裂け目
下士官候補生への昇進が決まってから、周囲の目が変わった。
賞賛と嫉妬、憧れと警戒。
だがそれらの視線に、リシアは何も感じていなかった。
――必要な行動をした。ただそれだけだ。
自分の判断は正しい。
戦場で生き残るためには、感情を殺し、合理を優先するべきだ。
それができない人間から、死ぬ。
現実とはそういうものだ。
だが、その日の夕刻。
彼女に、思わぬ“感情”がぶつけられることになる。
「なあ、ちょっといいか」
廊下の隅で声をかけてきたのは、かつて同じ班だったラゼル。
栗色の髪に、まだ幼さの残る顔。だがその瞳は、かすかな怒りを孕んでいた。
「……何か?」
「お前、前の模擬戦で言ったよな。“仲間を囮にして勝つ”って」
「必要だったからそうした。あれは勝利条件を満たす最短ルートだった」
「……そうか。でもさ――俺たち、人間だぞ?」
その一言に、リシアの表情がわずかに動く。
それは、戸惑いか。それとも、興味か。
「人間……感情を持つ存在、という意味か?」
「そうだよ。戦場だって、誰かが死ぬたびに、ちゃんと何か感じるべきだろ?
なのに、お前は“当然の判断です”とか、“合理的です”とか……何なんだよ、本当にお前、俺たちと同じ人間か?」
沈黙が落ちる。
リシアはしばらく考え、答えた。
「――わからない」
「……は?」
「私が何なのか、私自身もよくわからない。
私は“生き残る”ために最適な行動を取っているだけ。感情は、その邪魔になる」
ラゼルは言葉を失う。
だがその一瞬、リシアの顔に、微かな“迷い”が宿っていた。
「……それでも、“ありがとう”ぐらい言ってもよかったんじゃないか」
「ありがとう?」
「俺たちを、生かしたことにだよ」
リシアは口を開きかけたが、何も言えなかった。
その感情は、“想定外”だった。
ラゼルは軽くため息をつき、背を向けた。
「まあ、いいけどさ。……お前の背中、なんか寒いんだよな。見てて」
その言葉が、胸に残った。
“寒い”――それは、兵器に向けられる言葉ではない。
人としての、警告だった。
その夜、リシアは珍しく眠れなかった。
(……私は、間違っていたのか?
違う。判断は正しい。結果も得た。
でも――何かが、欠けている……?)
感情ではなく、思考として。
それでも、そこに確かに“ひっかかり”があった。
彼女の中で、「兵器」としての回路に、わずかなノイズが走り始めていた。