8 聖痕(キズ)だらけの聖女とファムファタル
宵の帳に月が懸かった。
兵全員の治療を終えたエリュシアは砦の胸壁にあがって、風に吹かれていた。銃眼には大砲がならび、火薬の燃えた臭いが残っている。
「やあ、聖女サマ、眠れないのかい」
革靴の底をかつんと奏で、胸壁に舞いおりてきた男がいた。キリエだ。あいかわらず、華やかな風姿だ。竜の翼は紛い物ではないのか。
「ちょっとだけ」
にこりと微笑をかえす。
僅かな綻びもなかったはず。だが、キリエは疑うように眼を細め、彼女の腕をつかんでひき寄せた。また接吻でもされるのかと身構えたが、彼は聖服の襟に結ばれた紐に指をかける。
「っなにを」
抵抗する暇もなかった。
蝶結びにされた紐はかんたんに解けた。
「隠していたのはこれかい?」
服をはだけさせられ、剥きだしになった彼女の胸もとには異様な傷痕が絡みついていた。胸にとどまらず、肩から腕、わき腹にかけても赤紫の痕が延びている。
隠し続けることはできない。観念して、エリュシアは唇を割った。
「聖痕といいます」
「聖なる痕、ね? 笑えない冗談だな。どちらかというと呪いの痕だろう?」
否定できずに苦笑する。
「聖女は女神の祝福によって傷を癒すことができます。ですが、正確には聖女が他人の傷を聖痕としてひき受けているだけで、傷がなくなっているわけではないのです」
奇蹟というには未熟だ。神の御力を人が借りているのだから劣化は避けられない。
細い男の指が、確かめるように傷をなぞる。
弾けた痛みに想わず、身が縮んだ。
「あァ、なんだ。痕だけじゃなく、痛みまでキミが預かっているのか」
骨折を癒せば、骨が折れる痛みを。腹を斬られたものを助ければ、臓物まで裂ける痛みを。脚を斬り落とされたものならば――奇蹟を振りまくほどにエリュシアが衰弱していったのは兵たちの苦痛をひき受けたためだ。
「つまり」
胸にとんと、指を落とされた。
「兵百人分の致命傷と残り百人分の傷が、キミのなかにあるわけだ」
ほんとうは眠りたくとも眠れなかった。施術した時からくらべれば苦痛は薄れてきているが、腕はうずき、脚がちぎれるように軋み、背は焼けている。腹のなかにあるものはことごとく嘔吐いてしまった。
「それでも、私よりつらいひとはたくさんおられます。それに私が傷をひき受けなければ、彼らは命を落としていました。だから、だいじょうぶです」
紐を結びなおしつつ、エリュシアは暗示のように繰りかえしてきた言葉を唇に乗せる。
「聖痕は数日経てばなくなりますし、聖痕によって死ぬことはありませんから」
「死ななければいいのかい?」
「はい」
「へえ、暗殺者の業界では死なせてもらえないほうが酷いと考えるけれどねェ」
言外にそれは拷問だと指摘されたが、エリュシアは敢えて答えなかった。
キリエは砦の胸壁のふちに舞いあがる。「おいで」と腕を差しだされて、エリュシアはためらいがちにその手を取る。
「キミのまわりにいるやつらは聖痕のことを知っているのか?」
「教会の一部のものは知っています。兵は知りません」
壁に腰かけて、エリュシアは夜の風に髪をなびかせる。そんな髪をするりと梳いて、キリエは再度尋ねてきた。
「キミの髪をつかんで、糾弾していた聖騎士サマは?」
「知っておられますよ」
「だが、理解していない」
エリュシアは苦笑するように睫毛を傾ける。
「しかたのないことです。聖女の奇蹟がいかなるものかは、現実に聖女となったものにしか理解できません」
原則として聖女に選ばれるのはひとりだけだが、教会には聖女候補の娘がたくさんいる。聖都の教会にかぎらず神聖アルカディア各地にある教会支部にも候補者がおり、教会につかえながら修行を続けている。
聖女がどれほど苛酷な役割か、理解されていないからこそ、女神に選ばれて聖女になりたいと修行するのだ。
顔紗は表情を隠すため、肌を覗かせない聖服は聖痕を知られないようにするためのものだった。
「だが、意外だったよ。誰からも愛される聖女サマがほんとうは祭壇に捧げられる犠牲のひつじだったなんてね」
酷い譬えだ。だが事実だった。
