1.食い逃げ犯を捕まえろ
リーファ19歳の秋。
国王陛下の幼馴染みが営む城下町の宿屋は、一階が食堂兼酒場になっている。行列ができる有名店ではなく、ほどほど美味くて値段も手頃、客の入りもほどほど、という気の張らない店だ。
というわけで、薄給の下っ端警備隊員であるリーファも、ちょくちょく昼食の世話になるのだが。
「いらっしゃい……っと、リー! 良かった、ちょっとこっちへ」
今日は入るなり亭主のオートスに手招きされ、一番奥のテーブルへと案内された。いつもはカウンターで雑談しながら手早く食事を済ませるのに、それでは都合が悪いらしい。リーファは不審げに身構えた。
「なんだい、面倒な相談事?」
「あー、まぁ……少し面倒かな。すまんね、休憩時間なのに」
「それはいいけど。正式に詰所に届ける類のことじゃないんだろ」
「今のところは」
「じゃあ相談料は今日の昼飯ってことで」
ちゃっかり時間外料金を請求したリーファに、オートスは苦笑いしたものの文句は言わなかった。いったん厨房に引っ込み、店員たちにしばらく客の相手を任せられるよう指示を出してから、何やら手にして戻ってくる。
向かいの席に腰を下ろすと、身を乗り出し、声をひそめて切り出した。
「実はな、ここしばらく食い逃げの常習犯が来てるんだが」
「常習犯」
思わず変な声で鸚鵡返しする。食い逃げするとわかっているなら追い返すか、とっ捕まえて代金を払わせたら良いだろうに。放置するから常習犯になるのでは。
リーファの言いたいことを察して、オートスは曖昧な顔で首を竦めた。
「子供なんだよ。もう見るからにまともに食ってない、昔のあんたより痩せっぽちな。注文するのも、いつも一番安いスープとパン一切れだし、他の客と面倒を起こすこともない。だからまぁ、その……見逃してたわけだよ。幸いうちは、その程度で傾く店じゃないからな」
「ほぉ~、貧乏人に優しいねぇ」
リーファは頬を緩ませ、わざとらしくからかった。オートスは気恥ずかしそうに目をそらし、えへんと咳払いして早口に言い訳する。
「誰にでもってんじゃないぞ。うちはそこまで金が有り余ってるわけじゃないし、いずれはちゃんと金払って食いに来いよ、って、毎回こう、ぐっと睨んでやってる」
白々しい口調で、まったく脅しにならない表情を見せられて、リーファはふきだしてしまった。
店の損失を考えるなら、追い払うのが正しいとわかっているはずだ。少しばかり良心が咎めるとしても、神殿が炊き出しをやっているんだからそっちに行くさ、と納得できる。
だが“ほかに行く当てがあるはず”なのにこの店に来るのは、その子供にも何らかの事情があるのだろう。炊き出しだって毎日余るほど配られるわけではないし、生活圏内の神殿でいつも同じ顔ぶれが集まれば、面倒なしがらみや諍いも生じる。貧者同士のいがみ合いは熾烈で無慈悲だ。自分の経験としてそれを知っているリーファは、安全な側にいるオートスが弱い子供の身の上を思いやってくれたことが嬉しかった。
「そういう小さな親切ってのが、意外と大きな助けになるもんだよ」
かつて盗人だった子供にパンを恵んでくれた司祭の姿が、脳裏によみがえる。引き取って養育することも、毎日たっぷりの食事を与えることも出来なかったけれど、そんな彼が時々与えてくれた少しの食べ物が、リーファの命をつないだのだ。
感傷がこみ上げそうになり、彼女は急いで話の先を促した。
「それで? 今さらやっぱりそいつを追い払いたいってんじゃないんだろ。その子供の何を相談したいんだい」
「ああ、うん。……これだ」
オートスは心持ちほっとした様子で、先ほど奥から取ってきた物をテーブルに置いた。小さなブローチだ。リーファは眉を寄せ、手に取ってじっくり検分した。
「何か風変わりな感じだね。その子が置いてった?」
「今までのぶん、だとさ。いつもちょっと目を離した隙にいなくなっちまうんだが、昨日は初めてカウンターまで来て、こいつを置いてな。こっちが面食らってる間に消えちまった。本当にあのガキ、姿隠しの魔法でも使えるんじゃないのかね! ともかく、問題はそれだよ。裏をよく見てくれ」
「どれどれ……あー、紋章みたいだな、これ」
「だろ? どこかで拾ったのか、ひょっとして盗んだのか知らんが、どうにも面倒事の臭いがぷんぷんする。だからあんたに確かめて欲しいのさ」
「って言うとつまり、とっ捕まえてこいつの出所を聞き出せってことかい」
