九月十六日(月)・5
店を出ると、クーラーに冷やされた私を苛む熱気が襲いかかってくる。もう真夏は過ぎた時期のはずだけれど、太陽はまだまだ現役で活躍している。あと七十億年は働かなくてはいけないのだから、私が生きる期間ぐらいは休んでくれても構わないのに。てくてくと三分ほど歩くと、大きな公園が見えてくる。子供たちがサッカーの試合をするには申し分ないほどだ。この公園は、サッカーの練習がない休日とかに使った記憶がある。広い場所だから、一人でドリブルの練習をするにはちょうどよかった。普段は学校を使い、休日はサッカーの練習がある日なら学校、なければこの公園。これが私の過去の生活サイクル。
公園というものは街の緑化にも必要。取り分け、都内だとゴミゴミしているから、余計にこういった場所が貴重となる。一歩踏み出せば「時こそ金なり」と車が切羽詰まって走っている道路と、のんびりと時間という何事にも代えることのできない品を消費している人々が対照的。私はなるべく人のいない場所を選んで、ベンチに座った。大きく、伸びをする。
「ふう」
伸びたあとは、クラスに一人はいるような暗い表情をした人間みたいに、首を項垂れた。私の足と足の間のアーチを、蟻が潜る。白い塊を口に咥えているから、今から巣に帰るところなのだろう。目を凝らして観察してみる。虫の観察なんて、小学生の頃でもしたことがない。兄は小学校六年間、虫の観察だけで自由研究を乗り切ったそうだ。そういえば昨日兄は、虫の声を聞いて私の居場所を探り当てたと言った。この蟻をじーっと見ていれば、少しは私も聞こえるだろうか。
忙しなく動く触覚。蟻はこの触覚で全てを把握しているのだろうか。その感覚とは、一体どんなものなのだろう。人間は六十パーセントの感覚を視覚で使っているという。聴覚も、嗅覚も、触覚も、味覚も、四つが全て合わさったとしても視覚には勝てない。
目を瞑れば、蟻の感じ方が分かるのだろうか。目をそっと閉じてみる。瞬間、辺り一面に広がる、夜。しかし夜は夜でも、昨夜とは違う。焦りのない心で、私は黙想する。
夜とは不思議なもので、昼間では何も感じないことも、夜だと琴線に触れてしまうことがある。よくある例をいえば、夜にラブレターを書いて、一晩ぐっすりと眠り、朝起きたら破り捨てたくなるといった、そういう感情。私がタイムスリップをしたのは夜で、騒動は全て夜だったから、昨日の時点では冷静な判断をしていたつもりでも、今考えればなんでそんな対応をしたのだろうと唸るものがあったりする。
その最もたるものは、兄が生きている事実を、すんなりと受け止めたことだ。兄の顔を見た時、私は「ああ、お兄ちゃんが生きている」と、それだけを思った。
私が過去に体験してきた諸々の事柄は、須らく嘘だった。母は浮気なんてしなくて、だから私と兄は実の兄妹で、家族が崩壊する理由なんてまるでなくて。頭をぶつけた一瞬、私は悪夢を見せられて。
……幻想だ。兄が死んだのは事実。棺に納められた、赤みを忘れてしまった兄の肌に触れ、氷のように冷たくてぞっとした。あの体温が夢だなんてことがあったら、それこそが夢だ。あれ以上の恐怖、私はホラー映画の中だって見たことがない。見たことがない恐怖を夢で作り出せるほど、私は感性豊かな子供ではなかった。何があろうが絶対負けない、勝気な女の子。そんなチビ私が、こんな陰気な女になるぐらいの恐れ。
頭が壊れそう。どんどん、兄が死んだ直後の、塞ぎこんだ私に戻る。
私はこの時代、変化を起こそうと行動するべきなのか?
