一九九六年九月十五日(日)・2
私は兄が大好きだった。頭がよくって、運動神経も抜群で、女の人にすごくモテて、それなのに凄く優しくて。絵に描いたような優しい男。それが私の兄。よく意地悪を言っていて、でも可愛がってくれて。休みの日に遊んでもらったり、少ないお小遣いでお菓子を買ってもらったり。けれど私が悪さをすると、父や母を差し置いて、真っ先に拳骨を落としたのも兄。サッカーで活躍をして、褒めてくれるのも兄。それだけ好きだった兄。
「取りあえず、まずは情報収集だ」
そのはずの兄は、私の目の前にいた。
私たちは何故か正座をして、お見合いでもするかのようにしゃんと背筋を伸ばし、真面目な表情でお互いの顔を見る。決してフザけているわけではない。ないはず。どっちが先にやったからそれに合わせて……というものでもない。全く同タイミングで、同行動をしていた。
「現在は一九九六年。俺は十五歳でユキは八歳。今度の誕生日で九歳。で、大ユキは何歳?」
「何歳に見える?」
「うわ、そういう質問をするような歳か」
男性が女性に言われて困る質問なのらしい。何所かで聞いたそれは、どうやら本当のようだ。私の顔を凝視して、少しでも近い年齢を当てようと努力している。
「俺より身長低いから……十……四かな」
「嬉しいやら悲しいやら」
私は身長が低すぎるため、顔を見られないと年下に思われることが多い。見ているのに年下に答えてきた兄には辟易するが。身長は私のコンプレックス。嫌ならそもそもそんな問題を出すなという話ではあるが、兄が私を見る目がとても気になったもので。
「十七だよ。満で」
「ああ、本当に女子高生なのか。いや、俺よりも年上のユキってのもなんだかなあ……」
「それはこっちの台詞。お兄ちゃんなのに年下だなんて、なんか変な感じ」
年上で当たり前の人物よりも年上になるのが、こんなにも不思議な気分を与えるなんて。小学生の頃はよく読んでいた漫画の主人公の年齢を上回った時とか、ああ、私って成長してんだなあって思ったけれど、もうこの場合は違和感が強すぎて。
「俺の状況というと、俺とユキと親父とお袋の四人はいつものように和やかなムードで食事を取っていた。家族同士の語らいなど、それはもういつもと変わらない風景だった。ふざけあいとかも。俺はユキに『ユキが大人になったとしても色っぽくなんてならないだろ~』とかコケシのようにニヤニヤしながら言ったら、ユキは『そんなことないもん! 大人になったら、お兄ちゃんはドッキドキだもん!』とか言いながら、いつもの癖が発動した。で、誠心誠意込めて謝ろうとユキの部屋に行ったら、バタンという大きな音が聞こえた。これは何事かと、俺はカモシカのように走った。慌てて部屋に飛び込むと、床に転がっている、大きな女の子がいた」
あ、この説明の仕方。間違いなく私の目の前にいるのは兄。
確証はないけれど、兄の話には脚色がかなりの割合で混じっている。特に私の台詞は。まあ大筋の流れは理解できるから問題ないから構わないんだけれど。兄の言うことをいちいち真に受けてはいけないと、数年前までは骨身に染みていたことを思い出す。それだけ私は簡単に騙されていたんだ。よくそこまで純情だったこと。
「……いつもの癖って?」
「え? 癖は癖だろ?」
「そんなもの、少なくとも今はない」
「……そうかあ。ということは、随分おとなしい子に育つんだなあ。そういえば、ちっとも騒がないし。凄くクールで落ち着いた喋り方だし」
兄まで私のことをクールと言うか。学校や部活での私の評価は『身長に似合わずクールビューティ』らしい。……身長とクールに因果関係はないと私は思っている。
「癖……誰かにからかわれるとすぐ部屋に引きこもること」
「辞書みたいに言わないでよ」
「お、突っ込みスキルがついたんだな。ボケ甲斐のある妹になるものだなあ」
