九月十六日(月)・9
「ユキってサッカーに今も関わってんだよな。で、選手じゃないってことは、マネージャーとかをやってるってことか?」
今日も今日とて兄の部屋へ侵入すると、小説を読んでいた兄は私の扉を開けるタイミングを見計らってそう言ってきた。
「いきなりだね」
それこそ兄であるのだから、特に気にはしない。私は兄の質問に対する答えを考えた。しかし、「……うぅん、マネージャーでいいのかどうなのか」よく考えてみると、私のサッカー部での立ち位置が把握できていない。
「なんだその回答は」
「分かんないんだって。別に部員のやる気をあげるためにユニフォームの洗濯をしたり水分補給のスポーツドリンクを用意したり、そういうことは基本的にしないから」
「じゃあ何をやってんだよ」
「強いて言うなら……コーチ?」
「練習の指示を出したりとかそんな感じ?」
「そんな感じ。例えば……」
ふと、練習風景を頭に想い浮かべる。なんだか、これを話すとまずい気がしたから。
『グラウンド、もう二十周です』
行喜名は寒さに凍えるサッカー部員に、温かいものを与えるどころか、それを通り越して熱湯のごとき地獄の一声をあびせた。太陽は出ているというのにまともに仕事をしなく、風はもう「いい加減仕事をサボっても誰も怒らないから!」と叫びたくなるような勤勉ぶり。そんな氷が身体に張り付いているのではないかと思えるぐらいに極寒中での出来事。
すでに三十分、ハイペースでずっと校庭を走り続けている。断じてマラソンの速度ではない。よくて四百メートルぐらいの速さのまま、ずっとだ。誰もが誰も額は汗を流し、だというのに手はがっちがちに寒さで固まっている。そうした中、やっと次々とゴールにたどり着く。脚はがたがたに笑い、歯はがちがちに踊る。十五人の部員は、目標を到達した喜びを、つかの間に受け取っていた。
それなのに行喜名は非情。これ以上の運動を要求する。
『あなたたちは体力がないんですから、これぐらいできませんと。四十五分掛ける二で九十分。試合になれば、ずっと走り回んなければいけないんです。例えばフォワードな斎藤先輩。最初の十分でもうペースが落ちています。一週目は一分を切るペースでしたが、五週目には一分十秒。十周目には一分三十秒。そんなフォワード、試合で使えると思っているんですか。三年だからレギュラーに入れてあげているようなものですけれど、ベンチに格下げしますよ』
風避けができて日当たりもよいから比較的温かいベンチに、男物のコートを着てぬくぬくとしながら座っている行喜名からの、横柄としか言えないはずの言葉。それだというのに、不平不満はあっても、反撃する男はいない。ここでは誰も行喜名には逆らえないのだ。
『それとも、罰ゲームを受けてでもここでやめますか? いいですよ。クジ運がよければ外れてくれますからね。それじゃあ飯縄先輩。まずはマラソンを継続するかしないかの選択を』
その声はどこまでも冷たい。冷笑すらしていないその表情は、男たちを真冬だというのに身体の芯まで冷たさを染み渡らせる。
指名された飯縄は、年下の後輩を相手にしているのに、まるで高校生にカツアゲをされる小学生のようなおそるおそるとした態度で、「継続……しない」と言った。
『しないんですかそうですか。後は皆さん、運を天に任せるしかないですね。それとも、くじを引くのは飯縄先輩なんですから、飯縄先輩を信じるかのどちらか』
行喜名がそう言わなくても、すでに一人を除いた部員たちは、風船を割る針よりも激しく飯縄を睨んでいた。結束を固めるには、敵を作ること。今この瞬間、十五人から飯縄ともう一人を除いた計十三人の絆は、サッカーボールをキックで破裂させるぐらい強固になっていた。……逆に言えば、飯縄だけが敵として扱われていた。むしろ最大の被害者なのに。
