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渡時過行  作者: いせゆも
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一九九六年九月十五日(日)・1

 倒れている。進行形ではなくて、完了形。私が認識できるのはそのぐらい。頭を打ったのかジーンという鈍い痛み。何も視界に映らない。黒なのか白なのか赤なのか青なのかも判別がつかなくなっている。ただし、聴覚だけは至極正常に通常運行をしていた。

「おいあんた。誰だ。小学生の女の子がこの部屋に逃げ込んだはずなんだけどさ」

 非常に聞き覚えのあるテノール。記憶にあるものより幾分か明るいそれは……、

「――――! お兄ちゃん!?」

 間違いようもなく、兄のもの。目を開けるだけ開いて、がばっと起き上がる。その時、兄と思われし男と、額と額がぶつかり合った。うめき声を上げ、同タイミングで転がりまわる私たち。何をやっているのだろう私たち。

「こ、この俺の頭蓋骨が、さしみこんにゃくのような女の頭蓋骨に負けるとは……!」

 こんな意味不明な表現をするのは、やっぱり……、

「どう、して、お兄ちゃん」

 川西多喜良。死んでしまったはずの、私の兄。

「……やっぱりお前って、ユキなんだよな?」

 私の顔を覗き見る男。いや、まだ少年と言った方がいい。私よりも年下にしか見えない。

「……お兄ちゃん」

 目をこする。袖で何度もガシガシと。痛くなるまで。しかし何度見ようが、私の目の前にいるのは、間違いようもなく私の兄、川西多喜良。

「どうなってんだ?」

「こっちが訊きたい」

 本当、どうしてこんなことになっているのだろう。頭の中が真っ白。理解しようという脳の働きは、とっくに活動を止めている。

「……あ、会話してる」

 私は兄が亡くなってすぐは、よく兄を夢で見た。大抵は思い出だ。笑っている兄、喜んでいる兄、悔しがってる兄、怒っている兄……。どれにしたって、一方通行だった。私は兄に話しかけても、兄は返事をしてくれない。逆に兄が私に呼び掛ける時は、私は兄を無視する。夢から醒めた後は、猛烈な後悔。それがない。

「そりゃそうだろ。何言ってんだユキ」

 ユキ。この世で、兄だけが私をそう呼ぶ。当時と全く変わらぬイントネーション。

「むぅ……大人になりたいとは言ってたけど、まさか本当に大きくなるとはなあ……。髪も伸びてるし、凄く大人っぽい。こんな美人になるなんて想像もできなかったぞ」

「なにそれ?」

「今さっきユキが言ったんだろ」

「そんなこと、言ったことないよ」

「いやいや、親父とお袋も聞いてるからそれ」

 親父? ……お袋?

 今さらながらに、部屋を見回す。

「……何所、ここ?」

 一面、サッカー選手のポスターばかり。しかも一昔前の。少しだけ……いやいや、かなり見覚えがある。こんな部屋にする人間を。けれど、その人間はもう部屋をこんな風には――、

「何所も何も、ユキの部屋じゃないか。願いどおり大人になったからって、自分の部屋を忘れることはないだろ」

「はあ?」

 そんなはずはない。だって私の部屋は、引っ越しをする時にからっぽになってしまったのだから。特に、あそこにあるポスターなんて、選手直筆のサインが入ったプレミア品。ドッキリにしたって、同じものを用意できるとは考えられない。

「うお、ユキがやさぐれてる。そんな今時の女子高生みたいな眉の顰め方をするなんて」

「今時も何も、女子高生だし」

 まるで、私がまだ高校生にすらなっていないみたいな口ぶり。

「……待て。なんか俺達、話が噛み合ってない気がするぞ」

「うん。そう思い始めた」

 なんだろう、この違和感。私は私なのに、兄はもっと別の存在に接しているような……。

「ユキ。今は西暦何年だ?」

「二〇〇四年」

 西暦まで忘れるほどボケてはいない。さらっと答える。

「…………」

 私の言葉を聴いた兄は、無言で部屋を出ていき、一枚の大きな紙を持って戻ってきた。新聞だ。まだ新しい。ぱりっとした感触は、間違いなく今日のもの。新聞なんて数日放置しただけで劣化するから、保存なんてそんなに効かないはず。

 日付欄を見ると――『平成八年 九月 十五日 日曜日』。二〇〇四年が平成一六年だから……およそ八年の歳月をタイムスリップ?

「頭が頭痛で痛くなってきたぞ」

「こっちも」

 まあ、まあ、まあ、なんというか。どうなってんのこれ。

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