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渡時過行  作者: いせゆも
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一九九六年九月十五日(日)・3

 元来父は、こういう性格をしていた。子供と同じ目線というか、思考能力というか。いつも家族を引っ張りながらも、一番楽しんでいるのは父だった。私と兄と母は、温かい目で見守っていたりしたもの。

 こんな父が変わってしまったのは結局のところ、私のせいなのかもしれない。

 両親が離婚して以来、私は塞ぎこんでしまった。兄が亡くなったのがショックだったというのもあるし、母の本性を目の当たりにしてしまったからというのもある。とにかく、現実を現実と認めようとはしなかった。内に閉じこもっていたのだ。父はそんな私を慰めようと、必死になって立ちまわった。前々から欲しいと言っていたものをくれたり、食べたいお菓子を買ってきてくれたり。しかし、無駄だった。父のどんな言葉も、私の胸の中までは入らない。それに加えて、私は短期間で、見る間に暗い性格になっていった。父はそれを、自分のせいだと感じた。

 伝染病が怖いのは、それ自体の毒性ではなく、人にうつることが怖いのだ。そうどこかで聞いた。確かにそうかもしれない。私の暗さは、父にまでうつった。何をしても娘は明るくならないず、好きなサッカーまで止めてしまう。これは俺の責任だ。父がそう思ってしまったとしても仕方がない。本当に悪いのは、全て私だというのに。第一その当時の私は、父の変化に気がつかなかった。それが大きな原因だ。

 私たち家族は、私と父以外の形を残していない。分離してしまった二つの破片への想いは変化し続けても、父に対する評価は全く変わらない。父はいつだろうがあの明るい父のまま。無条件に信じていた。そんなはずはないというのに。父だって人間なのだから、いつまでも塞ぎこむ私を見て自信消失をしてしまう。当たり前のはずなことを、私は気づくほど心のゆとりがなかった。

 ――なんてことを、息を整えながら思った。

「…………」

 寒い。気温はそんなに低くないのに、どこか肌寒い。多分これは、心の温度。

 どうしてこんなことになったんだろう。ベンチに座りながら私は、ぼーっと思い出す。

『こりゃ吉報だな。母さんにも教えなきゃ』

 そう言った父は、部屋を出て行こうとした。家族の中で起きた事件ならば、家族で共有するのが当たり前だ。父の行動は至って普通と言える。ただし私にとってしてみれば、絶対にしてほしくない行動でもある。

 父が呼びに行こうとした人物は、私にとっては諸悪の根源。しかし制止の言葉は遅かった。父は既に部屋を飛び出してしまったからだ。まるで、私を捨てていくみたい。無論、そんなことは錯覚だ。父は、母を呼びに行くだけ。それだけでしかない。

 正直訳も分からないままタイムスリップしたとはいえ、こうなることは予想の範疇。ただ、気がつかないフリをしていた。

 この時代には、私の家に母がいる。今ここに居たら、母と出会ってしまう。なんということ。不倶戴天。もう一生会いたくない人物と一つ屋根の下なんて。そう思った瞬間、私の腕には蕁麻疹が出ていた。私がこうなった原因。父を狂わせた原因。私にとって、母とはトラウマそのもの。会いたくない。絶対に会いたくない。私の心は、ただ一心、それだけで占められてしまった。一人になりたい。冷静に判断したい。母のことになるとクールではいられいない。絶対に激情してしまう。兄も父もこんなに幸せで明るいのに、私の陰気を持ってきていいはずがない。

 理由も言わずに私は部屋を出た。私が父を止めようとしたように、兄も私のことを止めようとした。「ちょっと外に出てくる」とだけ言い放って、明かりの点けられていない玄関へ行く。しかし私の靴がない。『この当時の私』の靴はあるけれど、サイズが合うはずがない。とは言っても文句を言っている暇はない。身長が同じくらいだから多分ちょうどいいだろうと判断して、兄の靴を借り、玄関の扉を開ける。

 ひゅうと吹く風が私を責める。寒い。同じ日付のはずなのに、寒く感じた。そういえば昔の私は寒がりだったっけ。この当時は本当に寒かったのかもしれない。温暖化の影響とかで、わずかながらの差で寒く感じない、とかそんな感じで。