ああ、兄が変なことを言うのって、突っ込み待ちだったんだ。当時の私にはそんな技能は持ち合わせていない。こう、世の中を斜めに構えていると、自然と人の欠点を浚うことをしてしまうもので、現在の私はとにかく捻くれている。
「……次は私ね」
兄の説明をよく噛みしめたから、現状は把握した(それでもまだ大混乱はしているのだけれど)。このままでは進展がないので、こちらからも説明を。
「うお! ユキが自分のことを私って呼んでる!」
しかし出鼻は挫かれた。
「…………。あ~」
兄が驚くのも無理はない。この当時の私は、一人称が『ボク』だった。あんまり男と女を分けて考えていなかったからだ。女がボクと言って何が悪い? とか素で考えていた。今考えると赤面もの。実際に顔を赤らめるような人格をしていないから実行まではしない。
「いやあ、やっぱユキも女なんだなあ。歳が経てば、勝手に私って言うようになるのかあ」
「そりゃこの年でボクなんて言ってたら、ただの変な女だって」
「いやいや案外悪いものではないと思うぞ。クラスに一人いるかいないかの恰好いいとされる女の子が、自分のことを僕って呼ぶのは。男装の麗人とか普通に有りだって」
……兄って、こんな性的趣向を持ってたっけ? 記憶が美化されていたのか、それとも知識がついたからそう感じるのか。昔を思い出そうにも、当時の私はそういったことには全く興味がなかったし、知識がなかったから、聞いても右から左へと流れていったはず。
まあ私よりも年下の男ならこんなものかな、ということでいちいち不快には思わない。むしろ微笑ましくもあったり。素の兄を見られて。
「やっぱ違うなあ女子高生。俺もユキの成長に戸惑うばかりだしなあ」
そういった兄は、私の身体をじろじろと見た。
「何?」
私とて女。男の人に、『こういう』目で見られたことは経験がある。これはどう考えたところで……色目だった。兄の瞼の上辺りを指で突く。
「うお、あっぶね!」
なんという反射神経。正座だから即座に回避行動には移れないはずなのに、身体全体を後ろに倒して豪快に回避した。もっとも、兄は運動神経と動体視力が良いから、きちんと回避してくれると信頼しているからこその攻撃なのだけれど。
「大きくなった私に好奇心があるのは分かるし、見るなとまでは言わないけど、露骨にじろじろ見るのはマナー違反。せめて盗み見で留めて」
「……うう、ユキがやさぐれたあ」
と、そうは言ったものの、私の胸に視線がたびたび集中させる兄を見ていると「所詮は中学生なんだなあ」なんて思ったりもする。この年頃はとにかく性欲が強いって聞くし。
というか、聞いてばかりだな私。なにせまともな彼氏は水城先輩しかいない。
「というか、私ってそんなに女の子してる?」
私は自分の身体を女性らしいと思っていない。身長以外の発育は平均を超えているけれど、それは女性らしさとはちょっと違うような気がする。それに、この恰好はあまりにも色気がない。ターミネーターよろしく、こちらの世界に到着した瞬間に素っ裸、ということがなかったのは不幸中の幸いというか。タイムスリップする直前の恰好と同じ。シャツにジーパン。ちょっとコンビニに行ってくる、ぐらいの軽装だ。
「何を言ってるんだ。身体のラインとかはすっかり大人のものだし、胸とかかなりでかいし。カップなんて分かんないけど、Dとかあるんじゃないのか?」
デリカシーの欠片もない兄のおでこに向かって拳を一閃。やっぱり避けられた。元より力は込めていなかったから、当てても大した被害にはならない程度に。
「確かにそのぐらいはあるけどさ」
「おお、俺の眼力も捨てたものではないな」
恥ずかしげもなく欲望を打ち明けるあたり流石は兄だ。……と感心している私が心のどこかにいたことは内緒。
