18 悪魔は聖女を哀れむ
「奇蹟だ」
首領がつぶやいた。
紋様で織りなされた光の帯が彼の壊死した腕を抱擁し、解けた時には傷ひとつない人の腕によみがえっていた。死者が息を吹きかえすような奇蹟に誰もが絶句する。
首領は強張って動かなかった左腕を伸ばしたりまげたりして、確かめる。
「腕だ、僕の腕――ああ」
彼は幼さを残す頬をゆがめ、感極まったように息を洩らす。
遠巻きに眺めていたほかの男たちが弾けるように歓喜の声をあげた。
「信じられねぇ」
「女神様はまだ、俺たちを救ってくださるんだ」
「やった……助かる、助かるんだ」
男たちがエリュシアを振りかえる。エリュシアは左腕を抱えて身を縮めていたが、すぐに微笑をかえした。
「全員助けてくれるんだよな?」
「もちろんです。女神の御光は総ての民に等しく降りそそぐものです。ひとり残らず、助けます」
我さきにと身を乗りだす男たちを、首領が叱咤する。
「おまえら、落ちつけ。先に女とガキだ。続けて弱ってる爺と婆を優先しろ。おまえは最後だ」
「すっ、すみません」
「まず、死にかけてるガキがいるだろ、連れてこい」
彼は冷静だ。
自身を先に施術させたのも危険があってはいけないからだろう。屈強な男たちがまだ幼い彼を首領と仰いで敬っているわけがわかる。
エリュシアは身をすり減らして盗賊たちの獄死病を癒していった。骨にまで聖痕が絡みついているのがわかる。神経が軋む。膚が焼ける。それでも唇をかみ締め、祝福を施す。
頬に聖痕が浮きでた時は顔紗をしていてよかったと心から安堵した。
朝になって、ついに完遂する。
「これが聖女か」
首領が感嘆の息をこぼす。
「神様なんか、いないとおもっていたのに」
「神様はいますよ。あなたが祈るかぎり。これで、他人から奪い続けるわけはなくなりましたか?」
エリュシアの問いかけに首領は虚をつかれたように眼を見張り、続けて笑いだした。
「そうか、そうだな。確かに畑も耕せる」
ほかのものたちを振りかえる。「おまえたちはどうする」と尋ねるような眼に男も女も頷きあい、口々に喋りだした。
「もう、化け物扱いされることもないんだ」
「故郷に帰れるのか」
「こんないつ、魔物に喰われるかもわからねぇ森からおさらばできるんだ」
彼らだって好き好んで、略奪なんてしているわけではないのだ。他に生き残るすべがなかったから。死にたくないから。悪事に手を染めていた。
エリュシアは安堵の息をついた。
「……お願いがあります。逃げませんので、ちょっとだけ風にあたらせてください」
「俺が見張りをしますよ、首領」
後ろにいた男が声をあげた。
聴いたことのある声だと感じたが、なぜか声が耳に残らず想いだせない。意識がぼんやりとしているせいだろうか。首領も一瞬だけ、怪訝そうに首を傾げたが「わかった」とその男を監視につかせた。
洞窟からでたエリュシアは草の陰に身をかがめ、顔紗を外して咳きこむ。
血潮が喉からせりあがり、ぼたぼたとあふれだした。尋常ならざる量の血を喀き続ける。聖痕が臓にまで達すると血潮を喀することがあった。
「死なないとはいえ、酷いねェ」
後ろから男がため息まじりに嗤った。
「俺を喚べば、すぐに助けてやったのに」
振りかえれば、キリエがいた。いつから盗賊に紛れていたのか。
「キミは慈愛を振りまいているつもりだろうが、現実ってのはそうかんたんじゃアない」
男の指がするりと、エリュシアの唇を濡らす血潮を拭っていった。指を舐めて、彼は口の端をいびつに持ちあげた。
「助けてもらった御恩はわすれません、これからは心を入れ替えてまっとうに働きます――なんて子ども騙しの童話みたいにいくかな? 森に身を隠して窃盗をしていれば、魔物に襲われる危険はあっても地道に畑を耕すより稼げるからなァ」
紅の舌を覗かせ、キリエは彼女の偽善を暴きたてる。
「キミが彼らを助けたせいで、今後さらに罪のない旅人が略奪されるかもしれないな?」
挑発というより、彼女を絶望させるために垂らされた毒。だが、エリュシアは惑わなかった。
草陰から身を起こす。
「その程度のことを、私が一度たりとも想像したことがないとおもっていましたか?」
エリュシアの黄金の眼が、虚ろにゆがむ。
「兵たちに祝福を振りまくたびに考えるんですよ。傷が癒えれは、彼らはまた敵兵を殺しにいく。神聖アルカディアの領地を侵す異教徒たち――ですが、敵兵にだって愛する家族がいて、帰るべき故郷がある」
絶えず、呵責がある。
「そこまで理解っていて、キミは人の命を救うのか」
見捨てれば死なせ、助ければいつか、誰かの命を奪うことになる。
運命は八方ふさがりだ。
他人の幸福が廻り廻って、誰かの不幸になる。エリュシアの父親と母親が娘を捨てて、それぞれの幸福をつかんだように。
奇蹟とはその繰りかえしだ。
「なァ、死にたくはならないのか?」
賭けではなく、彼女をいたわるような、巧詐のない声に聴こえた。
「それは拷問だろう? 身をぼろぼろにけずって、さらにはこころまでもぐちゃぐちゃに挽きつぶす。投げだしたくはならないのか?」
「なりませんよ」
だから、まっすぐに答える。
「こんな私を必要としてくれるひとがいるかぎり」
「キミは」
キリエは言葉を捜して、やがてため息と一緒にこぼした。
「哀れだな」
するりと髪をすくいあげられる。頬に残された聖痕をなでるその指は、異様なほどにやさしく、払い除けることはできなかった。
「偽善だと理解って救い続け、なおも割りきれずに傷ついて、敏くて強くて――そんなキミを哀れんでやれるのなんて俺くらいのものだろう?」
まったくもって、そのとおりだ。
誰もが聖女という偶像でしか、彼女をみていないからだ。ひとりの娘を映すのはこの真紅の鏡だけ。
彼の背後にあがる満月は雲にかすんで、酷く遠かった。




