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渡時過行  作者: いせゆも
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二千四年九月十五日(日曜日)・5

 私には兄がいた。過去形だ。

 まだ私がランドセルを背負っていた頃はまだ普通の一家だった。全てが狂ったのは、桜が咲き、私がもうそろそろ制服を着始める季節が訪れる、ほんの少し前。

 兄がバイクで事故を起こしてから。

 重体となって輸血が必要となった兄が運ばれた病院は深刻な血液不足だった。兄は友達が多く、大勢の人が血を分けてくれることになっても、適合する血液はなかった。遅れて病院に到着した私たち家族は、すぐさま自らの血液を提供するよう医師に頼んだ。

 血液型は合う。合わなければいけない。そのはずだった。

 母と父は大学で知り合った。同じサークルで活動していたとのことだ。あまり仲は良くなかったけれど、ある事故を迎えて親密になる。どんなことが起きたかといえば、ちょうど兄と同じように、母は事故に遭遇して血液不足になった。母は希少な血液型をしていたのだが、奇跡的にも、父は同じ血液型をしていたのだ。その病院にはストックがなく、父から輸血をすることで母は一命を取り留めた。その縁があって父と母は交際を始め、結婚し、私たちを産むに至った、という経緯がある。

 なのに輸血をする前の血液検査の結果、兄は父と母の組み合わせではありえない組み合わせの血液型と判明した。それが示すことはただ一つ。兄は父の実子ではない。当然、父は母に問い詰める。「お前はどこの男と寝て、多喜良《兄》を作った」と。母は簡単に白状した。

 私はあなたが好き。だけど同じくらい、大樹も好き。どちらも同じくらい大好き。たまたま私に告白したのがあなただったから付き合ったのだけれど、もし大樹があなたより先に告白したら、大樹と付き合っていたのかもしれない。ううん、それは違うわね。私は、二人の男性を同時に愛せるのよ。

 大樹とは父の友人だ。大学時代から親交があり、従って、母とも親交があった。私も何度か遊んでもらったことがある。ただの優しい、普通のおじさんとしか思わなかった。最低な人間だなんて、思ってもみなかった。そんな男を母は愛していると言った。罪悪感なんて微塵も感じていない。幼児が将来の夢を話すような、無邪気な告発だった。

 怖気がした。どうしてお母さんはそんなことを言えるの? お父さんのことは好きでもなんでもないの? 大樹おじさんは母を奪い取るような人だったの?

 小学生のそんな年齢なんて妙に潔癖なところがあるものだ。母の不純なところを知ってしまった私は、急に、今まで母と思っていた人間をただの汚らしい『なにか』としか見られなくなった。

 それと同時に、私の性癖はここが原因なのだと悟った。

 私は同時に二人の男を、全く同時に好きになる。なんとも思わなかったそれは、母から遺伝であったのだ。私はこれを『呪い』だと感じた。自分の身に降り注ぐ災厄。

 父は母に離婚届を差し出した。まさか自分の妻が、こんな女だとは微塵も想像していなかったはずだ。知っていたら、そもそも結婚していたか、いや、付き合っていたかどうかすら分からない。もう継続なんて無理なのだから、いっそ一思いに離婚してしまえばいいのに。こう私が思ったのは、母が頑なに判を押さなかったからだ。母にとっては離婚よりも、世間体の方が気になるものだった。バツ一となれば世間はどう自分を見るのか。ただそれだけを気にしていた。

 それからの日々は忘れたいというのに、今でもはっきりと覚えている。事実を知った、優しかったはずの父の激昂ぶりを。全てを打ち明けてすっきりしたのか、いっそ恍惚を浮かべた母の表情を。子どもにしてみれば親という存在は神みたいなものだ。神聖にして絶対。自分の全て。少なくとも私はそう信じていた。なのに、それは容易に裏切られる。所詮母もただの人間だったのだ。

 検査の結果、私は母と父の実の娘であることは判明していた。せめてもの救いだ。父は親権を訴えた。兄が亡くなり、母は憎しみだけを抱くようになった時、父が家族の中で信頼できるものは、すでに私だけになっていた。私としても、母なんかは信頼できないから、例え母が反抗しようとも、父についていく所存だった。

 この間、僅か数日。たった数日で私たち川西一家崩壊した。もう、笑いしか出ない。それ以上の行動を私は取ることができなかった。

 財産分与ではまた話が拗れに拗れ、災いの種になるということで、いっそのことマンションは売却することに決定した。住む所のなくなった私と父は、引っ越しをして、元居たマンションから五駅ほど離れた町にあるアパートに移り住むことになる。ちょうど小学校も卒業したところでもあり、サッカーを止めることにした私には、未練はなかった。中学校なんて実質小学校の持ちあがりだし、「川西さんの両親離婚したんだって」と噂されるのも嫌だったというのもある。まだこの頃の私は兄の死から立ち直っていなかったから、少しでも自分を傷つける言葉に免疫が働いてくれなかった。

 そこそこ大きいマンションから、部屋がいくつかあるだけの質素なアパート。これは別に構わない。だけど、急激な環境の変化。多感な時期であった十二歳の私は、見る間に性格まで捻じれてしまった。快活と謳われていた私は、今ではこの通り。

 父にとっても災厄だ。私以外を無条件に信じることができなくなった父に残されたものは、私と、仕事と、残り数十年残っているマンションのローンぐらいなものだった。

 私も失ったものは多々ある。家族の絆もそうだし、兄の命もそうだし、大好きだったサッカーもそう。

 好きだったサッカーを止めたのは、母のせいだと私は断言する。父には、女だから云々と適当に理由をつけて、もうサッカーをやらないことにしたと伝えた。けれど本当の理由は……大樹おじさんがサッカーを好きだったからだ。

 私にとって、父とは父、この世で一人だけ。なのに父以外の人間の血が、遺伝子という名の泥が粘っこく体中を巡回しているように思えて、私はサッカーを好きではいられなくなった。だから止めた。


 私は一度自室に入る。

 明日は早く家を出なければいけないとかで、父が先にお風呂に入ることになった。思春期の女の子として、「お父さん、お風呂出たら栓抜いといて」とでも言えば面白いことになりそうだけれど、流石にやらないでおいた。それにそこまで父を嫌悪しているわけでもなし。不潔と言うにも、父は同じ年代の男と比べると、随分と若々しい。客観的に比較できないから、色眼鏡なんだけれど。

 ふっ、と姿見に映った私は、少しピンク色の入った白のシャツに、七分丈のジーパン姿。色気もなにもない服装をしているけれど、この時間になれば父にすらあまり見せないし、これで十分。学校ではなんか色々言われている私だけれど、部屋に戻りさえすれば、あられもない姿を見せるのは普通のこと。まあ他の人間に見られたとしても、水城先輩には絶対に見せられないか。こういうことでは幻滅されたくない。嫌いになられるなら、もっと私の嫌な部分をむざむざと知ってから嫌ってほしい。そのぐらいには私を知ってほしい。

 今日のデートで水城先輩に買ってもらった、本が入っている紙袋の封を開け、中身を取り出す。渡時月下とじげっか。そんな題名。黒魔術とか、そういう雰囲気の漂う表紙。けれど内容を見てみると、なんだかメルヘンで柔らかなタッチの絵。よく分からない文章。どこか人を惹きつける何か。その何かを発見するべく、私はじーっと、隅々まで本を見回した。

『前方注意』

 そう書かれている文を見て私は、無意識下に身を固くした。こんな本に書かれていることに反応してしまうなんて……と思いながら、背もたれに体重をかけると、

「……え?」


・・・

・・

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