(8) 手に入れたもの
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翌朝一番に、リーファは出勤するなり氷室へ降りた。
あまり遺体をいじる風習のない国でのこと――むろん西方でも死体をどうこうするのはご法度だったが――彼女の振る舞いは揶揄と恐れの対象になっていたが、本人は世間一般の慣習に頓着していなかった。
元々が、社会的な遠慮あるいは気遣いといったものから見捨てられた、最下層の出身なのだ。普通なら慮るべきことに、彼女がためらいを感じる理由はなかった。
そうは言っても、もちろん周囲の感情に配慮はするし、彼女自身も一定の良識はある。これがフィアナであれば謎を解明するべく、遺体を隅から隅まで解剖したかもしれないが、リーファはただ、傷口のまわりの髪を切って見やすくしただけだった。
以前フィアナに貰った魔法の光球を、右へ左へ動かしてじっくり観察する。冷たいその光は、ランプよりも明るく透明で実にありがたい。使霊というのだそうだが、リーファにはその辺の説明はよく分からなかった。ただ便利なだけだ。
白々とした光に晒された傷口は、確かにあの金槌と同じ形に陥没していた。
「……?」
当然だが、深い傷は陰になっていて、奥までは見えない。その何かが気になってリーファは首を傾げながらあちこち移動して様々な角度から覗き込んでみた。
しばらく観察した後、彼女はひとつの結論を導き出した。氷室から上がり、今日も似顔絵描きに追われている青年を呼ぶ。
「ジェイム! 悪い、ちょっと来て、あんたも見てくれないかな」
「なんで僕が」
返事だけは不機嫌に、しかしすぐに腰を上げるジェイム。態度はひねくれているが、この事件に興味があるのだろう。上着を羽織って、リーファの後から氷室へ降りて来た。
「この傷口なんだけど……角度に注意して、見て欲しいんだ」
「角度? つまり凶器が刺さった向きか」
ジェイムはふむと応じ、さきほどのリーファと同じく、立つ位置や首の向きを色々に変えて、念入りに観察した。
ややあって彼は納得の表情でうなずき、淡白に結論を出した。
「分かった。これが他殺だとしたら、よっぽど奇想天外な方法を使ったってことだろうな。あのお嬢さんにそんな余裕も知恵もあったとは思えないし、事故で間違いないだろう」
「だよな! ちょっと待っててくれ、隊長を呼んでくる!」
ジェイムの持って回った厭味な言い方をまるで気にかけず、リーファはぱっと笑顔になって階段を駆け上がっていく。ジェイムはそれを見送り、口の中でまた「なんで僕が」とぼやいたものの、大人しくその場に留まっていた。白い息を吐きながら、足踏みすることしばし。ドスドスと不機嫌な足音が響き、ディナル隊長が姿を現した。
「まったく、貴様のやる事はいちいち正気を疑うわ! 神罰の下らんようにせいぜい参拝しておくことだな!」
「だから、別に罰当たりなことはしてませんってば。とにかく見て下さい」
自分の発見に興奮しているリーファは、ディナルの不機嫌さえも寄せ付けない勢いである。いつもなら少しは効き目がある厭味もすっかり空振りとあって、ディナルはしょっぱい顔だったが、氷室にジェイムまでいるのを見てさらにしかめっ面になった。
「ここで何をしとる」
「一応、立会人らしいですよ」
しらっとジェイムは応じ、リーファが証拠品の金槌を持ってきたのを確かめてうなずいた。
リーファは遺体を載せた台のそばに寄ると、ディナルにも傷口をよく見るように頼んだ。むき出しになった傷口に、ディナルは口をひん曲げたが、彼とて警備隊での職歴は長く、死体も見慣れている。文句は言わず、厳しい目で傷口をあらためた。
「……下から刺さっとるな」
ややあって彼は、渋々そう認めた。上から振り下ろした傷ではない、と。口論の末、激昂した人間が相手を金槌で殴るとなったら、普通は振り下ろすものだろう。わざわざ下から振り上げはしない。
「だが、事故だとも決められん。酔い潰れた父親を狙ったのなら、こういう角度にもなるだろう」
「かもしれませんね。でも、もっとよく見てください。この金槌と照らし合わせて」
リーファは金槌の薄く尖った方を、ディナルの目の前に差し出した。その部分がまるきり対称で上下左右の別もつかない形をしていたなら、リーファも諦めざるを得なかったかもしれない。だが、そうではなかった。上下で微妙な差をつけて湾曲しているのだ。
ディナルは胡散臭いものでも見るように金槌を睨み、それから不機嫌に傷口をもう一度じっくり見て……低く唸った。
