二千四年九月十五日(日曜日)・1
「や、やあ。ごめん、待った?」
私よりも頭二つ分近く大きくて、丸太のような太い腕の男性が、おどおどしながら近づいてくる。大きな図体に似合わず、性格は小心もの。
「五分ほどですね」
「ご、ごめん……」
「一度謝ったのに、何度謝るんですか。謝罪の言葉を重ねるぐらいなら、行動に起こしてくれた方が断然マシです」
そうは憎まれ口を叩いても、私の頬はにやけることを止めてくれない。本当は五分なんて嘘だ。二十分前からこの場所に来ている。だけど、それは伝えないでおく。水城先輩がそんな事実を知ったら、恐縮することは目に見えているから。
「それじゃ、行こうか『川西』」
「…………」
私は答えない。我ながら嫌な性格をしているとは自覚しているけれど、何年も培ってきたこの性分、数か月で直せる代物ではない。
「川西……?」
「なんですか、『先輩』」
「あ」
憮然とした態度で言ったことで、やっとこちらの意図が読めたのか。
「ゆ……きな……」
「なんですか、『水城先輩?』」
先ほどとは打って変わった、自宅で鏡を見ながら特訓した、私が出来うる限りの笑顔を見せてあげる。意識をして笑わない限り私は笑うことがないから、水城先輩にとって奇襲となったようだ。けれど、こうすれば私は笑うのだと学習させない限り水城先輩は、いつまで経っても私を「川西」と他人行儀に名字で呼んでしまう。人畜無害なところが水城先輩の美点とはいえ、ここまで徹底的に私とある程度の距離を置こうとする水城先輩といるとさすがに、そんなに私に接近たくないのか、私のなにが悪いのか、などと不安にもなる。だから必要以上に顔を赤くした水城先輩を見て、「ああ、恥ずかしいだけなんだな」と臓腑に染みた。私は安心の想いと同時に、失礼と承知しながらも、年上の男性を捕まえておいて可愛いと感じた。これなら表情を柔らかくするというのも存外悪くはない。
水城先輩にエスコートをさせて、私たちは、初めてのデートの時に使った映画館へ行く。水城先輩は「そのぐらい出してやるから」と必死だけれど、男の人に出させるなんてそんなバブル女みたいな行動は、私には到底できない。けれどあまり強く否定しすぎても水城先輩の沽券を傷つけるだけだし、私は二人の意見の間を取って、割り勘にすることにした。高校生にとっての千円は小さいものとは言えない。しかし学生割引もあるし、なにより映画に誘ったのは私なのだ。ハードカバーの小説を買うお金で水城先輩と一緒にいられる時間を手に入れられるのだと思えば、ちょうどいい代価だ。いや、むしろ余りあるぐらい。
「これ、どんな、話なんだ?」
「自分がネタバレされる分には気にしませんけど、他人にネタバレを言うのは気が引けるので、見てのお楽しみということで。と言っても、原作と大きく掛け離れてたら私の前知識も無駄になるんですけどね」
小学生ながらに賞を取った小説が実写映画化されたとかで、今テレビCMや番宣で話題になっている映画を観賞しにきたのだった。さらっと読むだけでは、あまり深い内容ではなかった原作小説だ。クラスメイトとの話題作りという意味も込め、こうして、付き合って一年ちょいになる彼氏の、水城先輩を引きつれた。……というのは、水城先輩に宛てた建前。絶対に晒さない本音としては、水城先輩と一緒にいたいから。
席を確保した後、人を掻きわけながら売店に行ってみる。そこではこの映画のパンフレットやグッズが販売されていた。私は取りあえず水城先輩に見られないように、財布からお札を取り出して、バイトの店員に「パンフレットをください」と言った。もし見られたら、「買ってやるのに」となるのは明白。買ってしまったという既成事実さえ作ればこっちのもの。いつもいつも「金がない」と昼食代の五百円玉を握りしめながら嘆いているのに、私の好感度を上げるためなんかにお金を使わなくてくれていい。男に一方的にお金を払わせるような、そんな関係にはなりたくない。それにどうせ、行く着く所まで行ってしまえば、財布は同じなのだし。……などと妄想に耽りそうになる。乙女チックすぎるそんな妄想をした私を、私が戒めた。
ふと周りを見ると、水城先輩が見当たらない。しかし私は動じない。首を何度か、監視カメラがギーギーと左右に動くような、緩慢な動作で探す。発見。人ごみの中に、にょっきりと首が生えている。百四十センチとちょっとの私の視点だと、百九十センチ以上ある水城先輩は、まさに人間の形をした筍。容姿としては素朴で目立たない人間に属するのに、身長があるだけで、特徴がないことを好印象にしてしまう。
私は水城先輩を探し当てられても、逆に水城先輩が私を見つけたとは限らない。向こうとしては、トリュフを見つけるみたいな作業なのだ。背中をツンツンツンと指で突いて、やっと私が近くにいることに気付いてくれた。
「いたいた」
「私がチビだから埋もれてて見えなかったとでも言うんですか?」
「いや、そういう、わけじゃ……」
眉をしかめながらそう言ったら、水城先輩は見るからに狼狽し始めた。面白そうだからしばらくこのままにしておく。その間、ずっと私のご機嫌を取ろうと必死になって謝ってきた。必死すぎて支離滅裂だ。なにが言いたいのか分からない。あんまりやりすぎると、『可哀そう』から『可』が抜けて、最早『哀れ』になってしまうので、許すことにした。
