19 絶望と略奪の始まり
曇りぞらでも、朝はくる。
盗賊たちはそろって聖女に頭をさげ、これからは盗賊を辞めて働くと誓ってくれた。
「この奇蹟は天命の女神ロクスからお借りしたものです。感謝ならば、女神に」
「それは違うな」
大男が頭を振る。
「俺が獄死病だと知ると誰もが石を投げ、遠ざけた。恋人までもがだ。だが、あんたは骨が剝きだしになった俺の脚に触って、祈ってくれた」
「高貴な身分だってのに、俺たちみたいなものをきたないものとして扱わなかった。俺たちを救ったのはあんただよ」
盗賊たちは口をあわせた。
「恩はいつか、かえす」
首領はそういって、聖都の側まで帰してくれた。
…………
聖女エリュシアがふらつきながら帰還しても、教会の衛兵たちは特に表情も変えず通した。なにがあったのか、連絡されていないのか。あるいは聖女の帰還を疑うことは女神をも疑うことになるからか。
アルテミス司祭に報告にむかおうと通りがかった中庭から、喋り声が聴こえてきた。
「どうか、騎士隊を動かしてください! お姉さまを助けないと」
「それはできない」
涙ながらにすがりつくハルモニアを、ミュトス皇子が諭す。
「聖女には女神の加護がついている。かならず、聖女を護ってくれるはずだよ」
「で、でも」
まるい緑の瞳からひとつ、またひとつと真珠のような涙をこぼすさまは、抱き締めてやりたくなるような幼けなさがある。ミュトス皇子はハルモニアを抱き寄せ、なだめるように髪をなでた。
「聖女は殺されてなんかいないよ。私には解るんだ。それにたとえ、彼女が命を落としたとしても」
言いかけて、彼は頭を振る。
「いや、なんでもない」
廻廊の壁に隠れて聴いていたエリュシアは身を強張らせた。彼女が命を落としたとしても――ミュトス皇子がどう続けようとしたのか、彼女には理解る。
エリュシアが帰ってきているとも知らず、ふたりは喋り続ける。
「わ、わたし、ほんとうはとても悪い娘なんです。ミュトス皇子に愛されているお姉さまがうらやましくて……ああ、そんなことを考えていたらこんなことになったんだわ」
「ハルモニア……」
ミュトス皇子は彼女の好意を察していたのか、微かに眉を寄せただけで、さして戸惑わなかった。それをみて、ハルモニアは想いが抑えきれなくなったのか、皇子に抱きついて懸命に訴える。
「好き、好きです、ごめんなさい」
あやまるのはミュトス皇子に分不相応な想いを抱いているからなのか、それとも婚約者であるエリュシアを裏切ることになるからなのか。
「あやまることはないよ」
ミュトス皇子は拒絶しなかった。
「私と彼女の婚約は政略結婚だからね」
「で、でもミュトス皇子はお姉さまを愛しておられるのでは」
「彼女は確かに完璧な聖女だよ。ともに戦地をかけまわったこともあるが、万能で、絶えず冷静で。けれどね」
ミュトス皇子の表情がざわりと曇る。
「彼女の微笑は張りつめすぎているんだよ。側にいて、心がやすまらない。兵のちぎれた腕や脚を抱えて微笑むような娘を愛せるかといわれると――いっそ、聖女がほかの娘だったら」
言葉が、途絶える。
ハルモニアがつまさきだって、ミュトス皇子の唇を奪ったからだ。
たえきれず、エリュシアはその場から逃げだす。
民のための婚約だ。ミュトス皇子から愛されるだなんて想ったことはない。娘として、彼のことを愛してもいなかった。それでも《《ほかの聖女》》を望まれるほどにきらわれていたなんて。
逃げて、逃げて、廊下の角で修道女たちにいきあった。
ぶつかりそうになって慌ててとまる。修道女たちは顔を輝かせて「聖女様」と声を弾ませた。
「聖女様でしたら、かならずお帰りになられるとおもっていました」
「女神ロクスに愛された御方ですもの」
愛された聖女様。その言葉に訳もなく恐怖を感じ、身が竦む。瞳を酷くひきつらせ、エリュシアは踵をかえす。
「聖女様!?」
後ろから修道女たちの声が追い掛けてきたが、エリュシアは振りかえれなかった。裏にある墓地まできたところで敷石に躓いて、負傷していた足が絡まる。倒れこむように地にたたきつけられた。
曇天が崩れて、雨が降りだす。
横殴りの雫に敲かれ、涙が滲んだ。
誰が聖女の死を望んでいるのか。
首謀者を捜しながら、誰も疑いたくないと想い続けてきた。だが、いまとなっては誰もが疑わしい。
絶望する彼女に腕を差し延べてきた男がいた。
「――――キリエ」
………… Kyrie part …………
「エリュシア」
彼女は奇妙な娘だ。強いと想えば脆く、愚かなくせに敏い。理想を疑い、絶望を理解していながら、みずからの身をけずって他者の命を救い、慈愛を振りまき続けている。
それでいて彼女は飢えている。
愛に飢えているのだ。
誰からも愛されているということは誰からも愛されていないのと変わりなかった。
誰も彼もが《《聖女》》という輝かしい旗ばかりをみて、その旗を掲げているエリュシアが傷ついたひとりの娘であることを考えもしない。
孤独で哀れな偶像だ。
「……私は」
雫に敲かれた髪のあいまから黄金の眼が覗く。涙はなく、かわりに微かだが、その眼の底に死の陰がよぎった。
「死にたくなったか?」
エリュシアは頭を振る。
だが、否定の言葉はいつまで経っても、その唇を震わすことはなかった。
あとちょっとだ。
まもなく、彼女はこちら側に落ちてくる。
(どんなものにも関心を持てなかったこの俺に、どんな手段をつかってでも欲しいとおもわせるなんて……ほんとうにキミは俺にとって最高に甘美な破滅の娘だよ)
震える娘のからだを抱き寄せながら顔紗をずらして、かみ締めすぎて青くなった唇に接吻を落とす。僅かに身を退いたが、拒絶することはできなかったのか、細やかな抵抗は次第に緩んだ。
ふと視線を感じて眼をやれば、ミュトス皇子がこちらをみて、ぼうぜんとしていた。
彼女を愛さないくせに彼女から愛されていないと不服なのか。
(彼女は俺がもらうよ)
キリエはミュトス皇子を睨みながら、わざと舌を絡める。溺れそうな接吻にエリュシアが微かに背を震わせた。
(キミたちには彼女を捨ててもらう)
彼女が後ろを振りむかず、彼の手のなかに落ちてこられるよう。
そのあとは――――




