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貞子の街ブラ





淡いピンクのブラウスに、柔らかな素材のスカート。鏡に映る自分は、どこにでもいる普通の若い女性に見える。昨日の、長く重い黒髪と白いワンピースの幽鬼のような姿とはまるで別人だ。手に入れたばかりのメイク道具を使い、慣れない手つきで薄く口紅を塗ってみる。少しだけ、顔色が明るくなった気がした。


私は今、賑やかな商店街を一人で歩いている。カラフルな看板、美味しそうな匂い、行き交う人々の楽しそうな話し声。全てが、井戸の底の暗闇とはあまりにもかけ離れた世界だ。


昨日、思い切って入った小さなブティックで、店員のおすすめの服を選んだ。最初は戸惑ったけれど、親切な店員さんが丁寧にアドバイスしてくれて、気がつけば数着の服と、必要最低限のメイク道具を手にしていた。お金は、あの古いバッグに入っていたものを少しずつ使っている。


お腹が空いたので、店頭に美味しそうな湯気を立てているラーメン屋に入ってみた。カウンターに座り、メニューを見て悩む。ラーメンの種類がたくさんあって、何が何だかわからない。隣の人が美味しそうに食べているのを見て、一番シンプルな醤油ラーメンを注文してみた。


運ばれてきたラーメンは、熱くて、香ばしくて、私がこれまで味わったことのないものだった。麺を啜り、スープを飲むたびに、じんわりと体が温まっていく。周りの人々は、当たり前のようにラーメンをすすり、会話を楽しんでいる。その様子を、私は静かに観察した。


楽しそうに笑い合うカップル。スマートフォンを見ながら歩く若い女性。小さな子供の手を引く母親。皆、それぞれの日常を生きている。彼らには、私のような過去も、呪いの力もない。ただ、今この瞬間を生きている。


(…彼らは、何を考えて生きているんだろう?)


井戸の中で、私はただ怨念を募らせ、呪うことしか知らなかった。でも、こうして陽の光の下を歩き、美味しいものを食べ、人々の営みを目の当たりにすると、これまで自分が囚われていたものが、いかに狭く、暗い世界だったのかを思い知らされる。


カフェに入り、コーヒーを飲みながら、さらに人間観察を続けた。隣の席の女性二人は、楽しそうにおしゃべりをしている。仕事のこと、恋のこと、趣味のこと。その内容は、私には遠い世界の出来事のように聞こえるけれど、彼女たちの表情は生き生きとしていて、とても魅力的だ。


スマートフォンを操作する人々の多さにも驚いた。皆、小さな画面に夢中になっている。情報、 communication、 entertainment。それは、私にとって未知のツールだ。もしかしたら、この中に、私が過去に生み出してしまったような、恐ろしいものが潜んでいるのかもしれない。でも同時に、人々の生活を豊かにする、素晴らしい力を持っているのかもしれない。


(…私も、いつか、あんな風に笑える日が来るのかな?)


ふと、そんなことを思った。呪いの記憶は、まだ心の奥底にこびり付いているけれど、新しい服を着て、美味しいものを食べ、美しい景色を見るたびに、少しずつ薄れていくような気がする。


もちろん、過去の行いを簡単に忘れられるわけではない。私が多くの人々を苦しめてきた事実は、決して消えない。それでも、この新しい生を与えられたのなら、過去の償いをするように、静かに、そして慎重に生きていきたい。


人々を観察すればするほど、彼らの持つ感情の豊かさに気づかされる。喜び、悲しみ、怒り、愛情。それは、かつての私にはほとんど欠けていたものだ。これからの私は、そうした感情を少しずつ理解し、自分自身の心も豊かにしていきたい。


夕暮れ時、私は公園のベンチに座って、空を見上げた。茜色に染まる空は、とても美しかった。こんなにも美しい世界があることを、私はこれまで知らなかった。


明日、私は何をしようか。新しい街を散策するのもいいかもしれない。図書館に行って、この世界のことをもっと学ぶのもいいかもしれない。


まだ、この世界で何をすべきか、明確な目標は見つからない。それでも、昨日までの絶望的な気持ちは、もうどこにもない。新しい服をまとい、美味しい食事を楽しみ、人々の生活を観察することで、私の心には、小さな希望の光が灯り始めている。


いつか、私も彼らのように、ごく普通の幸せを手に入れることができるだろうか。今はまだ、想像もできないけれど、それでも、この新しい生を、大切に生きていきたいと、心からそう思った。

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