「年上として言っておくけれど、誇ることじゃないからね。男に有り勝ちな勘違いだけれど、スリーサイズのバストとカップは全く別のものだから。言っても分からないだろうから敢えて言うけれど、私はFの六十っていうサイズ」
「おお……お? それって凄いのか?」
「小さいなら小さい、大きいなら大きい、どう思ってもご勝手に」
……というより、どうして私は思春期真っ只中の男子中学生のために、男にとっては終生どうでもいいウンチクを教えているのだろう。
「次は、私の、話を、するね」
もう一度、強調して言う。変な方向に流れそうなもので。
「……どこから話せばいいの?」
などと意気込んだまではよかったものの、どこまで話していいのやら。私にとっては過去に経過したことも、この時点においては遠い未来の出来事なのだから、バラしてしまっていいものなのか。
そう私が悩んでいると、コンコン、と扉がノックされた。
「どうぞ」
兄は間髪いれずに返事をした。
「……ちょっと待って。まずくない?」
「へ? なにが?」
こういうのって、目撃者は少ない方がいいんじゃ。あまり変なことをしすぎると、時空に歪みとかが。そんな風に色々と言いたかったけれど、その暇は与えられなかった。
「おい行喜名。いい加減、お兄ちゃんを困らせるのは――」
過去の私に向けている説教をしながら入ってきた、突然の乱入者。
それは、私の記憶よりも幾分若い――父だった。
「……誰だ、あんたは」
当然の疑問。息子の部屋ならともかく、娘の部屋にこんな大きな女がいたら驚くのも無理はない。あ、いや、私自体は小柄だけれど。当時の私と比較すれば、まだ。
「ユキなんだってさ。大きくなりたいとか言ってたら、本当に大きくなっちゃったんだよ」
「――――」
ぽかーんと、大きく空いた口。沈黙。沈黙。沈黙。
「あの、お父さ――」
「行喜名!」
「うおぁあ!」
私は素っ頓狂な声を上げてしまった。けれど、少しは勘弁してほしい。父がいきなり私に向かってダイブしてきたせいなのだから。ラリアットよろしく、腕を私の首に巻きつけて、そのまま羽交い絞め。見事に動きが取れない。
「ん~、まさか行喜名がこんなになるなんて……父さんは感動だ!」
「お父さんってこんなキャラだったっけ!?」
「親父。やめてやれよ、ユキが苦しがってる。大きくなったからって親父の力いっぱいの攻撃を受け止めきれないっての」
見かねた兄が助けてくれた。普段意地悪なところばかりだけど、優しいのが兄でもある。
「お、そうなのか、いや、すまないすまない。つい全力を出せるかと思うと、嬉しくって」
「けほっ……やるんなら、お兄ちゃんにでもやってよ……」
涙目気味な私は必死になって訴える。けれど今度は私の発した単語に反応した兄が……、
「お兄ちゃん!? 大きくなったユキも、俺を変わらずお兄ちゃんと呼んでくれてるのか!」
私の意図しないところで興奮していた。ああもう、この二人ときたら!
「はあ、はあ、はあ……」
迫りくる父と兄を退けきった私はすっかり息が切れた。なんかもう、凄い喜びようだった。
「うおぉ……まさか行喜名が、ここまで強くなるなんて……父さん、感動だ……」
「ユキ……強くなったなあ……。年上とはいえ、俺が押される展開があるなんて……」
そして未だにその余韻に浸っている男連中。
「……二人とも、私が女だってこと忘れてない?」
揉みくちゃになるのは別に構わないけれど、さすがに胸とかに触れられそうになったら全力で抵抗せざるを得ない。幸い貞操は塞ぎきった。きれなかったら、水城先輩に申し訳ない。私はサッカーをしているおかげか、多少は鍛えられている。そうでもなければ、押し負けていた可能性もあったかもしれない。当たりの強い水城先輩と比べてしまえば、兄はまだ未熟と言ってしまっていいし、父は中年。どちらとも、現役真っ只中の水城先輩とは基礎的な体力からして違う。
私は、全く成すすべのなかった昔と違い、成長した今、抵抗ができてしまったのだ。