4.拾った物の活かし方
しばしの後刻。
暗くて臭い下水道を歩きながら、ルカ少年は後ろに続く大人達をちらちら振り返っていた。小声で話そうと試みるものの、些細な音もひどく反響するものだから、困り顔で口をつぐむ。三回ほどそれを繰り返した末、彼は諦めてリーファに話しかけた。
「なぁ……ほんっとーにマジであれ、本物? 下水道を歩く王様とか、ありえねー」
苦笑を噛み殺したリーファに代わり、当人が一番後ろから答える。
「仕方ないだろう、おまえが図面ではわからんと言うから」
そう、いったん役所に行きはしたのだが、図面上で位置を示させようとしたところ、こんなの見たってどこだかわからない、と言うもので、実地で案内させる運びになったのである。ルカは情けない顔で首を竦め、前を向く。小さな背中に向けて、シンハがついでのように補足した。
「子供の頃は何度もここに逃げ込んだことがある。進んで潜りたい場所じゃないが、死んでも嫌だと言うほどではないから気にするな。それより行き先を間違えないように注意しろよ」
うー、とルカは曖昧な唸りを漏らし、ちらっと頭上に目をやった。ふわふわと漂う光の塊が三人の周囲を照らしている。使霊のユエだ。
「こんだけ明るけりゃ、間違えねーよ。いいなぁこれ、めっちゃ便利じゃん」
羨まれたリーファは自慢に聞こえないよう、声の調子を抑えて答えた。
「身内の魔術師がくれたんだよ。警備隊やってくならこういうのが要るだろ、って」
「マジか。魔法すげー」
「すげーよなぁ。おまえは蝋燭か何か持って入るのか? まさか手探りとか」
「無茶言うな! 貰いもんのランタンがあんだよ。下水道で小銭拾いすること教えてくれたじーさんが、自分はもう使わないからって」
言葉の半ばで声が沈み、視線が落ちる。もしやとリーファが推察すると同時に、少年はため息をついた。
「足を悪くしてあんまり歩けなくなったし、目もよく見えなくなってきたから、引退だっつってさ。こんなことは長くするもんじゃねーぞ、とか余計なお世話だっつの」
「……だよなぁ」
リーファは曖昧に答えるしかなかった。こんな汚くて臭くて他人から蔑まれることを、やりたくてやっている人間などいないだろう。ほかに稼ぐ手段があれば、言われるまでもなくそっちに移っている。
かつて似たような境遇にいた身としては、わかるよ、と言いたいところだが、いかんせん今の彼女はもう、そこからは随分と遠く離れた身分だ。何を言っても嫌味になってしまいそうで、口をつぐむしかなかった。
(シンハの奴はその辺、何か考えがあるのかな。自分の用事を早いとこ片付けたいからってだけで、ほいと大金を投げ渡すようなこと、しない奴だと思うけど)
ちらっと肩越しに視線を投げかけたが、相手は今しがたの会話よりも、壁に走るひびを気にしている様子だった。
気まずい沈黙は、長くは続かなかった。
じきにルカ少年が立ち止まり、あそこ、と告げたのだ。指さす先を見たリーファは思わず呻きを漏らし、シンハを振り返った。
「あれ、ヤバくね? 明らかに壁が崩れてんだけど」
「ヤバいだろうな」
少年につられて言葉使いが雑になっている元盗人を咎めるかわり、シンハは自分も同じ単語で応じる。察したリーファは、おっと、という顔をしてから、用心深く件の場所へ向かった。通常の水路の一部が妙に奥まっており、そこの壁が崩れて向こう側へ抜けられるようになっているのだ。後ろからシンハも覗き込んで唸った。
「普通の明かりだと、ここは陰になって見えにくいんだろう。だから清掃の巡回でも見落とされていたのか……改修した時に旧い水路を塞いだ所から脆くなってきたようだな」
「役所に戻ったら昔の図面と突き合わせて、他にも似たような場所がないか確認しないとだなぁ。あー面倒くさい」
「おまえが作業するわけじゃないだろう」
「そうだけど」
しゃべっている二人を置いて、ルカが先に崩れた壁をまたぎ越える。リーファも慎重に狭い隙間をくぐり――直後、とっさに少年の腕を掴んで引き戻し、大きく一歩退いた。
同時に奥の暗がりから飛び出してきた人影が、空振りしてつんのめる。
「えぇっ!? 誰……っ」
