渇望の名
あの夜、天井が落ちた。
燃え上がる梁が崩れ、
太い石柱が床ごと砕け、
弟の右脚を根元から押し潰した。
骨の音がした。
弟は歯を食いしばり、
声を殺した。
「兄さん、先に行って!」
炎が背中を舐めていた。
彼は柱に手をかけ、
指の皮が剥けるほど力を込めた。
動かなかった。
「俺は、無理だから!」
弟の目は、もう答えを知っていた。
「戻るな!生きて!」
彼は、走った。
それが、人生で最も重い一歩だった。
その夜、彼は死にかけた。
煙で肺は焼け、
喉は、声も後悔も出せないほど乾いていた。
瓦礫の影から現れた女は、
火の粉の中でも冷たかった。
「生きたい?」
本能が首を縦に落とした……
女は笑いながら自分の手首を噛み切った。
血が溢れ、
それを彼の口元に押し当てた。
彼は、噛みついた。
血は命だった。
同時に、戻れない境界線だった……
最初の数十年、
彼は逃げてばかりいた。
血の匂いを隠し、
夜だけを歩き、
名を変え続けた。
ある町で、女を愛した。
市場で果物を売る、
指先の温かい人間だった。
血を断った期間が、長かった。
喉の乾きは、眠っても消えず、
夜ごと、無意識に人の首筋を追っていた。
彼女が老い、
彼だけが変わらないことにも、
もう理由を探さなくなっていた。
ある夜、
彼女はふいに目を逸らし、言った。
「……怖いの、あなたの目」
鏡を見る必要はなかった。
自分が今、
“生きるために人を見る目”を
していることは、
彼自身が一番よく分かっていた。
だから、何も言わずに去った。
それが、最初の別れだった。
次の時代、
彼は捕らえられた。
鉄の鎖。
銀の杭。
祈りの言葉。
拷問は、痛みよりも退屈だった。
夜ごと、喉が乾き、
血を与えられないまま、
彼は眠りに落とされた。
目覚めたとき、
町は地図から消えていた。
彼は、眠ることを覚えた。
十年。
二十年。
時には五十年。
目覚めるたび、
服は変わり、
言葉が変わり、
建物が高くなっていた。
馬が消え、
汽車が走り、
空を裂く音が当たり前になった。
弟の名だけが、
何も変わらなかった。
血を飲むたび、
彼は条件をつけるようになった。
生きたいと、
はっきり思っている者だけ。
それは慈悲ではない。
自分が生き延びるための、
言い訳だった。
そして、最後の夜。
朝日が昇るぎりぎりまで、
なぜか人に出会えなかった。
視線は、無意識に
首筋の高さばかりをなぞっていた。
路地裏で、青年を見つけた。
右脚をかばう歩き方。
それだけで、理解してしまった。
青年が呟いた。
「……兄さん?」
青年には兄などいないのに、
なぜかそうわかった。
その瞬間、
喉の乾きが、ふっと止まった。
ああ、そうか。
ここで終わるんだ。
噛めば、生きられる。
噛まなければ、朝が来る。
彼はもう、迷わなかった。
選択ではなかった。
結末だった。
弟が生きているなら、
自分が生きる理由は、もうどこにもない。
「行け」
声は、驚くほど穏やかだった。
朝日が差し込む。
身体が軽くなっていく。
――生まれ変われた。良かったな。
――今度は、ちゃんと順番を守れる。
灰になる直前、
彼は笑った。
長すぎた夜が、
ようやく明けるのだから。




