(3) 傷痕が語るもの
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「警備隊に女の人がいるなんて、知りませんでした」
道々ラスタがそう話しかけてきた。リーファは道順を覚えながら、なるべく愛想良く答える。
「採用されて、まだ一年ほどですから。荒っぽいことも多いですが、女でもこの仕事で出来ることは沢山ありますよ。それより、改めてお尋ねしますが、本当に、犯人に心当たりはありませんか」
「いいえ、ありません」
「些細なことでもいいんです。我々だって、あなたが名前を挙げたというだけで犯人だと決め付けたりはしませんから。生前関わりのあった人間を一人ずつ調べていけば、犯人を絞り込めるんです」
「関わり、と言いましても、父は付き合いの悪い人でしたから。親しいと言えるのは、職人仲間のピウスさんぐらいでしょうか。挨拶をするという程度でしたら、ご近所の皆さんもそうですけれど。父が通っていた酒場については、私は何も存じません」
「うーん……となると、酒場で行きずりの誰かと喧嘩して、って類かなぁ」
弱ったな、とリーファは天を仰いだ。そうなると、殺された人物と犯人との接点がなく、存在を突き止めることさえ難しくなる。
首を捻りつつも、周囲への注意はそがれていなかった。リーファはラスタの腕を軽く引き、強引に二人を追い越した男にぶつかられそうになったのを避ける。
どうも、とラスタが礼を言った時、リーファは彼女が手袋をしていることに気付いた。
「この暑いのに、手袋ですか」
麻と絹の混紡か、薄手で柔らかい布だったが、それにしても。リーファが驚き呆れていると、ラスタは恥ずかしそうにうつむいた。
「はい、あの……これは、外すとお見苦しいので」
「えっ……あ、失礼しました」
怪我か痣でもあるのだろうか。慌ててリーファが謝ると、ラスタは微苦笑して首を振った。
「大袈裟な事ではないんです。靴を作っておりますと、どうしても手に傷をつけてしまいますので。工房にいる間は良いんですけど、他所へ出る時には、少し……。傷だらけの手も誇れるようになってこそ、一人前の職人なのかもしれませんが」
「気にして当然だよ、女の子なんだから」
思わずリーファは敬語をすっ飛ばし、おっと、と口をふさいだ。ラスタは数回続けて瞬きし、それから、初めて本物の笑いをこぼした。
「ありがとう。あなた、いつもはそんな口調なの?」
「あー、うー……仕事中は良くないんで、聞かなかったことにして下さい」
「私は気にしないけど。歳もそんなに変わらないでしょう? 普通にしてもらえると、私も気が楽だわ」
「……んじゃ、お言葉に甘えて」
リーファはおどけて、ぺろっと舌を出した。
「靴作りって見たことないけど、結構大変なんだな」
「ええ。色々削ったり切ったり、刺したり縫ったり、叩いたり。怪我をすることばかり。それにものすごく工程が多いから、一人で全部をこなせる職人は少ないの。……父も、昔はその数少ない一人だったんだけど」
他愛無い世間話をしようとしても、すぐに父親の事に戻ってきてしまう。リーファは尋問している雰囲気にならないよう、気をつけながら問うた。
「親父さん、いつ頃から酒を飲むようになったんだい?」
「飲むだけは、昔からだったみたい。最初はそんなでもなかったらしいんだけど、父と母が言い争っているような場面を覚えているから、良くないお酒だったんでしょうね。母が出て行ってからは飲む量も時間も増えて……」
そこまで言って、ラスタは湿った苦笑をこぼした。
「結局、溺れ死んだってことね。お酒にしろ河にしろ」
「うん……、あッ!」
リーファは曖昧な相槌を打ってから、不意に頓狂な声を上げた。驚いたラスタが立ち竦み、目を丸くする。
「どうしたの」
「ごめん、びっくりさせて。ちょっと忘れてた事を思い出しただけ」
悪い悪い、と謝りながら、心中で己を蹴っ飛ばす。
(そうだよ、溺れ死んだんじゃないんだ! 何かおかしいと思ったのは、手だ!)
