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渡時過行  作者: いせゆも
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一九九六年九月十五日(日)・5

 今後の行動の指針が決まってきたところで……私たち家族は、わずか数時間の出来事にただただ疲労した。

「ああもう……お風呂入って寝たい」

 今日一日で、色々なことが起き過ぎた。一度肩まで深く湯船に浸かり、シャワーで身も心もさっぱりさせ、白くなった精神のまま、ベッドに潜りこみたい。それは女としての私の、直球な願いだったのだろうか。できればそうであってほしい。

「あら。お風呂に入ってなかったの?」

 母の呑気な声。自然と手に力が入る。同じくらいの力で兄が握り返した。……よし、兄のおかげで根性を得ることが出来た。

「こっちに来る前、次の日の仕事は早くからあるとかでお父さんに先に入られて、待っている間にタイムスリップしたから。まだ入ってない」

「それじゃあ入っていきなさい。女の子はどんな時だって、お風呂に入らなきゃ駄目なんだから」

 あまり母の言葉に肯定はしたくないけれど、その言葉を否定できるほど、私も女を捨てているわけでもなし。やはり、暑さは過ぎて行ったとは言え、まだまだ汗ばむこの季節、一日お風呂に入らないのはちょっと。さっき、プチ家出をやったせいで無駄な汗を掻いたこともあるし。

「そうだな。悩みがある時は、風呂に入って、寝るのが一番だ。行喜名もそれが分かるようになるなんてなあ。感動だ」

「そうか? 風呂入ったって、悩みは悩みだろ。解決はしない」

 ――意識なんてまるでしていなかったが、この辺の考え方は遺伝子が強く影響している。

「でも、……着替えがない」

 ちょっと考えてみれば分かることだけれど、私は一週間、この家に寝泊まりをしなければならない。そして自宅ではなく他人の家で数日過ごすには、いくつか必要なものがある。修学旅行だって、荷物の大半はそれに占められてしまうだろう。

 衣服。自分の今着ているこの一着だけで一週間を過ごせる気はしないし、したくもない。せめて何着かの服が欲しいところ。

「そっか。ユキは女だもんな」

「……どういう意味?」

「いや、なんとなく」

 あまり女を全面的に押し出している恰好はしていないとは言え、身体的特徴以外は女として見てくれてなかったのか。良いのやら悪いのやら。

「うぅん。行喜名の服とかどうしようか。買いに行くにしても、もう開いてる店なんてないしな。この家には生憎、年頃の女の子が着るような服はないし」

「あら? おとうさんは、わたしはもう女の子じゃないと?」

 父の余計なひと言に、母が動いた。

「い、いや、そうじゃなくてだな……」

 知りさえしなければ、長年連れ添っている夫婦のほのぼのとした会話。胸が苦しい。今こうして、必死に母のご機嫌を取っている父が、数年後には母の笑っている顔すら嫌悪するようになるなんて。

「別に使い古しのシャツとかでも構わないんだけど。家ではそうしてるし」

 私はパジャマを着ない。夏場はシャツとホットパンツだ。その方が動きやすいし、何よりも、楽。

「だったら、俺のパジャマを貸してやるよ。背丈は俺の方が上だけど、大きい分には平気だろ。大は小を兼ねる。ユキはよく分かってるよな」

「なんのこと?」

「なんの……って、サッカーだよ。フォワードをやってるんだから、大きい方がいいだろ。当たり負けするんだから」

「――――」

 兄は握っている私の手を胸の高さぐらいまで掲げ、じっくりと観察する。

「白い、女の子の手だなあ。あのお転婆なチビユキがこんなに綺麗な手をするなんて、成長って恐ろしいなあ。あんなに、サッカー好きなのになあ」

 そう言った兄の表情からは、何も読み取ることができない。

「行喜名はまだサッカーをしてるのか?」

「まあ……最近は、ちょっとだけ、ね。とある人に影響を受けたっていうか」

「あらら。外見に似合わず、元気なのねえ」

「もちろん、サッカー部には入ってないけど。女子サッカー部なんて、普通の高校だと普通はないし。それはある意味で普通じゃないというか」

 このぐらいのことなら話せる。訊かれても答えることはしないけど、自分から勝手に話す分には、別に心苦しくなんてならない。不思議なものだ。

「未来の世界でも、そこはそんなに変わらないのか」

 さっき兄が言ったようなことを、父は言った。

「たった六年で変わらないものだって。恐怖の大王だとか、二千年問題とか散々騒がれたけれど、結局何もなかったし」

「嘘!? 父さんずっと信じてたのに!」

「職業柄、二千年問題を信じてたのは無理もないだろうけど、恐怖の大王を信じるのはちょっと……」

 最先端技術に触れるような仕事をしているというのに、どうして父は、昔から幽霊とかが好きなのだろう。「宗教なき科学は不具であり、科学なき宗教は盲目である」という、アインシュタインの言ったことは本当なのだろうか。

「学生時代、一九九九年になるまでに金をいっぱい貯めて、その年にいっぱい豪遊するのが密かな夢だったのに……。終焉で可愛いあの子と一時の心のふれあいをする浪漫とか……」

 どれだけ落ち込んでいるのだろう父は。夢とは、浪漫とは、そういうものなのだろうか。多分、違う気もした。

 まあ、恐怖の大王が舞い降りることを信じて、自己破産してしまった人がいる。それは都市伝説でもなく、実際にいるらしきことをクラスメイトから聞いたことがあるから、父がそうならなくてよかったかなと。私が事実を語って、尚信じるほど現実を見ない人でもないし。

「そうか。ま、二千年問題は起きないんだな。よかったよかった」

 ほら。最終的には、一番必要な部分だけを取捨選択する。人間の本質は、性格が変わったぐらいで変革を起こすものではない。本質は。


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