 息の続く限り、走り抜いた。その結果にたどり着いたのが、この公園だった。

 なんだっけこの公園。マンションから中途半端に遠いから、外で遊ぶ時だろうがサッカーの自主練習をする時だろうが使った記憶はほとんどない。少し小さくても近所の公園で練習していた私には縁がなかった場所。思い出なんてないに等しい。だからこそ、ノスタルジーに浸ることなく、考え事に耽ることが出来る。

「……ふう」

 それにしても、兄と、相見えるなんて。もしかしてこれは性質の悪い夢なのではないか。そう思ったのは一度だけではない。常識で考えれば、こんなことは非現実的。なのに受け入れてしまっているのは、私の深層心理では、兄と出会いたかったから。そう思う他ない。

「……………………」

 頭が痛い。頭痛がする。頭が頭痛で痛い。どうしてタイムスリップをした? 元の世界に戻る方法は? 悩みは尽きない。次から次へと疑問という名の井戸から湧いてくる。綺麗な井戸水だったら歓迎するところだけれど、泥水しか摂取できないから性質が悪い。

「はあ……」

 何度めになったかも数えきれないほどに増えてしまったため息をつきながら、だらんと横たわった。どうせこんな時間・場所でベンチを利用する人もいないだろうし、公共の福祉なんか考えないようにする。

 このまま溶けてしまいたい。もう、何をする気も起きない……。私の目は既に、風景を抽象的に描くことしかしなくなっていた。

 硝子となった瞳に、向こうから誰かがやってくるのが映った。大人ではない。子供。まだ小学生といったところ。こんな時間に外出するなんて、どういう教育を受けているのだろう。少年は、背負っているリュックサックから大きな球を取り出した。ちょうどその子供の頭と同じくらいのサイズだ。視力が弱い私でも、白と黒が入り混じった模様をしているところは視認できた。

 ――あれは。まさか。いいや、有り得ない。私は首を振る。

 もし私の推測が当たったとして、それがなんになる。過去にどれだけ干渉していいのか分からないこの時点で、あの少年に接したら、未来がどう変革してしまうのか。私自身に未来が訪れない可能性もなきにしもあらず、だけど。私はともかく、あの人の未来を変えてしまえるほど、私は心ない女でもない。

 壁に向かってボールを蹴る少年。跳ね返す壁。蹴り返す少年。ほぼ同じ強さで反射させる壁。その闘いの様子は、公園に響く音という形で実況される。それを聞く観客は私一人。

 ……しかしそれにしても……下手。まっすぐに蹴るには、ボールの斜めの角度から侵入しなければならないのに、あの少年は、ボールに対してまっすぐに入っている。おかげで強く蹴ることが出来ない。それに、思った通りの場所に蹴れていない。壁は少年の見当違いの方向へ跳ね返している。見てられない。

 水城先輩と付き合ってからの私というものは、少しは明るい性格になった。と自負しているつもり。まだ年端もいかぬ少年に、お姉さんとして教えを扱いてあげようか……などと、あくまでも妄想のレベルで想像する。このぐらい現実逃避しているぐらいが、今の私には一番心地よい。

 三十分くらいずっと壁当てをして、満足したのか、少年は家に帰って行った。すると、この公園に残されたのは私と、静寂のみ。いや、静寂すらなかった。

 虫の音色。鈴虫がりんりんりんと、綺麗に鳴いている。ついさっきまでボールの音しか聞いていなかったから、余計に強く耳に入る。さらには――

「おお、いたいた」

 キキーッという、ブレーキの音まで。

「はしたないぞ大の女が。女っていうのは、膝を揃えてちょこんとベンチに座るって相場が決まってるんだ」

「いつの時代の話」

 大儀そうに私は起き上がる。一応は兄の言った通り、膝を揃えてみた。

「そうそう。折角可愛く育ったんだから、それを大いに利用しないとさ。勿体ないぞ」

「どうしてここに」

「ユキを探して彷徨ってたらさ、蛾が俺の前を通り過ぎたんだよ。そうしたらさ、ピンときたね。虫が教えてくれた。ユキがここにいるってな」

「なにそれ」

 自転車に跨り、僅かに汗を額に浮かべている兄は、どうしてか自信たっぷりだった。

「ありえないから」

「でも俺がここにいるのは、確かな事実だぞ」

 私の口から、言ってほしいことを聞き出せたのか。兄は、にまーっと笑った。

 確かに。過去の私はこの公園を使ってなどいないし、未来の私(つまりこの私)がここに来るなんて保証はどこにもない。それなのに探し当てたということは、少なからず何かの導きがあったとしか思えない。

