九月十七日(火)・3
時計も見ずに練習を続けていると、あっという間に時間が過ぎるていることに気が付いた。その瞬間、どっと脚に負担が出てくる。
ああ、ハイになっていたのか私は。らしくもない。
適度な休憩は必須。まだ動き足りない少年に、「休憩をしよう」と私から提案した。
ベンチに落ち着くも(このベンチは一昨日、私がここで少年を見つけた時と同じ物だ)、喉の渇きを覚える。身体は数パーセントの水分を失うだけで身体能力が著しく低下するという。そこまで激しい運動はしていないとはいえ、渇きを潤わすべきだろう。
「ちょっとジュース買ってくるね。なにが飲みたい?」
「え、いや、別に……いらない……」
「遠慮しなくていいの。ほら、そこの自販機にあるものなら、なんでも買ってあげるから。それとも、私の好きに買ってきていい?」
「うん……」
「あいわかった」
三十秒ほど歩けば辿り着ける場所に二台の自販機が。どんなラインアップなのか、注意深く見てみる。「……そういえばあったなこんなの」と、独り言の癖はないはずなのに呟いてしまった。記憶の片隅にしかないドリンクや、未来の世界にも存在はしているがデザインが古臭いものなど、とにもかくにも時代を感じる。
そしてこの中で私が全幅の信頼を置ける、錆のように濁った赤色の、炭酸飲料を発見。瞬間で私は、これだけをロックオン。
やっぱり、三日に一回は飲まなきゃね♪ それが愛する物への敬意ってやつだよ♪
たまに本屋で立ち読みする女性誌風のキャッチコピーを脳内に流しつつ、身体は五百円玉を入れてボタンを連打。ギー、ガコン、という音を聞いてもまだ私は連打を留めない。ええいもどかしい早く触らせろ。もう一度ギー、ガコンと取り出し口が鳴ってからやっと私は連打を止める。そうしてキンキンに冷えている缶を握っているのにほくほく笑顔の私は少年の所へ戻っていく。私から缶を受け取った少年は、不思議そうな表情で缶を観察していた。
「なに、これ?」
「飲んだことないの? ドクターペッパー」
ジスイジアマイフェイブリアットドリンク。そんな私の気持ちなんて、誰にも理解されない。私は孤独な女。
いくら私から授かった物とはいえ、見たこともない飲み物には抵抗があるのか、タブを起こしたまではよかったけれど、匂いを嗅いだだけで、あからさまに敬遠している。この匂いまでもがいいのに。少年は一口、その滑らかとも言うべき至高の命の水を含んだところで――諦めた。
「……歳とか関係なく苦手なんですね、水城先輩は」
「え?」
「ん? なにか言った私?」
仕方なく、「しょうがないなあ、勿体ないし」と私は言いながら少年の持っているドクターペッパーを受け取り、自分で飲むことにした。私の分はまだ開封していないし、こちらは家に帰ってからでも。……あ、間接キスになるのかこれ。でも相手は子供だし、特に抵抗もなし。逆に、向こうの方が顔を真っ赤にさせちゃってもう大変。そりゃ、大きくなっても今時珍しい手を繋ぐだけでも恥ずかしがる男だからねえ。などとしみじみ考える。私はドクターペッパーを飲みながら、ゆっくりとした時間をこの少年と過ごす。
「少年はさ、サッカーって好き?」
なんてことのない質問。そのはずだった。
「…………」
しかし少年から、応えが帰ってくる気配がない。
「少年?」
横に座っている少年を、真正面に捉える。足でサッカーを舐めるように転がしている。いじけている子供のようだ、と感じたところで、そもそも子供であったことを思いだす。
「師匠は……師匠だから、話すけど……ほんとは俺、サッカー、やめたい」
「――どうして?」
私は可能な限り優しい声を出した。ここで刺激するのは、少年の心を傷つけてしまいそうと感じたから。
「いや、やめたいって、いうか……やめたかったと、いうか……わからない。サッカーは面白いけど、俺、やっても勝てないし……でも、昨日、師匠にキックを教わって、すごく、楽しい、って、感じて……」
「ふうん」
……そういえば水城先輩と付き合い始めたきっかけの一つに、私が『どうして水城先輩は、サッカーを嫌いだと言っている私に、そこまで楽しさを教えようとするんですか』という質問に、『楽しいって分かってるのに、嫌いだなんて、もったいない』と返してきた、ということがあった。なんでも水城先輩は昔、サッカーの楽しさを忘れかけた時、初心に帰って純粋に遊んだら、「そうかこれがサッカーなのか」と思い出すことができたらしい。自分が一度した経験が私にも適応すると思って、私にしつこく付きまとった。
……それってよくよく考えると。
『何か行動をしたとしても、それは必然。起こるべき出来事だ。』と渡時月下にはそう書かれていた。ならばこれは、私の仕事というわけか。
いたいけな男の子に、サッカーを教える謎のお姉さん。少年にとってのこの私の役割としてはこんなところ。未来にどう繋がるのか。それは私が考えるべきではない。したって栓なきことだ。
「少年。君はどうしてサッカーを始めたの?」
私は無難なところから始めることにした。……人を呼ぶのに『君』なんて初めて使った。
「一年の時、クラスの友達に、ちょっとやってみないかって、誘われて、で、やってみたら、面白かったから」
「うんうん。そんなもんだよね、最初って。ということは、少なくとも最初は『面白い』って感じたんだ?」
「……うん」
ここははっきりと肯いた。
「けどさ、今の少年は勝ちたいからサッカーをやってるんでしょ。勝ちたいだけで、楽しくなくってもいいんだよね、サッカーなんて」
「いや、そういうわけじゃ、ないんだけど……」
そしてここは否定。これで少年は面白いからサッカーをやっているという確証がとれた。
「だったらいいじゃん。クラブの仲間に下手と言われようが、相手チームの女の子に負けようが。それが楽しかったら。っていうかさ」
さて。これから話すは、私が初めて人に披露する、私にとってのサッカー観。少年が理解できるかは未知数だけれど……まあ、理解してもらう必要もないか。
「確かに勝ちたいよね、やるからには。その気持ちは分かるよすごく。勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。悔しい思いをするのは嫌だから、負けないように沢山練習する。それが普通の人の考えかな。けどさ、私はちょっとその考えとは違うんだよね。私は、楽しくサッカーをすればそれで満足しちゃう。じゃあなにが楽しいかって言うとまあ沢山あるけれど、例えば――まあ相手が存在するスポーツなら大抵そうだろうけど――どうやって敵陣地へ切り込むかの戦略とか、一対一になった時のフェイントの出しあいとか。そこには、駆け引きというものが生まれるの。それこそが、サッカーの楽しさの源だと私は感じた。だから楽しい試合をするのは、自分が強くなる必要があったんだよね。だってそうしないと、駆け引きにならないだもん。相手が強ければ強いほど楽しい。それに実力で打ち勝つことは面白い。それが私にとっての、サッカー」
「…………」
分からないか。まあ、今はそれでいい。いつの日か、少年のためになる時がやってくる。