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怖い話

気まぐれの小道

作者: 夢野かなめ

 それは、ひょんなことが切っ掛けだった。


 いつもは曲がらず通り過ぎる小道を曲がっただけ。


 大きな案件を終え、久々の何の予定も入れていない休日。朝から掃除などの家事を終え、すっきりとした気分で近所のコンビニへ甘いものを買いに行った帰り。


 浮ついた気持ちで、ふといつもとは違うことがしたくなった。


 それも、手がかからず頭を悩ませる必要のない、ほんの小さな差。違い。


 たったそれだけで。


 細川(ほそかわ)は見知らぬ街に居た。


 厳密には──見覚えは、ある。


 普段通らぬ道ではあるが、何度かは通ったり見かけたりした道に立っていた。


 小道自体に問題はないのだろう。幾度もその小道から近隣の住人が出てくるのを意識の端で捉えることがあったのだから。


 廃れてしまった道ではない。


 道とも呼べない場所を無理に通った訳ではない。


 ちゃんとした、しかし細い小道を通っただけ。


 ただ、それだけで。


「何処だ、此処……」


 その答えはふっと頭に沸く。


 S県M市。実家を出て以来、細川が長く住む街だ。


 しかし、細川が今立っている此の街は、見知った街であって、全く異なる街でもあった。


 混乱する頭をどうにか抑え、細川は道の端に寄り、塀に背を預けた。


 不安を吐き出すようにして息を吐く。だが、不安は少しも軽くならなかった。


 ──異常だ。


 小道を抜けた細川は、普段は通ることのない道に出た。


 何処か新鮮な気持ちで、大体の家の方角に向けて歩き出した細川は、すぐに異変に気が付いた。


 音がないのだ。


 街の中とはいえ、自然に起こる音は在る。それらが一切聞こえない。


 夕方も近づいた時刻に、人々が暮らす音が聞こえない。


 多くの人々が眠る夜中であっても、何かしらの音は聞こえてくるものだ。


 それが、一切、ない──。


 自身が持つコンビニの袋が立てるシャリシャリという音。靴が地面を擦る音。自分の吐息。衣擦れ。そうしたものは確かにある。しかし、それ以外が一切無かった。


 目を上げれば、書き割りのような空が広がっていた。雲は流れている。鳥が飛んでいる。しかし、ただ、それだけ。その光景が映し出されているだけ。


 意識を向ければ、人通りが一切なかった。


 住宅街において、夜中でもないのに人通りがないのは不自然だ。


 時折、窓の外から聞こえてくる人々の立てる音が不快に感じる時もあるというのに。


 今この街には、居ない。存在しない。


 辺りの家を窺ってみても、開いた窓から見えるのは、人の姿のない空っぽの部屋だけ。


 人の暮らしている形跡はある。だが、肝心の人間の姿はない。


 我が目を疑い、頭を疑った細川は、暫くその場で立ち竦んだ後、道を引き返した。


 何かを間違えたのなら、正せばいい。


 小道を戻り、通り慣れた道に出る。


 しかし、元居た道に戻ることはなかった。


 そこは、見知っていて、全く異なる道だった。


 夢か。そう思い、頬をつねるという行為をして、その滑稽さに失笑する。確かに痛みはあり、夢ではない。混乱している。


 ズボンからスマートフォンを取り出してみたが、画面に表示されている文字が読めなかった。認識は出来ている。しかし、意味が判らない。読めない。


 見れば、電信柱に付けられた看板や、町名を現す札。表札。掲示板に貼られたポスター。


 それら全てが理解出来なかった。


 認識は出来るが、理解は出来ない。


 薄気味悪さが身の内を侵食する。


「何が起きて……」


 細川の声は空しく消える。


 小道を通るまでは何の異変もなかった。小道を抜けて状況が変わった。その道を戻っても、元に戻ることはなかった。


「どうすれば……」


 声は震えている。


 ふと、道の先に視線を向けた細川は、近づいてくる人影に息を呑んだ。


 ──人だ!