「虫はいいぞお。女は嫌がるけど。カブトムシとかさ、かっけえじゃん。どこの未来から来たんだお前って感じで。表はシンプルなデザインなのに、裏はごちゃごちゃしてんのとかたまらん。まあ昆虫はほとんどそうなんだけどさ。そういや、ユキは未来から来たんだよな。どうだ? 未来のカブトムシは。なんか凄くなってたりしないか?」

「二十二世紀から来たわけじゃないし」

「あ、二〇〇四年だっけ。そうか、まだ二十二世紀じゃねえんだ。ほら、なんか俺の中で二十一世紀にはもうパイプの中を車が走りまわってるイメージがなんかあるからさあ」

「たった八年で科学がそんなに進歩するはずがないでしょ」

「そうなのかあ。二十二世紀まで生きないとチューブカーは見られないかあ」

「パイプ都市から離れなさい」

「浪漫だよなあパイプ。あれ、どういう意味があるんだろう? なんで昔の漫画見ると、大体未来の想像図で選ばれるんだろうなパイプ。ヤマトみたいにさ。そう言えば空飛ぶ車とかさ、交通事故がないとか言うけど、墜落事故とかはありそうじゃねえかな? 追突事故でさえエアバックで生き延びるかどうかなのに、墜落したらどうやって安全を確保するの?」

「そこまで科学が発展してるわけじゃない時代に生きている私に訊かないで」

「あとさ、一九九九年七の月、恐怖の大王が舞い降りるってあるじゃん。やっぱり世界は終末を迎えたの? 世紀末?」

「じゃあここにいる私はなんなの?」

「ユリア」

「そこまで崇高なものじゃない」

「リン?」

「なんでそっちにいくの」

 漫画好きな兄のことはある。私も影響を受けて、少しならこんな話題についていけてしまう。癪。

「まあ未来談義はこの辺にしてさ、家に帰ろうぜ? もっとユキからさ、いろんな話、聴いてみてえもん」

 自転車の後ろの荷台をぽんぽんと叩く。ここに座れという合図だ。

「それじゃ遠慮なくっ、て言いながら座るとでも思ってる? 家直通の切符を買うわけない」

「ちいっ!」

 舌打ちができないから擬音を口で言ってしまった兄。歯ぎしりの音を私に聴かせるほどに鳴らして、指パッチン。露骨な悔しがり方。

「滅茶苦茶作戦練ったのになあ……。さりげない話題の中に、自転車に乗れって混ぜたらすんなり乗ってくれるかなあって」

「ギャグ漫画だってそれは突っ込みを入れられるじゃん」

「あ、そうか」

 これが年上の余裕というやつなのか、兄と相対していても、実に落ち着き払いながら対処できる。大人になったということか。兄は困ったように頭を掻く。嘘みたいだけど本当に成功すると思っていたようだ。自転車から降りてスタンドを降ろす。ぺたぺたとサンダルを踏みしめながら、私の隣に座った。何かを言いたそうだ。私は待つ。私たちの間に、夜の冷たい空気が流れた。おふざけの熱を冷ます、夜のマイナスな熱気。