動転したルカが叫ぶ間にも、見知らぬ男はすぐさま体勢を立て直し、ナイフを突き出し襲いかかってきた。が、
「物騒だな」
凶器を持つ手をシンハが無造作に掴み、まるで重さがないかのように軽く捻った。奇声と共に男の身体が宙を舞い、曲芸師も驚きのきれいな円弧を描いて床に落ちる。
ルカ少年が目を限界まで見開いて口をぱくぱくさせている間に、リーファが狼藉者の腕を背後に回して、手際よく縛り上げた。警備隊員はいつでも捕縛用の革紐を持ち歩いているものだ。
「はいよ、一丁上がり! シンハ、こいつに気付いてたのか?」
威勢よく言いながらも、押さえつける手は緩めない。しぶとく男が起き上がろうともがくので、シンハがその背中を踏みつけて答えた。
「いいや。だが運が良ければ鉢合わせするだろうと予想していた」
「運が悪ければ、だろ」
「捕まえられたんだから、良かったじゃないか」
「……なんだかな。あ、ルカ、怪我してないか?」
リーファが思い出して声をかけると、少年はまだ目を丸くしたまま、ぷるぷる首を振った。踏まれてなお唸り続ける男を見下ろし、首を傾げてつぶやく。
「誰これ」
「知らない奴?」
「全然。見たこともねーよ。なんでここに」
ルカはさっぱり事態が飲み込めず、呆然としている。シンハが周囲をざっと観察し、ほかには誰もいないことを確かめながら答えた。
「おまえと同じ目的だろうな。ただし、そいつの場合は自分で盗んだものを隠すためでもある」
言って彼は遠い壁際を手で示した。ルカが息を飲み、今さら改めて秘密の発掘場所を見回した。現役の下水道と違い、旧水路はそれなりに乾いている。奥のほうにボロ布の寝床があり、がらくたの小山が無秩序に散乱していた。
「こんなの、ちっとも見えてなかった……たまたまあの崩れたとこ見付けて、覗いてみたら近くに……なんか、色々ごちゃっとあって。ラッキー、ってその辺漁ってただけ」
言い訳のように独りごちて、彼は自分の腕をさすった。欲をかいて、あるいは好奇心を発揮して奥まで入っていたら、この男と出くわして殺されていたかもしれないのだ。
よく見ると、がらくたの山にまじって子供の服らしいものがある。ルカが身震いし、リーファも彼の視線を追ってそれを見付けた。歩み寄り、険しい顔で検分する。
「レースとビーズのついた服。金持ちの女の子のだな。わりと最近のだ」
「攫ってここへ連れ込んで殺し、遺体は下水道に捨てたんだろう。見る限り他に仲間がいる様子はないから、ひとまず戻ってこいつの身柄を警備隊本部に引き渡すぞ」
シンハが感情の無い声で言い、男の襟首を掴んで立たせ――否、宙吊りにした。地味に抵抗を続けていた男もさすがにぎょっとなり、身体を硬直させる。怪力の国王陛下は、薄く笑みを浮かべてささやいた。
「そうだ、大人しくしていろ。でなければ、正直このまま貴様をそこらの壁に投げつけて全身の骨を砕いてやりたい気分だからな」
男が蒼白になる。ついでにルカ少年も縮み上がってしまい、気の毒にも、外に出るまであからさまにびくびくしながらついて来たのだった。
警備隊本部で男を引き渡して状況を説明する間、ルカはずっとそわそわしていた。隙を見てリーファを捕まえ、小声でひそっと問いかける。
「なあ、もう帰っていい?」
「うん? あぁ、えーと……どうかな」
リーファはちょっと考えて、シンハにお伺いを立てようとしたが、素早く遮られた。
「やめてくれよ! カネくれってったの、あれもう無しでいいから」
このままずるずる居続けていたら、自分のほうまで悪事を暴かれて宙吊りにされるのでは、と怯えているらしい。拾い物を勝手に売ったとか、食い逃げしたとか、ひとつひとつはせせこましい罪状だが、それなりに後ろめたいのだろう。追及されないうちに、貰った金貨を握り締めて逃げ帰りたい、と顔に書かれている。
「そんなにびくつかなくても大丈夫だよ。そりゃ確かにあいつは厳しいとこもあるけど、問答無用で罰するような奴じゃないからさ。実際おまえに金貨を渡したのも何か考えがあるんだよ」
そこまで言い、「だろ?」と当人に呼びかける。ちょうどこちらへやって来たシンハが眉を上げた。
