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紅き軍靴は少女に微笑む  作者: フローレンス
1章 大戦のはじまり
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怒り

帝国領境界・灰色の丘

最終防衛戦・終盤


 陽は昇らないまま、空は鉛色に沈んでいた。

 砲煙と土埃が視界を塞ぎ、耳には自軍と敵軍の叫びが渦巻く。


「左翼、持ちこたえろ! 右翼の増援はまだか!」

 ラゼルの怒鳴り声が前線を貫く。


 だが、その叫びも、砲撃の轟音に呑まれた。


崩れる防衛線


 リシアは双眼鏡越しに敵の装甲突撃を見た。

 王国軍の新型戦車が前衛を押し潰し、歩兵が瓦礫を縫って突進してくる。

 後方では、ティア・クレイン軍曹が必死に包帯を締め、薬液を注射し、血の海の中で兵士を繋ぎ止めていた。


「少佐! 狙撃手が――」

 警告が聞こえた瞬間、リシアの脇を銃弾がかすめた。


 次の刹那、影が横から飛び込む。

「危ない!」


 それは、訓練時代からリシアを知る古参の下士官だった。

 彼はリシアを押し倒し、その背中に銃弾を受けた。


「っ……!」

 硬直するリシアの腕の中で、彼の血が温かく広がる。


「……少佐……あんたは、生きろ……」

 その言葉と共に、彼の体から力が抜けた。


ティアの怒り


 後方でその光景を見たティアは、片膝をついたまま拳を震わせた。

 友を、仲間を、これ以上奪われたくない――その感情が胸の奥で煮えたぎる。


「……もう、許さない……!」

 彼女の青い瞳は怒りに燃え、いつもの穏やかさは消えていた。

 治療具を放り、倒れた兵士の銃を拾い上げると、前線へと駆け出す。


リシアの“崩壊”