「身替わりになってくれるからこそ、聖女は誰もから愛されるんですよ」
彼女がこんなにあっさりと認めるとは想わなかったのか、キリエが「はっ」と喉に嗤いを絡げた。
「いいねェ、キミは哀れっぽくうつむかないのか」
「私は哀れではありませんから」
胸を張って、微笑みかけた。
聖女として選ばれたことは彼女にとって誇りだ。
親に捨てられ、教会で育ってきた身だから、恩をかえせることが嬉しい。なにより死に瀕していたひとたちが一命を取りとめ、安堵の笑みを湛えるあの一瞬、彼女は満ちたりたきもちになる。
「でもこれで、なんでキミを刺した俺のほうが死んだのか、理解できたよ」
「どういうことですか」
「他人の傷を癒すと聖女に傷が移動する。この逆転だよ。聖女が自身の傷を癒そうとすると、側にいる相手に傷が移るんだ」
聖女は聖痕によって死ぬことはないが、女神の祝福を享けていないものはそのかぎりではない。
だからキリエは死んだのだ。
「あとひとつ、これは純粋な疑問なんだが、かけがえのない聖女サマにどうして護衛がひとりもつかない?」
都をでれば、盗賊もいる。聖火があれば魔物と遭遇する危険は減るが、それでもぜったいではなかった。
「刺客に狙われていることを教会に報告できないのは、教会に依頼者がいる危険が高いから、というだけじゃないな?」
「それは」
一瞬だけ、エリュシアは視線を彷徨わせた。
「聖女は女神より愛されしものです。女神の懐たるこの神聖アルカディアにおいて、いかなることがあろうと聖女が命を落とすはずがないと考えられています。敵との争いではそのかぎりではないので、最前線では皆様に衛っていただいていましたが」
「ずいぶんと有難い女神の庇護だねェ」
「裏がえせば、女神に庇護されず命を落とすような聖女は聖女ではありません」
キリエは人非ざる真紅の眼を細めた。
「さながら、神判だな。そのむかし、異端審問の時にあっただろう? 檻に捕らえて水に沈めて溺れなかったら無罪とか、致死毒を飲ませて死ななかったら神がついてるとか。馬鹿馬鹿しい」
せせら嗤いながら、彼は声を落とす。
「神サマはいないよ。死んでみて、理解した。あっちには神サマの振りをするものがいるだけだ」
それは明らかな冒涜で、教会につかえるものとしては即座に糾弾するべき発言だったが、エリュシアは苦笑するだけだった。
「そうでしょうね」
「ふゥん、キミは神を信じていないのか?」
ほんとうに意外だったのか、彼は眉の根を寄せた。
「祝福をお借りしているかぎり、神のようなものはおられるのだとおもいます。ですが、それが神なのか、もっと違ったものなのか、私には判断できません」
逢ったこともない。喋ったこともない。ただ、祝福を授けてくれるだけのものを、なにをもって神とするのか。
「無辜なるものを等しく救う慈愛に満ちた神というものがほんとうにおられるのであれば、こんなふうに戦争が続くこともなく魔物がひとを喰らうこともないはずですから」
寒々しい風が吹き渡る。
花の香を漂わせない春の遠い風。春など永遠に循環らないのではないかとおもうほどにとがっていて、噎せるほどに死の臭いがする。
キリエはしばらく風にさらされるエリュシアを眺めてから、ぽつりとつぶやいた。
「……あァ、気が変わった」
「え、なにがですか」
「こっちの話だよ」
キリエは腰をあげ、軽やかに壁のふちを進みながら振りかえる。
「ファムファタルって知っているか?」
脈絡もなく尋ねられ、首を傾げた。
「"運命の娘"ですか?」
「違う、"致命傷を与える破滅の娘"さ。キミはさながら、それだな」
言い得て妙で、エリュシアは反論できなかった。
「俺の命を奪ったのがキミでよかったよ、エリュシア」
微笑みかけられて、鼓動がひとつ、弾ける。
「それじゃア、いい夢を」
彼は翼を拡げ、胸壁から飛びおりていく。
残されたエリュシアは高鳴る胸を押さえた。なぜ、こんなに動揺しているのだろうか。
(ああ、そうか)
緩やかに理解する。
(聖女様とは呼ばれていても、ただのエリュシアとは誰も呼ばないから)
たった、それだけのことが。
どうしてか、たまらなく胸を締めつけた。