「いきなり同意を求められてもわからんぞ」
「あの金貨の話。こいつ早く帰りたくて足踏みしてるんだけど、おまえのほうはまだ何か用があるんだろ、って」
ほら、とリーファはルカの背を押してシンハの前に立たせる。勘弁してくれよ、と少年が口の中で泣き言を漏らしたが、もちろん逃げられはしなかった。
「ルカ。おまえは明日から細工職人のところで修行しろ」
「……へ?」
唐突かつ端的に命じられ、ルカは変な声を返した。てっきり何か叱られるものと身構えていたもので、気抜けした顔になる。そんな少年に、シンハはさも当然のように続けた。
「ブローチの修復のついでに、おまえを弟子として試しに引き受けるよう、伝えさせてある。後でロトに工房へ案内してもらえ。むろん当面は給料は出ないが、あの金貨で食いつなげばいい。足りなくなったら、そうだな、またオートスの店に行け」
「えっ……俺、じゃあ、えっと」
「ろくな道具もなしにああいう細工を作れるのなら、素質はあるだろう。本職の下でまともな技術を学んで、ついでに品定めの眼力も鍛えるといい。せっかく良い物を拾っても、下手な加工で台無しにすることのないようにな」
言葉尻で皮肉られて、ルカが赤面し、唇を噛んでうつむく。その頭にシンハはぽんと軽く手を置いた。
「拾った時点で傷物だったからといって、元の形や来歴を無視して好き勝手に作り替えるのは、そのものの価値を損なう。覚えておけ」
穏やかに諭し、彼はちらりとリーファを見る。かつて自分が道端で拾った、ぼろぼろの盗人だったものを。
(人間も同じ、ってわけか)
まなざしの意味するところを察し、リーファは感謝と感慨が複雑にあいまった苦笑を返した。
もしもシンハが、拾ってやったのだからと彼女の素質や生い立ちを無視し、自分に都合の良いように矯正しようと押し付けていたら、今、ここに警備隊員のリーファは存在しなかっただろう。それどころか、恩も義理もかなぐり捨てて逃亡していたかもしれない。
活かすも殺すも、扱い方次第。
物だけでなく人にも通じるその道理を、少年もいつか悟るだろうか。今はまだ、そのとば口に立ったばかりだとしても――
さて、無事に一件落着した後日。リーファは昼食がてら、そもそもの発端となった店へ報告に赴いた。
「ってわけで、例のガキんちょは職人のとこへ弟子入りすることになったよ。そんでシンハのやつ、賃金もらえるまでに食い詰めちまったら、またこの店に行けとか言ってやがった」
あはは、と笑いながらの告げ口に、オートスは芝居がかった憤慨の表情を見せた。
「あの野郎、勝手に人の店を配給所にしやがって。次に来た時は、いつもの定食に倍の値段をふっかけてやる」
「本当にルカがまた食い逃げしたら、ツケといてシンハに払わせたらいいよ。そのぐらいあいつも承知してるだろうし」
こちらもしれっと勝手に勘定を押しつけて、茸と挽肉のパイを頬張る。思ったよりもまだ熱くて、はふはふ、とリーファは息を吐いた。
「あ~、美味い! シンハの作るもんも美味いけど、ここのメシは毎日食っても飽きないからいいよなー」
「王様の手料理と比べてもらうとは、光栄なこったね」
「比べるっていうか、あいつの料理とここのメシは全然別のもんだからさ。それぞれ美味いよな。だからあいつも時々……」
言いかけてはたと気付き、リーファは変な顔をする。どうした、とオートスが眉を上げると、彼女は曖昧な苦笑になって戸口のほうを見やった。
「あいつも食べに来るじゃん? ルカのやつ、鉢合わせちまったら居心地悪いだろうなぁ。最後すげえ縮こまってたから」
「ははは、そりゃ気の毒に。だがまぁ、心配いらんだろうよ。その時にはあのガキも、まっとうに稼いだ金で、腹一杯、好きなものを注文してるさ。上得意様になってくれるに違いないとも」
そのために見逃してやってたんだからな、と軽口を叩く店主の笑みは、曇りなくあたたかい。リーファも微笑み、国王陛下と駆け出し職人が相席する楽しい未来を思い描きながら、そうだね、と同意する。
その日の席を予約するように、秋の日差しがテーブルに柔らかな陽だまりをつくっていた。
(終)
2020.10.1