九月十六日(月)・7
ほどよく掻いた汗が、残暑な風に晒されてすら、いかにも快適そうに乾いていく。
疲れた私は未だ興奮冷めやらぬ少年をなんとか引きとめ、休憩をすることにした。ベンチに座ったら足がくたくたになっていることに気づく。兄とデートをしてずっと歩きつくめていたのだから、もっと早くに脚にガタがきてもよさそうだったけど、それすらも気が付かなかった。私も知らず興奮していたということか。
「その、師匠は、なんで俺に、教えようと、すんの?」
喋り方は全く変わっていない。一言一言区切るような歯切れの悪い口調はまさしくこの人だ。……でも師匠と呼ばれるのは、なんともなんとも。確かに私からは名乗らないと言った以上『どう呼んでもいいよ』とは言ったけれど。まあ男の子なんて漫画の影響でこんなものかな。と簡素に思う。
「んー、見てられなかったからかな。今の君よりも私の方が上手い自信があるから」
「そりゃ、大人なら、俺より、上手いだろ」
あの人は私の一つ年上の先輩なのだから、ちび私が十歳のこの時代、少年の年齢は十一歳。私と五歳差。……そうか、チビ私と兄の年齢の比率と同じなんだ。あの頃の私は、兄を途方もなく大きな壁と感じていた。それと同じく、こちらも五歳差。それなら私を大人扱いしてもおかしくない。そういえば、小さい頃は一つ年上だってかなり大きく見えたっけ。ましてや、私は中学生を通り越して高校生。これは完全に、大人だ。
「でも、私は女。どんなに頑張っても、男の子には敵わない」
私は意識しないうちに、声が落ち込んでいた。少年に向けて放ったのではない。誰に当てた言葉なのだろう。私自身、それは分からない。
第二次性長期を迎えるまでなら、女にだって分がある。むしろ成長が早い分、小学生ぐらいまでなら女の方が身体能力が上だなんてことは普通。私もその恩恵を受けてきた身だ。しかし、この年になったらもう無理。ブランクがあるし、いくらサッカー部に混じってさりげなく私も練習しているとはいえ、技術ならともかく、身体能力は全く敵わない。しかも私がサッカー部に入って以来、技術を磨かせてきたから、下手すると虎の子なテクニックでも。
「…………?」
少年は、私がそういう気持ちを込めて言ったことを理解できない。当たり前だ。できたほうが気持ち悪い。それに、たかだか十を少し超えた程度の子供に知らせていい内容でもない。私は何をやっている。
「ごめんね。なんでもないの」
「でも師匠、泣きそうになってる」
眦に指を動かす。微かな水の感触。カッと擦って、何事もなかったかのように振舞う。
「そう? 君があまりにも下手だからさ」
私がそう言うと、むしろ少年が泣きそうな顔になった。
「こらこら。男の子がそんなことで泣いちゃ駄目。そんなんじゃ、試合なんてやってられないぞ」
「俺、女の子にも負けるぐらい弱いのに……」
思いつめたような表情。少年は、一枚の紙切れぐらいに繊細で。
……そうだ。思い出した。私の彼氏はその昔、苛めにあっていた(らしい。伝聞だから言い切るのもおかしいかな)。気が弱いせいで、恰好の標的にされていたのだと。それが小学校の低学年ぐらいまで。高学年になると、サッカーを始めたせいか身体も大きくなり始めて、苛めの手からは自然と離れたらしい。となると。
「同級生の女の子と、喧嘩でもしたの?」
何か私が、少年の傷を抉るようなことを言ったに違いない。単純な考えだけど、単純こそ意外と難しい。どちらかというといじめっ子な私だから。
「…………」
実に言いにくそうな顔をするものだ。ついつい、大人なお姉さんとしては根掘り葉掘り聞き出したくなってしまう。
――私はちゃんと、兄と血が繋がってるんだなあ。
「ほらほら、お姉さんに相談してみなさい。『一人で悩んでたって、いいことない。自分でよければ、話相手になってやる』。……これ、ある人からの受け売りなんだけどね」
巷には有り触れた、ちんけな台詞だったけれど、それでもこの言葉に、一年ぐらい前の私はどれだけ救われたものか。
「……昨日、近くの小学校とサッカーの試合をした時に、フォワードの、女の子に負けた。俺よりもちっちゃくて、弱そうだなって思ったのに、ドンってぶつかったら、倒されてて……なんか、よく分からないうちに抜かれてて、点を入れられて……」
もはや少年は泣きそうだった。間一髪のところで涙を堪えている。一方、私は涙ではない、別の水を流しているところだった。
「ふうん。女、の……子……」
それはそれは。心当たりがあるというか。あり過ぎるというか。
試合は毎週日曜にしていたのだっけ。今日は月曜だから、少年が昨日戦ったチームが、私のチームだったとしても、ねえ。まあ、一か月に一回あるぐらいの代物を、いちいち憶えているはずもなく。……ということは、私とあの人は、実は結構前から出会っていたのか。世界は広くても、世間は狭いとはこのこと。
ふと、ピンと私の頭に、あることが閃いた。
「その女の子に負けたのが悔しかったらさ、私が技術を教えてあげようか? お姉さんも女の子だから、その方法は知ってる。私の教える技術を身につけることができたら、君はその女の子どころか、誰にだって負けない立派なストライカーになれるよ」
なんせ、その子の弱点は、この私が一番知っているのだから。……『現役時代』、負けた記憶が一度もないのは、なんとも同情したくなるけれど。