「なるほどな」
「分かってもらえましたか。この向きだと、頭の上の方に金槌の柄が来るんです。首の方じゃなくてね。たとえ酔い潰れて突っ伏したところを狙うにしても、向かい側から腕を伸ばして打ち込まなきゃなりません。そんな不確実なことはしませんよ」
ぱし、とリーファは金槌でてのひらを叩いた。それから、勝利の喜びでほころびそうになる口元を引き締め、真面目な顔を保って言い足す。
「許可を頂けるなら、髪を全部剃ってみたら、はっきりします。賭けてもいいですが、後頭部に柄がぶつかった痕があるでしょうよ」
「そこまでせんでも良い」
ディナルはむっつりと唸り、リーファの手から金槌を奪い取った。
「本人の供述とも一致する。この件は事故で決まりだ。今日中に報告書を提出しろ!」
「了解、すぐに作成します!」
リーファはにっこり敬礼した。これでラスタを父殺しの汚名から守れるとなれば、無茶な期限を切られたぐらい、何ほどのこともない。死体遺棄の罪は免れまいが、近隣住民の間であれだけ評判が良かったのだから、街から出て行かなければならないほどのことにはならないだろう。ピウスという頼もしい味方もいることだし。
(ロトのおかげだな。今度何か礼をしなくちゃ)
菓子か酒でも買って帰ろうか。それとも、今度またシンハが脱走した時に捕獲するのを手伝う方が良いだろうか。
(……そういえば、あいつが何を喜ぶのかも知らないや)
既に三年以上の付き合いになるというのに、薄情な話である。リーファは本部を出て二番隊の詰所へ向かいながら、今度その辺の話も聞かせてもらおう、などと考えていた。
裁判はすぐに終わった。イクスの死因については問題にならず、ただその遺体を密かに処理しようとしたことだけが罪に問われた。公共の財産である河に投棄したということで、決して軽くはない罪だが、それでもラスタの情状を酌量し、市民の前で晒し者にする類の刑は免除された。
下された罰は、地区神殿での奉仕活動を一年間。傷病者の看護や埋葬の手伝いといった、汚れ仕事だ。加えて、月一回行われるシャーディン河の清掃に、三年間は必ず参加すること。
罰金は科されなかった。これらの刑務に従事しながらでは、当然、通常通りの仕事はこなせず、収入が減る。女一人で貯えもない――今までの収入はほとんどイクスの酒代に消えていた――暮らしから、さらに罰金を取り立てては、生活苦から別の犯罪に手を染めさせることにもなりかねないからだ。
裁判が終わって、ようやくイクスの遺体を埋葬することが出来た日には、リーファも葬儀に立ち会った。ラスタは相変わらず、感情を抑えて己の義務を果たしていたが、それを支えるピウスに向ける顔は、少し以前と変わりつつあるように見えた。
「……でさぁ、シンハ、何かいい考えないか?」
ひとつを残してすべての問題が片付いた非番日の昼下がり、リーファは国王の執務室で仕事の邪魔をしていた。室内にロトはいない。業務上の連絡や協議のため、城内あちこちを回っているのだ。
「ロトが喜ぶもの、か」
うーん、とシンハも考え込む。そう、リーファは事件解決の礼をまだしていなかったのである。したくとも出来なかった、と言うべきか。何しろ、贈り物の候補ひとつとして思いつかないのだ。
リーファは執務机の正面にしゃがみこみ、机の上に顎だけ置いて、うーうー唸りながら頭を左右に揺らしていた。シンハから見ると、まるで生首が喋っているような態である。
「さぼり魔の国王陛下が真面目にお仕事すりゃ、一番喜ぶんだろうけどなぁ」
「今もやってるだろうが、人聞きの悪い。まあ確かにあいつは仕事一辺倒で、趣味らしいことをしている様子もないし、飲み食いに執着するでもないし。難しいな」
付き合いの長いシンハでも、ロトに適した贈り物は思いつかなかった。否、自分が贈るのなら使える手はいくつかあるが、リーファが、となると……
「感謝のキスでもしてやれば、死ぬほど喜ぶんじゃないか」
半ば冗談、半ば本気で、そのぐらいしか考えられない。だがリーファは、「無茶言うなよ」とあっさり一蹴した。むくりと立ち上がり、机の端を回ってシンハのそばに来ると、
「んなことしたら、怒られるに決まってるじゃないか。この間、うっかりこの辺触っただけで、気にしろとか自覚を持てとか、説教されたんだぞ」
むすっとしながら、彼の腕や胸をぺしぺし叩いた。シンハは複雑な顔になる。
「俺はいいのか」
「おまえはそんなの気にしねーだろ。素っ裸ってんならともかく」
「……ロトの説教がまるで効いてないな」
