、ここの子たちは皆、あたしの娘だと思ってるからね。大家さんほどうるさく言うつもりはないけど、それでもやっぱり、こそこそ怪しい真似をするような、度胸も分別もない男には、近付いて貰いたくないな」
「ほかには正確に何人、住んでるんだい」
「エルシアのほかには二人だけだよ。学院の生徒のセリナと、劇団のお針子をやってるレティ。二人とも今はいないけどね。セリナは物静かで大人しいけど、勉強熱心なんだ。遅くまで部屋の明かりがついてる。レティはエルシアと対照的だね。とっつきにくくて愛想がない。でも話してみると一本筋の通ったいい子だよ」
にこにこと話すその表情は、本当に子煩悩な母親のようだ。もっとも、親になるには随分と若いが。
そこへ、表の通りを軽い足音が近付いてきた。すぐにマエリアーナが気付き、噂をすれば影、と言う。間もなくその言葉通り玄関扉がギッと軋み、ささやくような声が告げた。
「ただいま……」
おずおずとした幼い声だ。マエリアーナが立って戸口まで行き、お帰り、と迎える。その背中越しに、リーファは学院の制服を見て取った。紺色のケープを羽織った、まだ十五歳ほどの少女だ。
「今日は早かったね」
「はい、午後から休講になったんです」
もじもじと答える口調に、引っ込み思案な性格があらわれている。リーファはそっと音を立てずに椅子から立ち上がり、もう少しよく見ようと移動した。
(これがセリナちゃん、ね。ふむ)
不器量とまでは言わないものの地味な顔立ちで、うつむきがちなのが暗い印象を与える。男の気を引く容貌だとは、とても言えない。
セリナは大きな鞄を抱くようにして突っ立ったまま、「あの、その」となにやら言い出しにくそうにしていたが、不意に顔を上げてリーファに気付くと、ハッとなって赤面した。
「お、お客様だったんですね。ごめんなさい、お邪魔しました」
慌ててぺこりと頭を下げ、失礼します、と逃げるように階段を上がっていく。小さな足に向かって、マエリアーナが声をかけた。
「大家さんが昼ご飯を余分に用意してくれたから、おなか空いてたら下りておいでよ」
はい、という返事は焦ったあまりか声が裏返っていた。
マエリアーナとリーファは顔を見合わせ、ちょっと苦笑する。
「初々しいって、ああいうのを言うのかな」
リーファが席に戻りながらそんな感想をもらすと、マエリアーナは新しいお茶の用意をしながら「そうだね」と微笑んだ。
「あたしはあんまり、そういう時期と縁が無かったな」
「オレも。気がついたらすれっからしになってた」
自虐でもなく淡白に言い、リーファは肩を竦める。マエリアーナはリーファの前に客用のカップを置いて、クッキーの籠を取ってきた。
「噂は聞いてるよ。盗人だったって?」
ひとつ自分でつまんでから、どうぞ、と籠を押しやる。客より先に食べて見せるのは、傭兵時代の癖かもしれない。リーファも遠慮なく頂戴した。さくりと噛むと、蜂蜜とバターの香りが口に広がる。食べながらうなずいたリーファに、マエリアーナは考える風情で問うた。
「錠前破りは、素人でも出来るようになるものかな」
「コツと道具さえ手に入れたらね。だけどさ、そこまでするような奴だったら、花だけ置いて立ち去るってことはないと思うな」
「……だね」
それから話は、リーファの盗人技能のことになり、西方の暮らしのことに移っていった。やはりマエリアーナは東方の出身らしく、西の事情について色々と知りたがったのだ。そうこうするうちに、もうひとりの下宿人が帰って来た。
「あ、いいもの食べてる」
突然割り込んだ声に振り向くと、栗色の髪をした娘が戸口に立っていた。手には布地のこんもり入った籠を提げている。人によっては美人だと言ってくれそうな顔立ちだが、いかんせん表情が硬い。常に戦闘態勢にあるかのようだ。