 リシアは膝をついたまま、冷たいはずの心が焼けるように熱くなるのを感じた。

 軍人としての冷徹な判断も、戦場で培った沈着も、その瞬間には消えていた。


「……殺せ……一人残らず……」


 それは命令ではなく、呪詛のようだった。

 第零師団の兵士たちはその声に背筋を凍らせ、次の瞬間、一斉に突撃を開始した。


 銃弾が唸り、敵兵が倒れ、泥に沈む。

 リシアはもう前線の形も忘れ、目に入る敵を狙い撃ち続けた。


最終防衛戦・終盤


 敵戦車の砲撃で地面が揺れ、泥と血の匂いが混じった風が吹き抜けた。

 リシアは仲間の亡骸の傍らで膝をつき、なお迫る王国軍を睨み据えていた。


 その後方で、ティア・クレイン軍曹は必死に負傷兵の処置を続けていた。

 彼女の白い袖はすでに真紅に染まり、指は震えている。だが手元の包帯は乱れない。


「しっかり……まだ息してる……!」

 額の汗を袖で拭いもせず、ティアは次の兵のもとへと身を投げ出した。


弾丸の軌跡


 耳を劈く銃声が響く。

 それが誰を狙ったものか、ティアは瞬時に悟った。

 敵の狙撃手――その銃口は、前線で指揮を執るリシアへと向けられていた。


「……っ!」

 思考より先に、体が動いた。

 ティアは立ち上がり、リシアとの間に身を投げ出す。


 乾いた破裂音。

 衝撃が胸を貫き、息が詰まった。


揺れる視界


 リシアは、血飛沫の向こうでティアが崩れ落ちるのを見た。

「……ティア!」

 駆け寄ると、彼女は薄く笑みを浮かべていた。


「……少佐……間に合って、よかった……」


 手袋の上に、温かいものが滴る。

 リシアは必死に止血を試みたが、傷は深く、呼吸は浅くなっていく。


「しゃべるな……まだ助かる」

 リシアの声は震えていた。


「……生きて……ください……あなたが、生きれば……皆……」


 その言葉とともに、ティアの瞳から光が消えた。



 リシアの胸に、焼けるような怒りが突き上げる。

 理性も戦術も、帝国軍人としての冷徹さも、その瞬間には消え失せていた。


「……殺せ。全員、殺せッ!」


 怒号とともに、第零師団が前線を押し返す。

 銃剣が突き立ち、榴弾が炸裂し、泥と血が飛び散る。

 リシアは先頭で敵兵を薙ぎ倒し、その眼には怒りだけが宿っていた。


帝国領境界・灰色の丘

撤退戦への移行


 戦場を切り裂く風が、焦げた鉄と血の匂いを運んでくる。

 ティアの亡骸から手を離したリシアは、深く息を吸い込んだ。

 胸の奥で渦巻く怒りは、未だ冷えない。だが――指揮官として生き残らせるべきものがある。


「……全隊、後退準備。遅れるな」


 声は低く、震えひとつない。だが部下たちは、その瞳の奥に燃える何かを感じ取っていた。


ラゼルの報告


「残存兵力、歩兵五十八、戦車三両、装甲車一両。重火器はほぼ残弾ゼロだ」

 ラゼル中尉が血に汚れた地図を差し出す。

「敵は北西丘陵から迂回しつつ包囲狙い……完全撤退は難しい」


「難しいからこそやる。包囲網を崩す。歴史の中でいくらでもやり方はある」

 リシアは地図上の一点を指先で叩く。

「ここで囮部隊を置く。敵主力を引きつけた瞬間、残存車両で南の渡河点を突破。あとは夜のうちに森へ潜る」


「……クラウゼヴィッツ式か?」

「名前なんてどうでもいい。ただ、生き残らせるだけだ」


追撃との初交戦


 撤退列が動き出すと同時に、王国軍の装甲車と騎兵混成隊が背後を追ってきた。

 泥にタイヤが沈み、曳光弾が夜闇を裂く。


「後衛、発砲開始! 撃ち返せ!」

 リシアの声が飛ぶ。

 伏せていた機関銃手が一斉に火を吹き、森際から土砂が弾け飛ぶ。


 数分の撃ち合いの後、囮部隊が敵の正面を押さえた。

 その間に、本隊は密かに進路を南へ変える。


指揮官の心


 だが、リシアの耳にはまだティアの声が残っていた。

 ――「あなたが、生きれば……皆……」


 あの笑みを忘れないためにも、この撤退は成功させねばならない。

 帝国も戦争もどうでもいい。第零師団だけは、生きて本国へ帰す。


 そう決めた彼女は、再び手を振り上げた。

「――走れ! 生き延びろ!」


 その声は、怒りと悲しみと覚悟をすべて飲み込んだ、鋼のような響きだった。


最終防衛線での攻防


 谷を抜けた瞬間、王国軍の先鋒部隊が追いついた。装甲車が泥を跳ね上げ、機関砲が火を噴く。

 後衛に配置された分隊が次々と応戦し、橋の手前で必死に時間を稼ぐ。


 リシアは即席の指揮所から声を飛ばす。

「第二班、丘の斜面へ! 撃ちながら下がれ! 敵の正面を捻じ曲げる!」


 ラゼルが指示通りに戦車を回し、砲撃で道路を封鎖する。

 爆炎と土煙が舞い、谷の出口が一瞬の炎の壁に包まれた。


 その隙に、本隊が国境の防御陣地へ滑り込む。


リシアの確信


 銃声が遠ざかり、国境標識が目に入る。

 だが、リシアは喜びの言葉を口にしなかった。


(ここを越えても、帝国はもう……)


 自分が今やっているのは、国家への忠誠ではない。

 ただ、第零師団を――ティアが命を懸けた仲間たちを、生かすための行動。


「行くぞ。もう誰も置いていかない」

 そう呟く声に、疲弊した兵たちの視線が自然と集まった。


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