ラスタの手袋に気付いた時にもひっかかったのだが、昨日氷室で死体の手をよく見ようとしかけていたのを、今まで忘れていたのだった。あの時、何が気になったのかが、いきなり分かった。
(爪に泥が入ってなかったし、指先にあまり傷痕もなかった。岸に這い上がろうとして、もがいた跡がないんだ。河に落ちた――落とされた時には、もう死んでた。あの手を見ただけで、溺死じゃないと気付いて良かったのに! ああっオレの馬鹿!)
他殺となったら、一刻も早く聞き込みをするに限る。目撃者の記憶が薄れたり、ほかの記憶や噂などとごっちゃになってしまう前に。
リーファはラスタを工房まで送ってその場所を覚えると、即座に周辺住民の聞き込みを始めた。
予想していたことだが、実りは少なかった。ラスタと父親が言い争っているらしき声を聞いた住民はちらほらいたが、それも頻繁にあることなので、確かに三日前だと断言できる者は少なく、イクスが出て行った物音に気付いた者は一人もいなかった。
大体、このあたりは日が落ちてからも仕事をしている工房があったり、急な顧客の注文に応じるため深夜にバタバタすることもしばしばなので、住民は夜中の物音には慣れっこなのだ。聞いていたとしても、いちいち覚えていない。
リーファは早々に見切りをつけると、急いで二番隊の詰所に向かった。カナンと手分けして、酒場をしらみつぶしに当たらなければ。
「え、もうやってる?」
息せき切って詰所に飛び込んだリーファを迎えたのは、留守番をしている班長ひとりだけ。
「ああ。本部から似顔絵を持った伝令が来て、周辺の酒場を当たれってお達しだったからな。丁度今は全員手が空いていたから、さっさと片付けようと思ってバラまいた。じきに、近場回りに出した連中が戻ってくるだろう」
そうしたらカナンのところへ合流するなり、本部で死体と仲良くするなり、好きにすればいい。そう言われて、リーファは脱力して自分の席に沈み込んだ。
流石は腐っても警備隊長、手回しがいい。
とりあえずリーファは、待っている間にラスタや工房近隣の住民から得た情報を整理することにした。
そうこうしている間に、カナンが戻ってきた。
「リーファ! もう手が空いたのか。こっちはざっと一回りしてきたが、収穫なしだ。どうする? これからまた一緒に来るか」
「手が要りそうかい?」
「うーん……いや、二人で回っても大して差はなさそうだがな」
「じゃあ、オレは本部で遺体をもうちょっと調べてみる。見落としたことがないか、気になるんだ」
リーファは席を立ち、イクスの手のことを説明した。そういえば、とカナンもうなずく。
「確かに、指にも傷がなかったな。俺もうっかりしてた。この暑さが悪いんだ、くそっ!」
「覚え違いじゃないかどうか、確かめてくるよ。あと、もっぺん頭の傷をよく見てみる。凶器の見当がついたらいいんだけどな」
「そっちは期待してないから、あんまり気持ち悪いことを無理してするなよ。遺体に傷を増やすようなこともな」
「分かってる。いくらオレだってそこまで図太かないよ」
苦笑して応じたリーファに、どうだかな、とカナンが皮肉を返す。リーファは相手の腹に拳を一発お見舞いしてから、笑って詰所を後にした。
それからまた本部に戻り、厚着をして氷室にこもること数刻。
「ふへえー、寒ぃ寒ぃ、凍えるかと思った」
青白い顔になって出てきたリーファを、本部の隊員が複雑な顔で見やった。あまりリーファとは親しくないが、しばらく前からずっと本部にいるジェイム=ツァーデ青年だ。
「このくそ暑いのに、そんな格好を見せないでくれよ」
「ごめん、ごめん」
早くも暑くなりだしていたので、リーファも言い返さずに上着を脱ぐ。ジェイムは肩を竦め、ひらりと一枚の紙を渡した。
「何か分かったかい? 良かったらそれ、記録に使いなよ」
