一九九六年九月十五日(日)・4
「ということで、緊急家族会議を開始する」
父が仕切る。今回の主題は私。
父はなにかにつけて家族を仕切りたがるので、よくこうやって家族会議を開いたものだった。内容として、運動会のおかずや私のサッカーでの作戦など。今考えれば、なんだかんだ家族が成立していたのは、父がこうしてこまめに家族の談話の場を取り計らっていたからなのかもしれない、などと考える。だから、父が母への愛情を失った時点で、家族は根本的に破滅していたのだ。
懐かしく感じるダイニングに、四人の家族が集まる。不思議な気持ちだ。父が明るい顔をして、兄が生きていて、あまつさえ母がこの場にいる。酸いも甘いも、わずか一部屋に凝縮されている。
「父さんなあ……必死になって探したんだぞ……なのになあ……なんでそんな和気藹々!」
どうやら私がマンションを駆け出して行った時、家族総出で私を捜索したらしい。結果、一番最初に私の姿を見つけたのが兄で次が母。最終的に父は私を見つけることができなかった。結局、家に帰ってきてから父の携帯電話に電話した次第。この時代で携帯を持っているというのも、珍しくなように私は感じる。まあ、大人なら持っていても不思議ではない年代なのかな。仕事柄というのもあるし。まだ『パソコンは理系がするもの』な時代だ。
「……と、言われてもなあ」
私の隣にいる兄は、私の手を握っている。表向きな理由としては「また逃げ出さないように」とのことだけれど、実際問題としては、母を見て怒る私をコントロールしようとしているからだ。少しでも過敏に私が反応したら、手綱を握るようにぎゅっと私の手を握力で潰そうとしてくる。その細かな気遣いは中学生には似つかわしくない。けれど、兄だからの一言で納得してしまうような魔力が、兄にはある。
「探してる最中に変な親父に絡まれるし……変な本を押しつけられるし……」
ぐちぐちと呟く父が手にしている本は……
「――あ、それ」
え……? 渡時月下。何故ここに?
「お父さん見せて」
有無を言わさず、兄に握られていない方の手で渡時月下を取る。間違いない。あの本だ。色あせ具合も、日焼けも、何もかもが同じ。染みまで一緒の場所にあるからには、同じ種類で別の本、という可能性もなさそうだ。中身も同じなのだろうか。私は中を確認する。
「なんだその本。じゅうまんせんきゅうひゃくろくじゅうきゅう? なんだこの作家」
兄も興味津津に見てくる。
「私もよく分からない。けど……私がタイムスリップする直前に読んでいた本」
「マジで? それ超重要ジャン」
私の時代を生きる男みたいな喋り方をする兄がなんだか霧消におかしくて、ついつい笑ってしまった。
「……なんで笑うんだよユキ」
「なんか……ツボに入っちゃって……に、似合わな……」
兄のように、比較的真面目そうな容姿だと、こうも若者言葉は似合わないものなのか。
「心外だ。俺だって中学生なんだからさ」
「私なんか高校生」
「そりゃ、未来から来たんなら俺よりも年上でおかしくないだろ」
口を尖らせる兄に対して、私はやっと本当の意味で年上気分を味わえた。
むくれていた兄を見て、ようやく心のゆとりを持てた私は、あることに気がつけた。白紙だったはずページに、文字が書かれていたのだ。長い。本自体の見た目は洋書なのに、随分達筆な日本語。それが最初に受けた印象だ。
『案ずるな。一週間の後、一九九六年九月二十日と二十一日の狭間に君は、八年後の二〇〇四年九月十九日の十時に帰ることができる。何も考えなくてもいい。君は、ただそこにいればいい。何か行動をしたとしても、それは必然。もともと起こるべき出来事だ。
未来を変革するかもしれない、なんて無用な心配をすることはない。現に、過去に君は空白の時間を過ごしても全く世界が変わっていなかったことを知っているだろう? 今こうして君がこれを読むことで、思い出すことがあるはずだ。
したいことがあれば、好きにすればいい。トイチ=クロックの名にかけて、君に危害は加えない』
