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渡時過行  作者: いせゆも
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九月十七日(火)・1

「ユキ。起きろ。朝だぞ」

「んん……」

「しょうがないなあユキは。ほら――」

 小鳥の囀りならぬ、兄の吹き込み。私の耳の中へ向けて、初夏のような優しい風を送り出す。頭の芯から足の先までぞわっと広がる不快感。

「――――!」

 飛び起きた。飛び起きて、無意識のうちに兄の鳩尾へ拳を叩きこんでいた。

「ごふぅ! ……さ、流石だ、ユキ……」

 ぱたんと倒れる兄。


 ……という茶番をしたのは、夢の中の出来事なのか、はたまた実際に起きたことなのか。私に確かめる術はない。そもそも、あんなことをするような兄を持った覚えはない。ええ、私のお兄ちゃんは、優しくて恰好いいのだもの。断じて変態ではないのだもの。

「……なんで、ユキはあんなに強いんだ?」

「サッカー部の男どもを相手するには、あれぐらいの元気は必要だから」

 まあ本当のことだったとしても、本気で殴ったわけではなくて、脅し程度だったはずだ。おそらく兄が倒れたのは、リアクションを大げさに取ったから、というところが大きい。……あれが私の夢ならば。私に中学生とはいえ男を一撃で倒せるほどの腕力はない。

「朝っぱらから元気だなおまえらは」

 父の冷静なお言葉。これでも私、朝だからまともに頭が働いていない。

「そうねえ。もうゆきながずっとここにいてもいいんじゃない? たきらの相手ができて」

 一緒に住もう、か。生憎そんなものは御免だ。あはは、と引きつっているのは自覚しつつも笑っておいた。このぐらいの応答なら、大丈夫。

「そうだよなあ。このユキも悪くないよなあ」

「うーん……父さんとしては、娘の成長は嬉しいんだが、トランジスタグラマーは男が好きそうだからなあ……悪い虫がつかないか心配で」

「いやいや、ナチュラルに言われても」

 もう三人とも、思い思いのこと勝手に言ってくれちゃって。

「御馳走様。それじゃあ、ユキ。俺は学校行くから。落ち着いてなきゃ駄目だぞ」

 BGM代わりに付けているテレビのニュースが、八時になったことをお茶の間に伝える。この時間になると、兄は学校へ出発するのだった。

「私は三歳児か。お兄ちゃんより年上だっての」

「む、そうか……」

 今日からはもう休日でない。平日だ。兄には学校がある。「学校を休んでユキと居るう」とチビ私よりも子供っぽく駄々をこねる兄を「受験生が学校を休んでどうする」と私と母で説得して、ようやく成功したのだった。父はどちらかというと兄と同じ立場だったので、どうともなんとも。

 兄が家を出ていくと、残されたのは私と母と父の三人。

「それじゃあ行喜名。父さんは仕事に行くから。暴れちゃ駄目だぞ」

 頼みの綱な父も、三十分ほどしたら仕事に出かけてしまう。

「私は三歳児か。親子揃って私を子供扱いすな。お兄ちゃんよりも年上なんだぞ私は」

「む、そうか……」

 わざとなのか素なのか。巻き戻しボタンをどこで押してしまったのだろう。兄と似たような会話を父とする。少しでも長く、少しでも引きとめるように。五分ぐらい押し問答をしているうちに、父は電車に間に合わなくなるとやや掛け足気味に会社へ出発した。罪悪感を覚えてはいるが、私にはもう、父しかしがみつきようがなかった。

「…………」

 さて、こうなったら私の悩みは一つだ。

「そう言えば、大きなゆきなと二人っきりになるのは初めてなのね」

 そう。兄がいないと、私は母と相対しなくてはいけなくなってしまう。

 この世で一番嫌いで苦手な、母と。

「…………」

 私は黙りながら、テレビで流れているニュースを見続ける。母は速報で流れた殺人事件を見て、「あらあら物騒ねえ」と呑気な感想を言っている。私にとってその内容の全ては、一分一秒を争う報道の世界において、すでに死んだ情報だ。不謹慎ながら、どこかで起きた殺人事件でさえ、そういえばこんなことがあったなあという懐古に思いで浸かってしまう。報道が終わると、次は芸能。最近人気絶頂な男性歌手が不倫をしていたという内容だ。相手は男性歌手のファンで、既婚者であったことが問題となっている(私にはもちろん過去の出来事。そもそもこんな歌手がいたことを忘れていた。未来の世界ではすっかりと消えた、『過去の人』だ)。

「へえ。お母さん、こういう男の人って好きだったのに、人は見かけによらないものねえ」

「そう?」

 いかにもファンをホテルに連れ込んでそう。私にはそういうことをしそうな男にしか見えない。……この男性歌手の顔は、どことなく、魚の小骨くらいのつっかかりを覚える。ご飯を飲みこめば、それだけでもう分からなくなってしまうような、そのぐらいの小さな違和感。

「そんなに凝視するほどその人が好きなの?」

「別に。ただなんとなく、誰かに見覚えがあるような気がして」

 ライブの映像を背景に、コメンテーターは「やはり女性にもてると手を出したくなってしまいますからね。それを押さえてこそ、真のアイドルと言えるのではないでしょうか」なんて正論を言ってはいるが、羨ましがっていることが見え見えだった。

「そうねえ。たいき君に似てるんじゃない?」

 母の言ったその人物と、この男性歌手の顔を比べてみる。確かに、どことなくではあるが大樹おじさんに似ている気がした。――はん。下らない。だから好きなのかよ。

「未来でも、たいき君は元気にやってるのかしら? やっぱり、無病息災じゃないとねえ」

 私に未来の話は厳禁だと言っているというのに、よりにもよってその野郎のことを私に振るか。正直、気分わりい。

「……私、もう少ししたら出かけるつもりだけど、いい? お母さん」

 本心から出た言葉ではないけれど、自然と私の口はそう動いていた。

「あら? どうかしたの?」

「昨日はお兄ちゃんと街に出てたから、この辺を歩いてなくて。ちょっと思い出に浸るために、一人散歩でもしようかなって」

 出まかせにしては、まあまあな理由だと思う。

「あら。また行っちゃうの? お母さん、ゆきなが大きくなったら一緒にお洋服を買ったりするのが夢だったのに」

 そんな夢、叶えさせてやるものか。

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