はてとリーファが見ると、丁寧だがすっきりと描かれた人体の図である。正面と背面が並べて描いてあり、傷や痣の状態を書き込めるよう、余白はたっぷり取ってある。
「おお、すげえ、助かるよありがとう!」
リーファはぱっと笑顔になり、ジェイムの首に抱きついた。やめろ暑苦しい、と嫌がられたものの、お構いなしである。
「そういや、似顔絵とかはあんたが全部描いてるんだっけ」
「そうだよ。最初はほんの片手間に走り書きしただけだったのに、気が付いたら本部でお絵かき三昧さ。まあ、外回りよりは性に合ってるけどね」
ぼやく彼の手元には、描きかけの似顔絵がまだ数点ある。神殿の養護院に保護された迷子や、イクスのほかにも氷室で冷えている身元不明の遺体の顔だ。
「大変だなぁ。でもあんたのおかげで助かってるよ。オレも迷子探しやったことあるけど、名前とか、髪や目の色だけじゃ難しくて」
リーファは空いた席を勝手に借りて、屑紙の走り書きと記憶を突き合わせつつ、貰った紙に所見を書き込んでいった。
ふと人の気配で顔を上げると、ジェイムが間近で興味津々と覗き込んでいた。
「ふーん。後頭部のほかには生前についたと見られる傷はなし、か。一撃必殺だな」
「まぁ、なんせここんとこだからね」
リーファは言いながら、自分の盆のくぼ辺りを指す。
「よっぽどよく狙ったか、あるいは運が悪かったか。ちょっとずれてりゃ、頭の骨で滑って刺さらずに、こぶが出来るだけで済んだかもしれないのにな」
「もし狙ったんだとしたら」ジェイムが唸る。「夜道で襲撃、ってのは駄目だな。たとえ満月の晴天でも、そこまで見えやしない。凶器の見当は?」
「さっぱり。平たくて尖ったもんだってのは確かだけど、刃物ほど薄くはないね。石とか木の枝とかじゃないと思う。河に浸かったにしても、棘とか石の欠片がついてないし、傷口がきれいな形なんだ。そうだ、一番考えられるのは楔か鑿じゃないかな。大工道具の……」
あれこれ二人で話していると、奥の部屋からディナルがぬっと顔を出した。いつの間にか聞いていたらしい、険悪なしかめっ面で唸った。
「随分、悪趣味な話に熱中しとるようだな。聞き込みの成果はあったのか」
「今のところは大して何も。三班の全員が総出で酒場に当たっていますので、その間に見落としがないか確認しに来たところです」
リーファが答え、ジェイムは慌ててこそこそと自分の席に戻る。ディナルは二人を睨みつけていたが、それ以上説教している暇がなかったらしく、
「さっさと結果を出せ!」
一声怒鳴って、荒っぽく扉を閉めた。リーファは首を竦め、ジェイムと顔を見合わせると、黙って記録に集中した。
(楔か何か、特別な道具を持ち出したんだとしたら……事前に計画していたってことになる。酒場で喧嘩して、そのまま路上で、ってのは無理だ。日頃から何かそういうのを持ち歩いている奴なら別だけど)
酒場の近くに住んでいる者が、頭から湯気を立てて家に戻り、鑿だか何だかをひっつかんで戻って、イクスが出てくるのを待ち伏せていた――ということなら、考えられる。
(ディナルのおっさんはラスタを疑ってたけど、女の力で一撃必殺、てのは無理だろう)
もっとも、急所をじっくり狙える立場にあったのは、彼女だが。酔い潰れて机に突っ伏した父親の首を、何か工房にある道具で一撃。
(うあ……嫌な想像しちまった)
その場面を思い浮かべて、リーファはげっそりした。明日は工房の中を見せて貰わなければなるまい。
(気が進まねえなあ)
だが、これも仕事だ。早いところラスタの嫌疑を晴らしてやれば、それだけこちらも気兼ねなく調べられる。リーファは紙に軽く吸い取り紙を当てて、インクを乾かした。
城に戻ると、ちょうど気分転換に体を動かしていたシンハに出くわした。敷地内を走っていたらしく、軽装で、少し息を弾ませている。
「鬱憤晴らしかい」
リーファが声をかけると、シンハは額の汗を拭いてこちらへやって来た。