でかでかとした自信満々なこの字を読むだけで、これを書いた人の声が聞こえてきそう。
「どうして……?」
この日付は、私が元居た世界と同じ月・日だ。最初から記しておくなんて、それこそ魔法を使って、後から書き直したとしか考えられない。そもそもこんな非現実的な出来事を現実にしてしまうということは……。
ふと、私の脳裏に、記憶が蘇る。突然の鉄砲水に水かさを増され決壊するダムのように、無理やり記憶をこじ開けられた。そんな気さえするほどに。
ある小学生の日。暑さも気持ち和らぎ、外でサッカーをしても真夏よりはましになってきた頃。ちょうど、今ぐらいの季節だ。いつもと同じように目覚め、いつもと同じように学校へ行くと、どうも様子がおかしい。クラスメイトは盛んに「川西さん、四十度の熱が出て生死を彷徨ったって本当?」なんて心配をしてくる。教師からだって本気で安否を確認された。自慢だけど、私は風邪なんてものを一度も引いたことがなかった。おかしい。私は無病息災。なのにどうしてこうも違和感があるのだろう。
その正体は、日付だった。なんと、昨夜ベッドに潜る前に見たカレンダーよりも一週間ずれている。「嘘だあ、皆が私を騙してるんだあ」と疑っていた私に、ちょうど習字の時間に使う新聞(机が汚れないようにと下に敷くやつ。書道の授業があるたびに家から持ってくる)を、友達が見せてくれた。私は新聞は友達から借りていたため、いちいち新聞を持ってこなかったのも、確認が遅くなった原因の一つだ。日付欄を見ると間違いなく、昨日見たカレンダーよりも日付が進んでいた。眠って起きる。人間なら誰しもがする行為をしたら、一週間が過ぎていたのだ。混乱しないはずがない。とにかくその日は、ずっと頭にはてなを浮かべていた。浦島太郎は陸に上がってきた時、私と同じ気分を味わったの違いない。家に帰って母にこのことを話すと、「あなたは風邪を引いて、一週間寝込んでいたのよ。意識がなくなるほど大変なものだったわ。無事に治って、お母さんは安心よ」と言った。お恥かしながら、当時の私は人を疑うことを知らず、家族全員にそう説明されたからには、すっかり信じ込まされてしまったのだった。
こんな映像を、まるでビデオを映画のスクリーンで見せられているかのように、細部まで事細か、いやそれどころか、当時の私の気持ちまでも掘り起こされた。疑問でなくなったのだから、わざわざ記憶なんてしていなかったこの事件。それを今思い出した……いや、思い出させられたということは、記憶のそれと今回の件は全くの無関係ではない。それどころか、密接すぎる関係を持っている。
もしかすると、この渡時月下は、私にこの記憶を蘇らせた……?
それに、季節や『一週間の空白』というのが一致している。もし仮に、その空いた一週間、過去の私と未来の私が入れ替わっていたとした、と考えれば、つまり……この渡時月下は本物。それが妥当だ。私は確信する。それ以外の可能性を考えられない。それにどうせ、現実的でないことが実際に起きてしまっているのだ。大体、今さら「そんなことが起こるはずがない」と主張したところで、一体なんになる。建設的でない。
私が僅か数秒(本当に刹那の間)で悟ったことを、細かに説明した。兄もその説明には納得したような、していないような。母は最初から理解しようとはしていなく、どこかふわふわしている。
「要するにだ」
真剣に考察している父は、紙にいくつかの重要な事柄を箇条書きにした。
『・行喜名がタイムスリップをしたのは、どういう理屈かは分からないにせよ、この「渡時月下」という本のせい。
・行喜名は一週間の空白な時間がその昔あった。その時間に埋め合わせとして、未来の行喜名が来た(小さい行喜名がどこに行ったのかは不明だが、一週間後に何事もないかのようにしていることから、一週間もすれば自然と帰ってくるのかと思われる)。
・期限は一週間。その時間を過ごせば、行喜名は二〇〇四年九月十九日に帰れる。』
「こんなところか」
