吾輩は猫であった気がする
はじめまして。遠吠負ヶ犬です。「まけいぬ」ではなく、「まがいぬ」と読みます。
猫の話です。
吾輩は猫であった気がする。名前は忘れた。
そもそも名前があったのかどうかさえ覚えていない。あったような気もするし、無かったような気もする。
兎にも角にも、吾輩は猫であった。
人間としてこの世に生を受けてから、ずっとそんな考えが頭の片隅にこびりついている。これは別に、まるっきり根拠のない妄想ではない。
母の言う所によれば、既に二足で歩ける時分でも、好んで四足で家中を這い回り、父と母に無駄な心配をかけていたそうだ。食に関してもかなり特殊で、チョコレートには決して手をつけず、十八になった今でも魚ばかり口にしている。
その昔に家出をした時には、空腹から野良猫と餌を取り合ったことまである始末。我が身のことながらとても人間とは思えない。
友人は一人もいない。人の名前を覚えるのが苦手なのだ。他人を思いやって会話をするのも億劫で仕方ない。唯一「友」と呼べるのは、かつての家出の際、しのぎを削り合い、後に家族となった元野良猫のケンシンだけである。
食事だけでなく身体能力についても、猫のようだと自負している。身体の柔軟性は一等高く、その昔小学校の二階から飛び降りても無傷であった。けれど水だけはどうにも苦手だ。どれだけ歳を重ねようと、身体が濡れるのだけはどうしても好かん。
◇◆◇
他にも吾輩が猫であった根拠は多々あるが、やはり一番は彼女であろう。
「彼女」とは、最近吾輩の家の近所に越してきた女性のことである。
当然、名前は知らぬ。名前どころか容姿と吾輩より年上だろうということ以外何も知らぬ。学生なのか、社会人なのかさえも。
そんな彼女と初めて関わりを持ったのはある夏のことだ。その夏は特段暑かったからよく覚えている。
舗装された道路を太陽が容赦なく熱し、見上げればそれ以外の色を失くしてしまったように青い空の中を、怪物のごとき雲が走り抜けていく。そんな日であった。
いつものように吾輩とケンシンは朝の散歩に興じていた。ケンシンは散歩が好きな猫であった。これほど暑いというのに「外へ連れ出せ」と吾輩に爪を立てて催促するものだから堪らない。
塀の上を悠々と駆けていく姿に、よくもまあ毎日飽きぬものだと半ば感心していた。丁度その時、偶然にも彼女に出くわした。
もちろん、吾輩は道ですれ違った知り合いに声をかけるような人間ではない。無視することも出来たし、出来ることなら無視したかった。しかし、正面から歩いてくるのが彼女だと認識した時には、既に無視することがあまりにも不自然となる距離だったのだ。
彼女はまっすぐこちらを見据えている。何処かからの帰りだろうか? いや吾輩には関係がない。
そんなことを考えているうちに、吾輩も彼女も互いに歩みを止め、気を利かせたのかケンシンも塀の上で寝ころび始めた。
「君は確か近所の……」
記憶の限りでは初めて聞く彼女の声。それは先ほど無視して通り過ぎなかったことを後悔させるには十分だった。認知こそされてはいるが、これなら気づかれずやり過ごせただろうに。
吾輩の失敗を嘲笑するかのようにケンシンが大きく欠伸をした。
「散歩してるんだ。昔からの日課でね」
こう言われた時に何と返すのが適切なのか、言葉の通じぬケンシンとしか会話してこなかった吾輩に分かるはずもない。
とりあえず、こちらも猫の散歩をしているのだと適当な答えを返しておいた。
「その子が君の猫? 名前はなんていうの?」
ケンシン。吾輩以外には心を開かぬ、侍のように誇り高き猫である。
「へえ、人懐っこくて可愛いね」
喉を鳴らし、彼女の伸ばした手に擦り寄るケンシン。誇りは何処へ行ってしまったのだ。
「私もね、飼ってたんだ。猫」
そうか、ならばまたの機会に会わせてくれ。そんな吾輩の社交辞令に彼女は――
「無理。だいぶ前に死んだから。私が君よりも、ずっとずっと小さかったときにね」
――というとんでもない爆弾で返してきた。感情を押し殺した声で。
やはり慣れぬことはするものではない。これ以上、地雷を踏みぬく前に退散しようと、吾輩はその場を離れようとした。
「待って。帰る前に連絡先を交換しよう」
これまた急だ。今の会話で吾輩の連絡先を知りたいと思うこともあるまい。いくら近所とはいえ、頻繁に会うこともないだろうに。
そんな疑問を読み取ったのか、彼女は笑う。
「会うよ。そんな気がする」
可笑しなことを言う奴だと思いながらも、彼女の提案は何故か断りづらかった。何かしらの強制力が働いているような、そんな違和感すら覚えるほどだ。
よって、親戚以外知らぬ吾輩の電話番号を教えた。
若者が連絡手段に使うような物が一つも携帯電話に入っていないことに驚かれたが、使いこなせぬ物を持っていても無駄だろう。
「じゃあ、またね」
彼女は別れ際にそう言った。彼女の予言通り、吾輩とケンシンはその後も彼女に出会うことになる。
◇◆◇
話をするにつれ、徐々に彼女の性格が分かっていった。
「なんで君はそんな変な話し方なの?」
「なんで君は人と話すのを面倒くさがるの?」
「そんな考え方をしているから友達が猫しかいないんだよ」
その全てが余計なお世話である。