「厨房を使うか、馬でちょっと出かけたかったんだが、両方とも却下されたんでな。見回りを兼ねて、ぐるっと一周してきた」
「みたいだね。しかも、道なき道を」
笑いながらリーファは手を伸ばし、シンハの髪についた木の葉を取ってやる。そこでふと、あることに気付き、手を止めた。
「シンハ、ちょっとじっとしてて」
「うん?」
いきなりのことにシンハはきょとんとしたが、理由は問わず、そのまま立ち尽くす。リーファはその背後にゆっくり回り、後頭部を見上げた。
「うーん……」
首を捻りながら、軽く腕を振って、拳をトンとうなじに当てる。向きや角度を変えて、さらに数回。さすがにシンハが不審げに問うた。
「なんだ、どうしたんだ」
「いや、ちょっと。どうやったら殺せるかなって」
「待て待て、物騒なことを考えるな」
シンハは片手で首を庇い、慌ててリーファに向き合う。リーファは苦笑をこぼした。
「何もおまえをぶちのめそうってんじゃないよ。そんな無茶なこと、考えやしねえって。それとも、オレの恨みを買うような覚えがあるのかい」
「おまえは恨んでなくても、ロトから頼まれて、ってことはあり得る」
真顔で答えたシンハに、リーファは爆笑してしまった。
「そんなにロトが怖いなら、ちょっと大人しくすりゃいいのに」
「そう出来るなら、怯えなくても済んでるさ」
答えになるような、ならないようなことを言い、シンハはゆっくり館に向かって歩き出した。リーファもそれに並ぶ。シンハが穏やかに問いかけた。
「街で何かあったのか?」
「んー、まあ。昨日言ってた水死体がさ、事故じゃなくて殺されたんだって判って、今、その調査中」
「ここを一撃されていたのか」
シンハが察して、先刻叩かれたうなじをさすった。
「被害者は俺ぐらいの身長だったのか?」
「いや、もっと低いよ。でも、犯人との身長差ってのをちょっと考えてさ。そこんとこを上手く一撃しようと思ったら、殺された靴屋より背が高い奴と、低い奴と、どっちがやりやすいかと思って」
「……その靴屋が立っていたんなら、身長の高い奴の方がやりやすいかもな。こう、」
と、シンハは腕を下から振り上げ、リーファのうなじをこつんと叩く。
「下から突き上げるのに都合がいい。あるいは水平に武器を振って食い込ませることも出来る。だが身長の低い人間がここを狙おうと思ったら、おまえがさっきやったように、扉を叩く要領で肘を曲げて凶器を打ち込まなきゃならん。あれではやりにくかろう」
「やっぱりそうかぁ」
「ただし、眠っていたり、座って何かの上に屈みこんでいたりすれば、身長は関係ないな。誰でも上から一撃だ」
「ううううぅ」
リーファは唸って頭を抱える。シンハがその頭をくしゃりと撫でた。
「あんまり殺伐としたことばかりで頭を一杯にするなよ。あれこれ考えてみたところで、現実がその通りであることは、そう多くない。痕跡から犯人を“創り出す”のではなく、疑わしい人物を絞り込むのに、あるいは嫌疑を晴らすために、そうした痕跡を利用するだけにしておけ。でないと、理屈に縛られて見えるものも見えなくなるぞ」
「おまえもやっぱり、こんなこと考えるより、聞き込みする方が有効だと思うかい?」
「ディナルに言われたのか」
お見通しである。シンハは温かい苦笑を浮かべ、ぽんぽんとリーファの頭を叩いた。
「おまえのしている事が無駄だとは言ってない。だが、手に入れた証拠だけですべてを説明しようとするのは、誤りを招く元だぞ。……焦るな、ってことだ」
「……うん。分かった。分かったから、その手、どけろよ。ガキじゃねんだぞ」
リーファは照れ隠しに膨れっ面をして、ぺしっ、と頭に置かれた手をはたく。シンハは微笑しただけで、何も言わなかった。その沈黙が余計に恥ずかしくて、リーファはオマケとばかりに彼の足を蹴飛ばしてやった。
むろん相手はびくともせず、自分の方が体勢を崩して、よろけてしまったのだが……。