プレッシャーに負けそうになる飯縄は、自分の意思が挫けるよりも前に、行喜名の抱えているくじ引きを引いた。
引いた棒には「一位を除く奇数の順位に罰ゲーム」と書かれている。
約半数の部員が、絶望に陥る。
『あらあら。いつもは多くても三人ぐらいなのに、今日は随分当該者が多いですねえ。それじゃ、冷やしておきます』
その罰ゲームとは……ギンギンに冷やしたドクターペッパーを一気に飲むこと。
何が悲しくてこんなクソ寒い時期に、しかもドクターペッパーを、さらにはイッキをしなければいけない。そもそも罰ゲームをなぜかあまり受けない一人の除いてほとんどの部員がそう考える。
まあ一応、順位が一位ならどんなことがあろうとも一応罰ゲームは避けられるようには一応できているから、一応とにかく頑張れば逃げ道ぐらいは一応用意されている。
何度も言おう。一応。
『それとも、マラソン継続がいいですか? 今日の私は機嫌がいいですから、多数派の意見次第ではマラソンかドクペ一気飲みのどちらかはやめてあげますよ』
この部活、行喜名の「一蓮托生」の言葉を抱負に、チームワークを磨くためにサッカー部全員を参加させる練習がある。マラソンはその一つだ。ここで重要なのが、一蓮托生であること。全員の意見の一致は無理でも、最低でも半数、つまり八人は超える意見がなければ、行喜名に反対の意見を出すことすらできない。
そんな風に、このサッカー部は行喜名が握っていると言っても過言ではない。罰ゲームの理不尽なところは最たるものだ。
半数が肯き、半数が首を振る。それはそうだ。半数はこのままだと罰ゲームを受けずに済み、半数はとばっちりを受ける結果になるのだから。
『困りましたねえ。七対七ですか。では、最後の一人に委ねられますね』
そう言った行喜名は、どちらの派閥にも属していない部員の方を向いた。
『……お、俺?』
『そうですよ。水城先輩だって大事な一員なんですから』
水城守。行喜名の彼氏。
これで行喜名がフリーなのなら、まだやる気が出ようというもの。少しでも気を引くために頑張るというのが男の悲しい性。だというのにあろうことか、行喜名には彼氏がいて、しかもその彼氏はサッカー部の中にいて、さらにその彼氏はうまいこと罰ゲームを逃れている。行喜名は誰であろうとも手加減をしないから、彼氏だからと甘くなっているのではない。むしろ行喜名は、彼氏だからこそ厳しい練習を与えている。けれど、何故か罰ゲームだけは避けている。こんな横暴なことが、世の中にあっていいのだろうか。いや、ない。
『お、れは――』
固唾を飲んで、守の一言を待つ部員たち。
『……川西のしたい方で』
守の最悪な判断に、思わず詰め寄る部員たち。しかしそんなことをしても、行喜名が思いとどまるはずがない。どうせ守にとって、どう答えた所で彼女が取る行動は同じなのだから。止めようがない。
『そうですか。じゃあ意見が割れたので、私の命令が優先されますね。追加二十周をしつつ、全員にドクターペッパーです。大丈夫。私もドクペは参加しますよ。一蓮托生、こんな美味しいもの、罰ゲームにするのも本当は嫌なんですけどね。あ、マラソンは私しませんよ?』
サッカー部は、絶望の雨が降りそぶった。
その光景を肴に行喜名は、キンキンに冷やされたドクターペッパーを、ぐびぐびと飲み始める。見ているだけでも罰ゲームな光景だった。
「…………」
言えるわけがなかった。
「どうしたんだよ。急に黙って」
「いやあ、よくサッカー部の皆は、私がサッカーに復帰してからもう少しで一年、誰も脱落しなかったなあって思って」
「……別の方向に成長したみたいだな、ユキ」
もしサッカー部での私を見たら、確実にドン引きすること間違いなし。
だって楽しいんだもんあれ。……あ、いや、サッカーに関われることが、ですよ?