しかし、どれだけ嫌味を言われようと、彼女の隣は何故か心地よかった。吾輩は異性に貶されることを快感に思う変態というわけでは断じてない。
吾輩を思いやることなく、自らが思ったことを口にする。そんな彼女の隣にいることで、吾輩も言いたいことを言えたからだ。
人の名前を覚えるのが苦手であること。
誰かを傷つけることに怯えながら、誰かと会話をしなければならないことが心底面倒くさいこと。
彼女と話すことで自分も知らぬ自分が顔をのぞかせてくる。
連絡も取っていないのに吾輩たちは遭遇し、共に語り合いながら帰路につく。
悪くない。
春の心地よい陽だまりに包まれているかのようだった。
だが、その夏は陽だまりを踏み潰すような嵐がよく吹き荒れた。必然、外に出ることも少なくなり、彼女と会うことも少なくなっていく。そんな状況に少しだけ物足りなさすら感じていた。
ある日のこと、予報が外れ大雨が降らなかった朝、吾輩とケンシンは久々の散歩に出掛けた。吾輩自身も気づいていなかったかもしれぬが、思い返せば彼女と話が出来ることを楽しみにしていたのかもしれない。
そして浮かれている時こそ、取り返しのつかぬ失態を犯すのだ。それは人間だろうと猫であろうと変わらない。
結論から言うと、彼女に出会うことはなかった。連絡も取っていないので当然だろう。少し残念に思っていた気がするが、我が家の玄関に手をかけた瞬間、そんな感情は吹き飛んだ。
ケンシンがいない。
辺りを見回す。何処にもいない。
背中から噴火するように冷えた汗が噴き出してくる。身体とは違い、熱い血液が巡っていく脳裏には、今朝見た天気予報が焼き付いている。外れていたはずの予報が再び顔を出すかのように、暗雲が空に立ち込めていた。
考えるより先に足が動いていた。
吾輩はなんと愚かな奴であろうか。人間の友人ができただけで浮かれて、彼女と出会えなかっただけで落ち込んで、一番の友人を何処かに置いていってしまうなんて。自分を百回刺しても償いきれない。
すまない。すまない。すまない。
謝罪の言葉が脳を揺らす。予報の時刻から遅れて雨が降り出し、風も吹き荒れてきた。謝罪の言葉は止まらない。
いくら探してもケンシンは何処にもいない。塀の上にも道の茂みにも何処にもいない。
一体何処ではぐれてしまったのだ。確か猫は帰巣本能が薄いという話を聞いた気がする。いや駄目だ。考えるな。
雨が強くなり、増水した川の轟音と共に嫌な想像が膨らんでいく。気づけば携帯を取り、彼女へ電話をかけていた。
何を話したのかあまり覚えていない。半分泣いていた気もする。いつ通話を終了したのか、彼女が何と言っていたのか、そもそも本当に彼女に助けを求めたのか。
走りながら様々なことを考え、足がいつもの散歩道から外れていく。
そして見つけた。
増水した川に架かる橋の欄干の上に、吹き飛ばされぬようしがみついているケンシンの姿を。
何故そのような所にいるのか、そんな些細なことはどうだっていい。
吾輩は叫んだ。だが、その叫び声ごと、突如吹いた一段と強い風が吹き飛ばしていく。
吾輩の友を。
瞬間、時の流れが遅くなる錯覚に陥った。落ちていくケンシンも、吾輩の走る速度も、思考も、全てが緩やかに。
だが、どれだけ時間が引き延ばされようと、結果は必ずやって来る。
死という避けられぬ結果は。
「どいて!」
欄干に足をかけた吾輩の横を、彼女が抜き去って飛ぶ。獣のようにうなる川の中へ。
何が起きた。助けなければ。しかし吾輩は泳げぬ。いや、泳げたとしてもこれほどの激流、飛び込めばきっと生きては帰れない。
吾輩が濁流へと飛び込む刹那、頭の中でそんな言葉が聞こえたが、吾輩の背中をそれより強い何かが押した。
遠ざかっていく彼女の姿が、とても恐ろしい。
その恐怖が濁流への恐怖を上回った。
後は無我夢中だ。荒れ狂う水の中でただひたすらに暴れまわった。彼女に触れた気もするが、次の瞬間には吾輩の意識は完全に暗闇へと流されていった。
だが、暗闇はすぐに明るくなり、聞いた覚えのある声で目が覚めた。
どうやら運良く岸へ流れつけたらしい。目の前にはケンシンを抱いた彼女が不安そうにこちらを見ている。その姿からはやはり懐かしさが感じられた。不思議な感覚だ。
「前に話した私の猫、今日みたいな日に川で溺れて死んだの。夢中で助けに飛び込んだけど、結局助かったのは私だけだった」
強烈な話だというのに、相変わらず感情を押さえつけるように言葉を紡ぐ。けれど、この時確かに彼女の寂しさと暖かさを感じた。
「君を、君たちを見たらなんだか他人事だとは思えなくて、だから身体が勝手に動いたの。君もそうでしょ? ありがとう。助けに来てくれて」
なんとなく腑に落ちた気がする。他人に言ったら馬鹿にされるような、吾輩が彼女に感じていたこの感情の正体を。
吾輩が猫であった確かな根拠を。
「え? 飼ってた猫の名前? なんでそんなこと……まぁ、いいけど」
吾輩は猫であった気がする。名前は忘れた。
そもそも名前があったのかどうかさえ覚えていない。あったような気もするし、無かったような気もする。
けれど、もしあるなら――。
読了、ありがとうございました。
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