いいや、行動してはいけないのだ。
兄も父も、この時点では、母が浮気をしていることを知らない。知ってしまえば、私の知っているよりも早く家族が崩壊するだけだ。しかも、兄は生きたまま。どれほど捻じれが起こるものなのか。
……と、考えたところで。
渡時月下が云うには、何をしたって未来は変わらないのだとか。ということは結局、私はこの時代、特筆するようなことは起こさないのだろう。「何もしない」という行動を決定した私から、未来が確定してしまう。
それはそれで、気が楽だ。なんの問題も解決する気はない。
私は目を開け、もう一度、大きく伸びをした。蟻はもう、いなかった。
この陰気を太陽で吹き飛ばさなければ。悩み事は、真っ青な空のキャンパスに、太陽という名の画鋲の赤が穿たれた状態でするに限る。心の汚れを、瞬時に拭きとってくれるから。これが私の考えた、悩み事発散法。いっそベンチに寝転がろうかと思ったけれど、それはやめにしておいた。ここでは人目がつきすぎる。
この公園は、この周辺ではなかなかの賑わいだ。ベンチを取りかこんでいる子供たちがゲームボーイを持って集まり、通信ケーブルを繋いでわいわいとはしゃいでいる。公園で皆仲良く身体を動かして遊ぶわけではないのが、平成という時代を象徴する。その中で印象が強かったのは、サッカーボールを一人で蹴っている少年。どこか面影のあるその顔。昨日に引き続き、お世辞にもうまいとは言えない実力。
「――うーん」
さて、運命は、私にどうしろと命じているのか。
『何か行動をしたとしても、それは必然。起こるべき出来事だ』
渡時月下のフレーズが、私の頭をよぎる。……そうだ。どうせ何をやっても未来が変わらないなら、あの子にちょっかいを出したところで、何も問題ない。私は脚を振り上げて、大げさに立ち上がった。スカートがまくれ上りそうになっても長さがカバー。
少年がボールを壁に向かって蹴る。私はコースを読んで、少年よりも先にボールを奪ってみた。
「…………」
ボールを盗まれた(客観的に見たら多分そうとしか見れない)少年は呆然と私を見つめる。
「君さ、ボールに対して斜めに蹴ってみなよ。そうすればもっとまっすぐに飛ぶと思うよ」
私はわざと高めに蹴りあげた。それを少年は脚で止めようとする。しかし高さを誤ったのか、後ろに逸らしてしまった。……うわ、そこからか。この高さのボールを足でトラップをしようとするとは。根本的な技術が身に付いていない。
「ボールを怖がらないで。私が蹴るボールの威力なんてそんなにないんだから。このぐらいできないと、上手くなれないぞ」
私は少年のそばに近寄った。……なんと! 目線が同じ高さではないか! 私の身長が百四十後半。小学生でこの身長を持ってスポーツをするのは、かなりの武器になるのでは。これなら未来の世界になれば、私が頭二個分の差をつけられるのも納得できる。
まあ、私の脳裏には、この人は大きくなければいけないという思いこみが刻まれているから、私と同じ身長でも相対的に、小さく感じる。大きいはずのものが小さいというのは、なんとも女心のどこかに隠されている、『可愛い』と感じる神経を刺激するものだ。清少納言だって小さいものは可愛いと言っているのだし。どんな時代でもどんな場所でも、それは女にとっては普遍的な感情なのかもしれない。
「トラップできないと攻めることも守ることも難しいけど……君ってどこのポジションなの? ディフェンダーとかだったら、ボールを怖がってる場合じゃないしさ」
未来の世界においてはディフェンダーについているけれど、この時代は違うかもしれない。取りあえず聴いてみる。しかし少年は私を不審がって、ちっとも口を聴いてくれない。
「あ、『知らない人に声を掛けられても、名前を言ってはいけません?』」
その昔、父から聴いた話にだと、昭和の日本は、知らない人にでも感謝の言葉を言わなければ、たとえ他人の子供だろうが容赦なく怒られたらしい。だが平成の日本にはそんな常識はない。私の産まれた時代はどこで区切ってもそうだ。変質者になにされるか分からない世の中。学校ではこんなフレーズを教師が口酸っぱく言っていた。真面目な少年のことだから、ちゃんと遂行しようとしていてもなんらおかしな点はない。
「うーん。じゃあさ、名前とか言わなくていいから。私も言わない。ちょっと変なお姉さんだと思ってくれてもかまわないからさ。君はもう少しフォームを変えれば上手くなるのになって思って、ちょっかい出しちゃった」
私がそう言った結果、少年はやっと肩の力を抜いてくれた。
「……フォワード」
「フォワードかあ。正確にシュートができればそれに越したことはないけど、もしかして君、あんまりゴールに入らないでしょ?」
あの様子では、まっすぐ飛ばすことすら難しいだろう。
「……うん。シュートが全然、入らなくて……」
「じゃ、お姉さんに向かって蹴ってみなよ。強いボールじゃなくていいから」
私は少年から二十メートルほど離れた所に移動して「いつでもいいよ」と合図する。少年はボールを置いて、ゴールから直線状になるように二歩ほど下がる。左、右と小刻みに足を前に前進させて、三歩目で左足を大きく振ってボールの左斜め前に置く。その振り子を利用して、右足を後ろに引き、貯めこんだ力を前に向けて解き放つ。バネを解放して放たれたボールは、私の居た位置から十メートルも横にずれた。ボテボテに転がるボールを私は足の裏で止めた。
うーん。もしもここに実際にゴールがあったのなら、よくてゴールポストに直撃といったところだろうか。
「まっすぐ飛ばないでしょ。原因は分かる?」
「分かんない……」
「それはね――」
私は少年に、その秘策を教える。