穴はないように思われる。この世界に存在する全ての人間が、この事象を論理的に説明できるはずがなく、私たちは、今判明している条件だけで行動するしかない。ならば、素直に従ってしまおうというのが、私たちの意思だ。
「こんなところだね」
私は父の書いた紙を読んで肯いた。
「待ってくれ。じゃあチビユキはどこへ行ったんだ? もしかして、ユキと入れ替わり?」
私たちは、小学五年生の私のことを便宜上、頭に『チビ』を付けて呼ぶようにした。当時の私が聞いたら烈火のごとく怒りそうだけれど(同級生に比べれば背は大きかったのに、大人という絶対に勝てない相手と比べられてチビと呼ばれるのが嫌いだった)、生憎『チビ私』はこの場にいないわけで。
「いや、それはない。一週間が気付いたら過ぎたって言ったでしょ。未来に行ったっていう記憶が残ってない」
「じゃあ、その間チビ行喜名はどこか空間の狭間にでも眠っていて、一週間経ったら戻ってくるのか」
父は渡時月下の一文を更に深く読み取ろうと、文章の重箱の隅を突く。
「それと……この後半部分。これは、タイムパラドックスは起きないってことか?」
「そうなんだろうなあ。出発点が同じなら、どんなルートを通っても同じ目的地に着く。ユキがした行動なんて本人を含めて誰も分からないわけだけど、じゃあ未来を変えようと、そう思って起こした行動が、そもそもそうなる運命だった。なんてことが、この文面からだと有り得るわけだ」
兄は自説を唱える。思い出したように、
「ドラえもん理論だな」
そう付け加えた。
「その例えはちょっと……」
子供ですら分かるような良い例だとは思うけど、身も蓋もない比喩でもある。こう、もうちょっと、SFから引用してくるとかしてほしい。折角兄は読書家でも通っているのだから。私も読書はするけれど、SFの素養はない。
「つまり……行喜名が父さんたちに未来の話をしたところで、未来は変わらない、と、そういうことだな?」
「面白そうねえ。八年後のお母さんは、一体どんな風になっているのかしら」
なんだか父は、興味深そうに私の表情を伺ってくる。母も若い女みたいに、わくわくと胸をはずませている。まあその欲求は人間として正しいと私は思った。未来なんて、神の領域にでも達しない限り、決して知覚することができない神聖なもの。戦後から続いた高度経済成長期の破裂を、一体だれが予想できただろうか。もちろん、一部の人間は「このままだといつかは不況に陥る」と警告していたであろう。しかし、それでも大半の人間は、この享楽が一生続くものだと盲目的に信じていたの違いない。もし現在の不況の様子を知ることができれば、バブルが弾けたことによる被害を被った人はいなくなっていたのかもしれないのだから。たった五秒先でも未来を想像するのは、とても難しいもの。そうあるべきはずなのに、五年は先の未来を知るチャンスが偶然にも目の前に転がっているのだから、無邪気に感興がそそられるのは仕方のないこと。
しかし。だがしかし。
「ごめんなさい。あまり未来の話はしたくないの」
なにも今この場で、「あなたたちは数年後、離婚します」と言うこともあるまい。渡時月下によれば、私がどんな行動をしようとも、それは結局運命が導いたもの。私がそれを言って聞かせたところで、両親が実際に離婚するのはその時になるだろう。未来は変えられない。だけど、理屈では説明できない何かというものは、確実にこの世に存在するものだと、私の心は語ってくれる。
「ふうん。まあ、ユキが嫌がるなら、しなくてもいいよ」
以心伝心。この時は信じざるをえなかった。暗く落ち込みそうになる私を、事情を全く説明していいないはずの兄が掬い上げたのだ。
「だってさ、未来が分かるなんてつまんないじゃん。未だ来ず、だから未来なんだしさ。少なくとも、俺は知りたくないね。親父もお袋も、訊かないようにしてくれよ。うっかりユキが話してるところを聞いちゃったら、後味悪いもん」
どうにもわざとらしく、兄は言った。