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11 そして彼女は聖女となった

 女神の祝福を享けたのはエリュシアが十歳になった時だ。

 嵐になるまえの、異様に静かな夏の晩だった。


 教会の一郭には女神ロクスの神殿がある。教皇継承の式典を含め、重大な式典を執りおこなう時にだけ解放される聖域だ。アルテミス司祭に連れられ、神殿のなかに通されたエリュシアはただならぬことだと察して、緊張していた。


 月のない晩だというのに、神殿は光に満ちていた。石造りの壁からは滝が流れ落ち、青々とした植物が繁っている。さながら理想郷の箱庭ひながただ。


「待っていたぞ」


 エリュシアを待っていたのは教皇だ。教皇は白髪まじりの髭を蓄え、慈愛に溢れた眼差しで彼女を迎えた。

 神殿の祭壇に導かれ、白曜石の鏡に触れるようにとうながされる。

 鏡に指の先端を落としたのがさきか。玲瓏れいろうたる光が弾け、紋様をなして、エリュシアを抱擁する。

 同時に神妙なるちからが流れこんできた。

 黒かったエリュシアの髪が、白銀と金の混ざった女神の御光のいろになる。髪だけではなかった。瞳もまた、母親ゆずりの紫から月のような黄金へと変わる。女神ロクスとそろいの髪、揃いの瞳だ。


「神託どおり、女神ロクスの祝福があった。新たな聖女はエリュシア゠キュア・ロクスである」


 現実感のない夢心地でエリュシアは教皇の啓示を聴いた。ふらつきながら祭壇からおりてきたエリュシアを、アルテミス司祭が抱き締める。


「あなたが女神の祝福を享けたこと、母親として誇らしくおもいます」


 その言葉を聴いてはじめて、エリュシアは聖女に選ばれたのだと理解した。

 強く抱き寄せられた肩に雫がしたたり、司祭が感極まって涙をながしてくれているのだとわかる。


(あの時から私は聖女になった)


 …………


 砦での務めが終わって、エリュシアは聖都の教会に帰還していた。


 国境では敵の侵攻を警戒して緊張状態が続いているが、聖都は穏やかだ。民も豊かで、教皇のまつりごとがいかに安定しているかがわかる。教皇は老年ということもあり、昨冬から病臥びょうがしていると聴いていたが、政の腕に衰えはなかった。聖女もまた、民心を支える一端を担っている。

 祝福を授かった時のことを想いだしながら、エリュシアは執務室で事務をしていた。


 彼女の聖女としての務めは多岐にわたる。

 各地から教会に寄せられる嘆願書を振り分け、適切な処理をきめるのもその一環だ。

 採決した書類に聖女の印をす。魔物が集落に侵入するようになったという救援要請には聖騎士を派遣し、不作を訴える農耕地域には教皇に減税の申請をだした。


「あいかわらず、励んでいるね」


 ミュトス皇子が入室してきた。


「教師も褒めていたよ、キミのように有能な生徒はこれまでいなかったってね」


「恐縮でございます」


 エリュシアは椅子から腰をあげ、丁重に頭をさげる。褒めているはずなのに、彼の声は冷ややかだ。まだまだ、彼の理想には程遠いからだろう。


 彼女が事務を担っているのは次期教皇たるミュトスと婚約しているためでもあった。教皇とはいわば、神聖アルカディアの皇帝だ。その妻ということは皇后という扱いになる。十八歳になる一年後に結婚がきまっているため、政の勉強にも時間を割いていた。


「貴女はよくやっているよ。それは私も認めている。ただ、聖女というのは民を導く光なんだ。僅かでも陰りがあれば、民の心にまで暗雲が懸かってしまう、わかるね?」


「重々理解いたしております」


 会話に割りこむように執務室の扉がノックされた。ミュトス皇子は「なにかな」と僅かに苛だった様子で答えたが、紅茶を運んできたハルモニアをみて、表情が緩む。


「よろしければ、おふたりでお飲みになられてください」


「ありがとうございます、いただきますね。ただ、ミュトス殿下は御多忙ですので」


 婚約者ということもあり、エリュシアは何度かミュトス皇子を茶会や晩餐会に誘ったことがあるが、毎度断られてばかりだった。だがミュトス皇子はふっと微笑んで「せっかくだからいただこうかな」と紅茶を受けとる。


 意外だ。ミュトス皇子が一緒にお茶を飲むなんて。


「皇子様は砂糖をひとつと、まえにお聴きしていたので先に入れさせていただきました」


「ありがとう、気遣いが嬉しいよ、ハルモニア」


 エリュシアは知らなかったが、ふたりは以前から知りあいだったらしく、ずいぶんと親しげに喋っている。


 だが、唇をつけたのがさきか、ミュトス皇子は眉根を寄せた。


「これ、塩と間違えてないかな」


 エリュシアも慌てて飲んで確かめる。明らかに塩が入っていた。ハルモニアは真っ青になる。


「はわわっ、ごめんなさい。す、すぐに淹れなおしてきますっ」


「ふっ、いいよ、飲めないこともないからね」


「ほんとうにごめんなさい。わたし、いつっもだめだめで、このあいだも薬の補充をわすれていて。聖女候補なのに、ちっともお姉さまみたいになれません」


 畏縮するハルモニアだったが、ミュトス皇子はそんな彼女の髪をなでる。


「きみはそれでいいんだよ、ハルモニア。そんなきみの純真さに癒されているひとはたくさんいるんだから」


 そんなやり取りを眺めながら、エリュシアは眼を細める。


 穏やかな午後だ。

 日差しのなかで雲雀は歌い、窓から吹きこむ風はブッドレアの香りを運んできた。

 ブッドレアは夏の訪れを報せる花だ。

 こんなふうにゆったりとした時間を過ごすのはいつ振りだろうか。素晴らしい婚約者に愛らしい妹。

 幸せだ。

 これまでならば、そう疑いなく胸を張れたのに、唐突に虚しさを感じた。

 

 ふたりが遠い。


 教会のなかに聖女の死を望むものがいる――敢えて考えないようにしていた現実が、不意に頭を過ぎる。


 陰がすっと差すように心が冷えた。


 指の先端が震える。茶器を微かに鳴らしてしまった。とがめるようにミュトス皇子がこちらをみる。気掛かりなことでもあるのかとは尋ねてくれない。睨みつけるだけ。

 心がざわついた。

 だって、暗殺を策謀しているのが《《ミュトス皇子ではない》》という証拠は何処にもない。


「すみません。アルテミス司祭に薬草ハーブを摘んできてほしいと頼まれていたことを想いだしました。失礼いたします」


 たえきれず、エリュシアは退室する。


「お姉さまはおいそがしいんですね。聖女様が摘むと薬草の効能もあがるそうで。やっぱりお姉さまはすごいです」


「……そうだね」


 廊下を進むほどに遠ざかるふたりの声を聴きながら、エリュシアは震えのとまらない指を握り締めた。

 疑うまいとするほどに不信感は毒のように心を蝕み、これまで視線を逸らし続けてきた孤独感がばくとして拡がる。


 曇る心とは裏腹に、空は青く晴れていた。


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