「そうじゃない。ああいう子供はあれこれ詮索されると逃げちまうだろ。二度とうちに来なくなっちまったら困る」
大真面目に口を滑らせた亭主に、リーファはわざとらしく驚いて見せた。
「食い逃げ犯なのに?」
「ああいや、つまりだ、近所の別の店で食い逃げしようとして騒ぎを起こされたら迷惑だって話だ。それにあいつ、ぼそぼそっと小声だったが、確かに『次から金持ってくる』って言ったんだ。ようやくまともな常連客になってくれそうなのに……おい笑うなよ、真面目な話だぞ」
下手な照れ隠しの途中でオートスは渋面になり、うつむいて震える焦茶色の頭を小突く。リーファはどうにか笑いを堪えて顔を上げると、しかつめらしくうなずいた。
「なるほど、そりゃ確かに気になるね。食い逃げ常習犯だったのに、ある日こんな小間物を持ってきて、金も手に入るようになったようだ、とくれば、まぁヤバい仕事に就いたんじゃないかって思うよな」
「だろ? だから今日そいつが来たら、後をつけて様子を見てくれないか。どこに住んでるかまで判ればいいが、少なくとも、性質の悪い連中とつるんでないかどうか」
「了解。じゃあ急いでメシ食っちまうから、簡単なの頼むよ」
「すぐ用意する。子供ひとりの客なんてほかにいないから、見ればわかると思うが、一応、来たら合図するよ。あとこのブローチは預けとくから……」
「盗品じゃないかどうか、本部で届けを確認する」
任せろ、と頼もしくリーファが請け合い、オートスは肩の荷を下ろして笑みを広げ、仕事に戻っていった。
いつもの早食いでハム卵サンドを腹におさめ、エールを半分だけ注いだマグカップで手持ち無沙汰をごまかしながら、店内を観察することしばし。
(来た)
色褪せた金髪の少年がひとり、慣れた足取りで入ってきた。こそこそ様子を窺ったりしないのは、もはや食い逃げ安全地帯と認識しているからか、それとも今日はまっとうに代金を支払えるという心の余裕だろうか。
亭主が言った通りひどく痩せているが、動作はしっかりしている。十二、三歳ほどだろう。身なりは相当みすぼらしく、靴も足に合わないのを無理やり履いている。スープとパンを受け取り、適当な席に腰を下ろして食べ始めたが、極端にがっつきはせず周囲を警戒してもいない。
(ってことは、単に貧乏だから食えてないだけで、誰かにメシを奪われる環境ってわけじゃない、と)
少なくとも日常的に虐待されているわけではなさそうだ。リーファはそう推測し、ひとつ安心する。
魔法のように消えてしまう、という話だったので身構えていたが、どうやら本当に今日は代金を払うつもりらしい。食べ終わる頃合いになっても少年が落ち着いているので、リーファは静かに席を立ち、こっそり裏口から店を出た。
すぐに表に回って客の出入りが見える場所に身を潜め、少年を待つ。
じきに彼が現れた。通りの左右をなんとなくのように見渡し、急ぐでもなく通りを歩いて行く。リーファもさりげなく後をつけた。
少年の態度から、特段の警戒は感じられない。今日は食い逃げもしていないし、危険な“仲間”あるいは“敵”に見付かる恐れもないのだろう。
(あんまり心配しなくても良さそうかな? ブローチの出所は気になるけど)
などとリーファが考えた、まさにその時。少年が一瞬、視界の端にこちらの姿を捉えたとわかった。
(しまった!)
細い背中がびくっと竦んだ。反射的に駆けだしたのは同時。
「おい待てよ、なんで逃げる!」
こうなってしまったら捕まえるしかない。狭い横道に逃げ込んだ背中を追ってリーファも路地に飛び込む。
少年の影はもう向こう側に消えかけている。予想以上に素早い。走って走って、驚く通行人を押しのけ、道端の籠や箱を跳び越え、一瞬姿が消えても往年の勘で行き先を予測し、すぐにまた視界に捉えて。
あと少し、というところで、
「――! くそっ!」
完全に見失った。ちまちました部屋が連なる長屋の並び、そのどこかに逃げ込んだのだろう。いかな警備隊員でも、否、だからこそ、片っ端からドアを開けてまわる乱暴はできない。やったところでその隙によそへ逃げられるだけだ。
「あー……ちくしょ、やっぱり現役には勝てねーか……」
上がってしまった息を整えながら、憮然と独りごちる。仕方ない。あとはブローチのほうから足取りを掴めないか、探るしかないだろう。
深々とため息をついて、リーファはぐったりしつつ来た道を戻っていった。