「なんだよー」
リーファは子供のように膨れっ面をした。シンハは眉間を押さえて頭痛を堪える。ロトも気の毒に。
シンハは隠しもせずに深いため息をつくと、やれやれと妥協案を出した。
「もういいから、本人に訊けよ。息抜きがてら街に連れ出して、一緒に店を回って好きなものを選ばせてやれ」
「おっ、いい考え。うん、それがいいや、そうしよう」
ころっとリーファは機嫌を直し、笑顔でうんうんとうなずく。そして楽しそうに一言。
「おまえも一緒に来なよ」
「…………」
突っ伏したいのをぎりぎり堪え、シンハは「馬鹿」とうめいた。
「俺をさぼらせてどうするんだ。二人で行って来い。その間、こっちは“真面目にお仕事”しておくから」
「あ、そうか。そうだよな。うーん……」
「なんだ、ロトの相手が嫌なのか?」
「そういうんじゃないけど。こないだ説教されたからさ、二人だけじゃ、なんかちょっと気詰まりというか」
リーファは歯切れ悪くもごもご言う。おや、とシンハは眉を上げた。それを皮肉と取って、リーファはまた「なんだよ」と口を尖らせた。
「オレだって、叱られたことはちゃんと気にするんだぞ。懲りずに何回でも脱走して怒られるのが趣味になってるおまえと一緒にすんない」
「誰が趣味だ! まったく……。ロトの奴は別に、おまえに怒ってるわけじゃない。向こうもちょっとばかり気詰まりになっているだけだ。良い機会だから、ついでに仲直りしろ」
「うー……分かった。そうする」
いまいち気が重そうではあったものの、リーファは素直に応じて、机から離れた。それからうんと伸びをして、いつもの屈託ない表情に戻る。
「よっし、んじゃ、ロトの休みが取れるまでに店の下見をしとくかな! これが女の子だったらなぁ、お菓子とか髪飾りとか、喜びそうな店、いくつも知ってるんだけど」
「おまえもやっぱり、そういう店が好きか」
シンハが微笑する。リーファは照れ臭そうに笑った。
「自分では滅多に買わねーけど。ああいう、きらきらした可愛いのが並んでる店、見るのは好きだよ。あっ、なあなあ、ロトに髪飾りとか買ってやったらどうかな。案外、似合うんじゃね?」
悪戯を思いついて、リーファがにやにやする。思わずシンハもふきだしてしまった。
「そりゃ見物だろうが、無駄遣いはするなよ」
「高いもんはどっちみち買えねーよ。でもさ、あいつきれいな金髪だから、赤いリボンとか良いかも」
「おい、本気じゃないだろうな」
「さぁて、どうかなぁ。んじゃ、ロトに休みが決まったら教えてくれって伝言頼んだよ」
答えをはぐらかし、言うだけ言ってリーファは楽しそうに出て行く。赤なら黒髪にも合うよな、とかなんとか不穏な独り言が聞こえたのは、気のせいだろうか。シンハは呆れてそれを見送り、頭を振った。
「ロトに警告しておかないとな……やれやれ」
せっかく二人きりにしてやろうというのに、リーファの頭からは、良くも悪くもシンハの存在が消えないらしい。このままでは、主従お揃いのリボンを頂戴しかねないし、ロトにも恨まれるだけになりそうだ。
シンハは奥手な秘書官を思い浮かべ、もうちょっと頑張ってくれよ、と心の中でぼやいたのだった。
ちなみに結局、赤いリボンの心配は無用に終わった。
あれこれ迷った末にリーファが選んだ贈り物は、ラスタとピウスが共同で新しく考案した、疲れにくい靴だったのである。二人の靴職人は、試作品だし恩人の為だからと言って、ほとんど原価で作ってくれた。
出来上がった靴を受け取ったロトは、礼の言葉と共に、良かったね、とリーファに笑いかけた。
地道な情報収集と観察力でもってラスタを助けられたこと、その成果と能力を警備隊でも認められたこと、そして何より、助けた相手がこうしてきちんと職人として良い仕事を続けていると確かめられたこと。それらすべてをひっくるめて「良かったね」と。
リーファもにっこりしてうなずいた。その顔には、今までなかった自身の仕事に対する誇りが輝いている。頼もしさを感じさせる、力強い笑みだった。
――もっとも、それも束の間のこと。
すぐに彼女はいつもの悪戯っぽい表情に戻ると、
「その靴があれば、シンハがどこまで逃げてっても、追いかけて行けるよな!」
との余計な一言を付け足して、当の主従を苦笑させたのだったが……。
(終)
最後までお読み下さってありがとうございました。
鍵となる金槌は「底づけハンマー」と呼ばれるものです。
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