「……まあ、さすがに分はこちらにありますからね。許しておきます。今度はちゃんと見つけてくださいね?」
「ああ。約束、する」
とかなんとか言いつつ、またこんな場面になったら水城先輩は私を見失うんだろうなあ。私と水城先輩の身長差が大きすぎるのが原因なのだけれど。
「行喜名は映画を見る時、何か、食べるか?」
なんで突然そんなことを言ったのだろうと、首を水城先輩よりもさらに上へ向ける。そこにはこういう売店には有り勝ちな、割高な食事たちのメニューの看板が軒を連ねていた。ああ、お腹が減ったんだ。だから私に遠まわしに聴いてるんだ。
「あまり音が出る食べ物は食べたくありませんね。映画の邪魔になりますし」
「うぅん……」
なんでそれで落ち込むのだろうと、水城先輩の視線を追ってみる。なんとか軸を合わせて、その焦点へ。……なるほど。そこにはポップコーンを作る機械が置かれていて、ざっくざっくとコーンを跳ねあげていた。その光景を悲しげに追う水城先輩は大きい図体のギャップのせいで、なんだか物をねだる子供みたいに強調されて見えた。食べたいのが丸わかり。本人としてはほんの少し、ちらっと見ているだけ、そんなつもりなのだろうけれど。
「……でも、なにかは食べたいですね。例えばポップコーンなんて、ちょうどいいんじゃないでしょうか。あまり胃に重くないですし」
むしろ映画館で食べる定番のメニューの中ではポップコーンが一番音が出る気がするけれど、こうでも言わないと、水城先輩は物惜しそうに指を咥えているだけに思えた。
「あ、うん、そうだよな」
なにも眼をキラキラさせなくても。私に許可されたのが、そんなに嬉しいのか。
「いいですけれど、うるさいですから上映が始まる前に食べ終えてくださいよ」
席に戻ると、上映までの残り短い時間を客たちは思い思いの方法で潰していく。水城先輩はポップコーンを実に美味しそうに食べている。一方の私はパンフレットを開いた。映画を見る時は、上映前に内容をパンフレットで確認しておくのがマイルール。私はネタバレを気にしない性格。推理小説でも推理をしないから、犯人を教えられても怒ることはしない。一度、書店の売り出しのポップで明らかなネタバレをされていたなんてことがあったけれど、それでも私は気にせずにその推理小説を買ったぐらいだ。
パンフレットのあらすじを見ながら海馬に眠っている記憶から映画の内容を引っ張り出す。
確か、中学からのツレな男二人が、一人のクラスメイトの女を同時に好きになる。どちらが先に付き合えるかを競うことになり、二人は女の気を惹こうと画策するが、その女は、なんとどちらにも恋愛感情を持っていた。最終的にはどちらとも付き合うことはなく、グダグダなままエンドを迎える……なんて流れだ。青春モノにしてはドロドロしているし、恋愛ものにしては葛藤をあまり描かない。お話としてはいい評判を得ているわけでもないし、私も展開自体を面白いとは思わない。もともとこの作品は、筆者の文章力で魅せているところが大きい。それによって賞をもらったほどだ。文章の全く存在しない『実写』という媒体で、それをどういう風に活かすのかがこの映画の見るポイントだろうか。
……しかし私は、そんなところを見に来たのではない。むしろ評判の悪い、内容を見に来たのだった。
『両方の男を好きになる』という部分に、私は強い感銘を受けた。
白状させてもらうと、彼氏がいる身でありながら、私には最悪な性癖がある。
私は、同時に二人の男を好きになる。
昔からそう。なんとなく「いいなあ」って片思いしていた男の子は必ず二人だったし、好きな芸能人も必ず二人。スポーツ選手だって絶対に二人を同時に好きになった。
さらに困ったことに、片方に一瞬でも覚めるともう片方も冷める。Aを嫌いになったらBも嫌いになり、Bを嫌いになった分またAも嫌いになり……合わせ鏡となって、延々と嫌いになり続ける。
それを承知しながら水城先輩は、私が恋愛感情を持たないことを大前提の条件として交際を始めた。水城先輩には、私が水城先輩ただ一人だけを一途に想えるようになるその時まで待ってもらっている。
恋人ではあっても、恋愛感情は持たない。
こんな女と付き合おうと考えるなんて、水城先輩は好きものだなと思う。だけどそれが水城先輩の魅力でも、あったりなかったり。深く悩んでいるようで、あんまり考えてない。けれどやっぱり人並みに悩んでいる、みたいな。
まあ条件を付けたおかげか、水城先輩以外の好きな男の人はまだ出てきていない。意図的に男の人とは会話すらしないようにしているし、唯一男と接触しなければならないサッカー部でも、私を恋愛対象として見ているのは水城先輩だけ。後の男共は、私を畏怖の対象としている。いいのだか悪いのだか。女王様気分を味わえるという意味では悪くないのだけれど。
一年近くも付き合っているからか、最近では私も水城先輩へ、恋心に近い感情を抱いたりもする。
うまくいけば、このまま『呪い』を解くことができるのではないか。
そんな気が、しなくもないのであった。
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