「お帰り、レティ。あなたもどうぞ」
マエリアーナが籠を差し出すと、レティは当然とばかりひとつ取った。そのついでにリーファに目をやり、不審げに眉を寄せる。
「警備隊? 何の用なの」
なるほど確かに愛想がない。リーファは苦笑したくなるのを堪え、大したことじゃない、と手を振って見せた。
「この近くで空き巣未遂があってね。ここは女ばっかりで用心が悪いから、巡回がてらちょっと話を聞かせてもらってたんだ」
花のことを調べに来たなどと言えば、警備隊はよっぽど暇なのかと疑われるだろうし、もし下宿人の誰かと花の主が秘密の合図を交わしているのだとしたら、警戒されて犯人を捕まえられなくなってしまう。
そこで嘘をついたのだが、レティはまだ疑わしげにリーファを睨んでいた。
「まさかと思うけど、アーナさんを警備隊に引き抜くつもりじゃないでしょうね」
予想外の言葉にリーファは目を丸くした。
「え? いや、まさか。考えてもみなかったよ。来て貰えたらありがたいけどさ」
「レティ、あたしはこの仕事で満足してるよ。心配しなくても大丈夫」
マエリアーナがそう保証して、やっとレティはリーファに対する目つきを和らげた。ふうん、ならいいけど、と独り言のようにつぶやいて、すたすた部屋を出て行く。あまりに素っ気ない態度なもので、リーファが呆気にとられていると、マエリアーナが苦笑した。
「気を悪くしないでやってよ。誰にでもああいう態度なんだ。いい子なんだけどね」
「ああ、うん。あんたが言うならそうなんだろうけど……でも、あれじゃ花は貰えなさそうだね。やっぱりエルシアが目当てかなぁ」
うーん、とリーファが唸る。マエリアーナも小首を傾げた。
「どうかな。セリナが一番小さいからね。相手の男の子も世慣れてなくて恥ずかしがりで、ってことは考えられるよ。レティは気が強いから、弱腰の男が直接渡す勇気を出せなくて、ってこともあり得る」
「あんたの目にはどの子も可愛くて仕方ないもんなぁ」
「それはそうだけど。贔屓はちょっと置いとくとしてもね、どの子にも可能性はあるってことだよ。だから困ってるわけさ」
真面目に返されて、リーファはちょっと頭を掻いた。そもそもこの件自体が真面目に取り合うものでもなかろうと思っているのを、見透かされたような気がして、ばつが悪い。
だが幸いマエリアーナは、その点についてリーファを責めなかった。
「分かってるよ、確かに花ぐらい大騒ぎすることじゃない。それに、本当に性質の悪い男が絡んでるんなら、警備隊に頼むまでもなくあたしが片付ける。ただね……思いつめた男が夜中に押し入ったとか、そういうことなら剣で対処できるけど」
そこまで言い、マエリアーナは小さくお手上げの仕草をして、小声になった。
「うちの子たちの間が、なんだかギスギスしちゃってね。だから、早いとこ犯人を見つけて欲しいんだ。最初のうちは大家さんとあたしが、見つける端から花を片付けてたんだけど、たまたまレティが拾ったことがあって」
それ以来、三人の下宿人の間には、警戒と敵意がうっすら漂っているのだという。互いに、実は自分宛の花を誰かが横から奪ったのではないか、贈り主を知っていて恋路の邪魔をしようとしているのではないか、と腹を探り合っているような雰囲気が。
「それは確かに嫌だね」
リーファは渋面になり、分かった、とうなずいた。
「花はたいてい夜の内に置かれてるんだよな? だったら、オレも今夜はここに泊まるよ。下宿人には知られないように、こっそりとね」
「夜中に忍び込んで?」
「そういうこと」
にやりとしたリーファに、マエリアーナは真面目くさった顔を作り、
「叩っ斬らないように気をつけるよ」
などと厳かに約束したのだった。