 安堵を覚える筈の状況に、しかし細川の中で急速に膨れ上がったのは、恐怖だった。


 それは、根源的な本能に基づく恐怖だった。


 震える体で、人影に視線を釘づけたまま、細川はゆっくりと後退り、家と家の隙間に体を滑り込ませた。


 そこは、小道ではない。ただの、隙間。通るのは野良猫くらいだろう。


 じっと息を詰め、人影が道を過ぎるのを待つ。


 恐らく人影は道を真っすぐ進むのだろう。そうでなければ、この周辺の何処かの家に入るか。余程のことがなければ道を引き返すことはない。


 しかし、いくら待とうとも確かに見た人影は、目の前の道を過ぎていかなかった。


 不安と恐怖が膨れ上がる。


 例によって音はない。だから、人影が近づいているかどうかが判らない。


 心音が耳の奥で強くなっていく。


 ドク、ドク、ドクドクドクド、ドッドッドッ──。


 自身の吐く息が荒くなる。その音さえも道の向こうに届いてしまいそうで、必死に飲み込み、苦しさに口を開け、それを手で押さえる。


 ──無理だ。確認なんて、出来ない。


 通り過ぎる筈なのに、一向にそうならない人影。何処に行ってしまったのか。道を引き返したのか。確認しなくてはならない。しかし、それは、出来ない。


 フーッ、フーッ──。


 指の間から息が漏れる。


 どうするべきか。


 両脇の塀によって切り取られた景色を見つめながら悩んでいた細川は、ふと後ろに目をやった。


 それは、自然な動きだった。


 ただ、ふと視線を感じてそちらに意識を奪われた。それだけ。


 ──視線を……。


「あ、あぁ……」


 そこに居たのは、いや、在ったのは、老人の顔だった。


 細い空間にみっちりと詰まるようにして目を見開く老人の顔。


 老人は目を見開いたまま、ゆっくりと口を開け、何かの音を発した。


 それと同時に、細川は叫び声を上げながら隙間から抜け、転がるようにして通りへと出た。


 わぁわぁ言う自分の声が頭に響く。喉が痛い。叫んでいる。


 隙間を無理やり抜けたせいで手をすりむいていた。しかし、そのようなことを気にしている余裕はなかった。


 駆け出そうとした道の先に──立っていた。


 人影が、変わらず、立っていた。


 男だろうか。女だろうか。子供か、大人か、老人か。


 わぁわぁと自分の声が響く。黙れ。そう思うのに、意識と体はまるで別に動いていた。


 道に立っていたその人影は、ゆっくりと手を上げた。


 その手は、何の変哲もない手だった。


 手だ。肩から伸びる、腕の先の手。何の変哲もない。


 叫びは引き攣るように音を変えた。


 怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い。


 細川は駆け出した。


 足がもつれて転び、強かに腹を打つ。


 後ろを振り返ると──居る。


 人影は手をゆらゆらと揺らしながらじっと細川を見つめていた。


 パチリ。


 瞬きをすると、人影は少しだけ移動する。ゆらゆらと手を揺らしたまま、歩いている風でもないのに、道を移動する。


 パチッ、パチッ。


 人影は、その顔が確認出来る位置にまで近付いて来ていた。


 あぁあ、という声がふいに止んだ。


 そこで、自分が転んだ後もずっと叫び続けていたのだと理解する。


 叫べ。逃げろ。


 そう思うのに、体はいうことを聞かなかった。


 パチッ。


 パチッ。


 目の前の景色の中で、人影は少しずつ近付いて来ていた。


 男だろうか。女だろうか。子供か、大人か、老人か。


 それは、笑っていた。


 笑って、手をゆらゆらと揺らしていた。


 細川の、すぐ目の前で。


 景色が滲む。夕方の近付く平べったい太陽の色が景色に溶けていく。


 音はない。


 喉が痛む。


 ゆらゆらと手が揺れる。


 笑って──。



 カァ!



 鴉が啼いた。






「おい、兄ちゃん。起きろ。大丈夫か」


 ゆさゆさと体を揺すぶられ、細川は目を開けた。


 背中が痛み、冷たかった。


 視界の中で男が覗いている。


「わぁあ……っ!」


 叫び声は酷く掠れていた。喉の痛みを覚えて、細川は激しく咳き込んだ。


「大丈夫か。警察呼ぶか」


 その言葉を無視し、細川は辺りを見回した。


 ──帰って、来た?


 辺りはすっかり暗くなり、街灯が白くぼんやりと照らしている。


「酒飲んでる訳じゃなさそうだけど……喧嘩、でもないか。家はこの辺りか?」


 ぼんやりとしている細川を、男は随分と心配そうに見つめていた。自身の体を見回し、暫く黙り込んだ細川は、色々と訊ねてくる男に答えず、立ち上がった。


「おい、こっちの質問に──」


「すみません。大丈夫です」


 手が擦り剝けていた。声が嗄れていた。体中が痛み、嫌な感覚が胸の中に残っていた。


 それでも。


「ご心配おかけしました」


 頭を下げ、歩き出す細川に「ならいいけどよ」という男の声が追いかけるように届いた。


 ──戻って来た。


 見れば、辺りはすっかり見慣れた景色に戻っていた。看板も表札もポスターも、読める。


 音もある。


 ハハ、と小さく笑う声も掠れていたが、喜びに満ちてた。


 街灯が照らす道を、まるで軽くなった足で自宅まで急ぐ。


 見覚えのあるアパート。外階段。隣家の話し声と遅めの夕飯の香り。


 そういえば、コンビニの袋は何処に行ってしまったのだろう。まぁ、いいか。


 玄関の鍵を開けようとした細川は、すいと慣れた手つきで伸ばした手を宙で止めた。


 逆だ。


 ノブが付いている方とは逆に手を掲げていた。


 手を横にずらし、鍵穴に鍵を差す。


 鍵を回し──開かない。


「あぁ、違う」


 思わず呟いた独り言に、何処か恥ずかしさを感じながら鍵を反対に回すと、カチャリと鍵は開いた。


 扉を開けば見慣れた我が家。


 安堵したのか急に催した細川は、玄関すぐのトイレのドアに手を伸ばした。


 ──逆。


 掲げた手はドアノブとは反対に伸びていた。


「まぁ、仕方ない」


 あれだけのことがあったんだ。まだ多少頭が混乱しているようだ。そう小さく笑った細川は、手を横にずらしノブを捻った。


 今夜は早く寝てしまおう。


 無事に、帰って来たのだから──。


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