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渡時過行  作者: いせゆも
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九月十六日(月)・6

 ゴール・ボール・少年を線で結んだ時、逆『く』の字になるような位置から少年は走り出す。ボールの前に立ち足を踏み込み、蹴り足を振りかぶる。上体を捻り、より強いバネを用意しておく。ボールのインパクトの瞬間、足首に力をいれ、用意しておいたバネを効かせながら、蹴り足を自然に振り上げる。そうして蹴ったボールは私の足に吸引してきた。

「ほらね。まっすぐ飛んだでしょう?」

 本当に自分がやったのかまだ信じられないのか、少年は驚愕の目を私に向ける。

「……も、もう一回、やらせて」

 おお、元気が出てきた。積極的にボールを欲しがる。この年代の子供は、これぐらい元気でないと嘘だ。私は少年に返球する。

 何度も何度も、少年は私に向かってボールを蹴る。狙った通りの場所に蹴れることの楽しさ。それを、少年は今この瞬間、知った。知ってしまえばあとは早い。経験を吸収するだけだ。

 少年はみるみるうちにボールをいろんな場所へ蹴り分けることができるようになっていく。

 そうそう。ボールが自分の思い通りになること。これこそがフォワードの楽しみ。私のやっていることは、輝きに満ちた少年の手伝いをしてあげること。それだけでしかない。全ては少年が自発的に心情の変化を起こしただけ。

 少年の筋は別に悪くない。運動神経が悪ければ、高校生になるまでサッカーをずっと続けることなんて苦痛でしかないだろう。ようは、きっかけ教える人がいれば、勝手に学んでくれる。そういう人に出会えなかっただけだ、少年は。

 そうして少年が喜びに打ちひしがれている間、私は全く別の感動を得ていた。

 ボールの応酬。それは同時に、心の応酬でもある。私たちの間に、言葉なんていらない。

 アイコンタクト。次にどこへ向かって蹴るのか。どの高さ、どの強さで打つのか。全て眼を合わせて交信する。脚元へ蹴ればインサイドでカット。胸元へ蹴ればポンとトラップ。そうしていると、ふと兄、父、母のことを思い出す。身体の熱が高まることで、むしろ頭はどんどん冷たくなっていく。熱の入らない、純粋な気持ちで考えることができる。

 幸せな環境。当時は無条件にそう思っていた。私にはもう、そう感じることはできない。

 兄は死ぬ。母はすでに他の男性と浮気している。温かいあの団欒も、わずか数年足らずで、血みどろの光景となってしまう。

 しかし、最早そんなことなんて、私にはどうでもいいのかもしれない。気付かないうちに、吹っ切れていたのか。ああ、なんて気持ちがいいの。身体を動かすという、原始的な欲求。これを満たすことができれば、人は生きていける。そうか。サッカーを止めてしまったから、私はより一層、塞ぎこんだのか。こんな愉悦、知っていたというのに捨ててしまうなんて。私の心配なんて、実はコップ一杯程度でしかないのでなかった。海のように包み込んでくれる人が、私には沢山いる。いいじゃないか、それで。

 少年の蹴るボールは、十球に八、九球は確実にまっすぐに飛ぶようになった。

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