「ユキ」

 意を決して口を開いた兄は、これまでふざけていたことは全て幻でしたと言わんばかりに、謹厳で精悍な顔つきになる。

「家に、帰ろうぜ」

 兄の説得は、実に簡潔だった。

「まだ状況が分かんないんだ。変な行動を起こすべきじゃない。もしかしたら、元居た世界に戻れなくなっちゃうかもしれないんだぞ」

「言いたいことはそれだけ?」

「……辛辣だな、ユキ」

 ふん、と鼻を鳴らした兄は、肩を大げさに竦めた。

「お袋」

 兄の一言に、ぴくんと反応してしまった。兄は私を見てニヤニヤしている。意地の悪い笑みだ。

「が、原因なんだろう?」

 悔しいながらも、手玉に取られた。

「それがどうしたの」

 相手に先を促すような私の口ぶりは、それが答えだと言外に示していた。

「あのさあ」

 兄は私の肩を抱きしめる。ふわっと薫る、兄の匂い。私は兄に、抱きしめられている。

「ユキがお袋と何があったのかは分からない。けどさ、何かあったのは分かるんだよ。ユキ、親父がお袋のことを言った瞬間、凄く怒った顔をした。殺意って言うのかな。近くにいた俺、ユキが少し怖くなった」

「…………」

 言葉を発しない私に、兄の手は私の頭に移動して、赤子をあやすように撫で始めた。

「多分、お袋が何か大変な過ちを犯したんだろう? もともとユキはお袋にも親父にも懐いてなかったけどさ、実の親を憎むなんて異常だよ」

「多喜良には関係ない」

 敢えて兄の名前で呼んだ。突然の私の冷たさに、兄は驚いた様子。慌てて私を離した。私も兄も、母の実の子供ではある。けれど私と兄は半分の血のつながりしかない。だから、妹としてではなく、一人の女として私は兄に言う。

「多喜良のせいで私は苦しんだ。多喜良が――あんなことにならなければ、お父さんは悩まなかった」

 流石に目の前にいる人物に、あなたは数年後に死にます、と言うのははばかられた。逆に言えば、それに抵抗がある程度の理性しか残っていなかった。

「全て多喜良のせい。私がこうなったのも、全部。全部、お兄ちゃんの……せい……」

 後は言葉になんてならなかった。口に出そうとした事の数々は涙となって溢れてしまう。逆恨みなのは分かっている。兄が死んだのは兄のせいでは断じてないし、家族が分裂してのは、兄が死んだことに起因するのではなく……そもそも母が犯した、罪のせい。兄は何も言わない。言ってところで私の慰めにならないことを分かっている。

「苦労したんだろうなあユキ。俺なんかのうのうと生きてるけど、ユキは大きな壁を乗り越えてる最中っていうか。俺なんかとは比べ物にならないほど大人。あと二年ぽっちで、そこまで大人になれるか自信ないよ俺」

 そんなことなんてあるものか。人の気持ちを考えることが出来る兄こそ、私よりも大人なのではないのか。

「とにかくさ、家に帰ろうぜ。この時代のお袋に何を言っても意味のないことだろうけどさ、予習にはなるじゃん?」

 未来において、私は母と喧嘩している。兄はそう、少しだけの勘違いしているのか。それならそれで、敢えて説明することなんてない。そう私は思った。わざわざ未来の出来事を語って、この幸せな家族を壊したくなんてない。少なくとも今この時代において、川西家は平凡で、普通な家庭なのだ。

「……うん。分かった」

 私は殊勝な態度で兄の説得に乗った。

「よっし交渉成立。それじゃ、家に帰ろうな」

 私の頭をくしゃくしゃっと撫でる。髪型が乱れる、と思って振りほどこうと一瞬だけ思ったけれど、止めにした。兄に撫でられるのは、この世にあるとは到底信じられないほど、気持のいいことだったから。

「あらあら。その様子じゃ、もう仲直りをしたのかしら?」

 そんな幸福も、一人の女の登場で台無しになってしまった。なりやがった。

 世間知らずなお嬢様が、そのまま大人になってような、ふわふわしたこの雰囲気、外見、口調。兄と同じように、記憶よりも少し若いけれど、当時のまま。反吐が出る。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。母の髪の毛一本、足音一つにだって、私の癇に障る。

「お袋。よくここが分かったな。それ以前に、この子がユキだってことも」

「分かるわよお。だってお母さんは、貴方達のお母さんだもの」

 母は、当たり前なことを言わせないで、というように、手をひらひらさせる。

 なにが貴方達のお母さんだよ。そう叫びたい。けれど、喉元まで出かかったその言葉を、すんでのところでひっこめる。我慢だ。私が元の世界に戻るまでの期間、我慢。

「うん、有難うお母さん」

 鉄の意志で、それだけは言った。

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